第7話:地下二階のアトリエ――第二作品「氷の姫」
鏡の中の男が、ニヤリと笑った。
僕が笑ったわけではない。
僕は無表情でネクタイを締めているのに、鏡像の「僕」だけが、口角を吊り上げて嗤っているのだ。
「……身嗜みは完璧だよ、レン」
鏡の中の僕が喋る。声は僕のものだが、抑揚が違う。もっと傲慢で、粘り気のある声。
「ああ、ありがとう」
僕は平然と答えた。
最初のうちは驚いたが、もう慣れてしまった。
これは解離性同一性障害などではない。
もっと高次な、霊的な同居だ。
彼――いや、彼ら――は、僕にインスピレーションを与えてくれるミューズであり、共犯者だ。
「今日の彼女は、どうするつもりだ?あのライターの小娘」
鏡の男が問う。
「夏希さんのことか。彼女はまだだ。まだ熟していない」
「勿体ぶるなよ。あの生命力……絶望で染め上げたら、さぞ美しい色になるぞ」
「急かすな。彼女は特別なんだ。僕の最後の傑作にするつもりだ」
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
鏡の中の男は、「楽しんでおいで」と言わんばかりにウィンクをして、スッとただの僕の反射に戻った。
僕は深呼吸をして、努めて「普通の好青年」の仮面を被り、玄関へ向かった。
「こんにちは、黒崎さん!取材の続き、いいですか?」
扉を開けると、夏希が太陽のような笑顔で立っていた。
彼女が持ち込む外の空気は、カビ臭いホテルの中には眩しすぎる。
だが、そのコントラストこそが、僕の創作意欲を刺激する。
「どうぞ、夏希さん。散らかってますが」
リビングに通し、コーヒーを淹れる。
夏希は部屋を見回し、テーブルの上に置かれたスケッチブックに目を留めた。
「わあ、これ、新しいデザイン案ですか?」
彼女が指差したのは、僕が昨夜、半ばトランス状態で描いたデッサンだった。
硝子の棺の中で眠る女性の絵。
その周囲を、氷の結晶のような装飾が取り囲んでいる。
「……ええ。『永遠の眠り』をテーマにした客室の構想です」
「すごい……なんだか、怖いけど綺麗。この女性、本当に眠ってるみたい」
夏希の無邪気な感想に、僕は背筋がゾクゾクするのを感じた。
君だよ。
そこに描かれているのは、未来の君だ。
「夏希さん」
「はい?」
僕は彼女の正面に座り、その目をじっと見つめた。
手首の白いアザが熱い。
「白い手」が、僕の喉を使って言葉を紡ぎたがっている。
「僕はね、ずっと探していたんです。僕のこの美学を、本当に理解してくれる人を」
「美学……死が生の完成形、というお話ですか?」
「そうです。世間は僕を狂っていると言うかもしれない。でも、君ならわかってくれる気がする」
僕は身を乗り出し、彼女の手をそっと握った。
夏希の手は温かかった。
脈打つ血流。柔らかな皮膚。
これを、冷たく硬質な硝子に変えたいという欲望が、奔流となって押し寄せる。
「君を、僕の最後の美にしたい」
言葉が、勝手に口をついて出た。
それは、最大級の殺害予告であり、歪みきった求愛だった。
夏希は一瞬きょとんとして、それから頬を赤らめた。
「えっ……それって……その、プロポーズ的な……?」
彼女は、言葉の裏にある真意に気づいていない。
芸術家特有の、キザな口説き文句だと勘違いしているのだ。
「ふふ、まあ、そんなところです。僕の人生をかけた、最後のプロジェクトのパートナーになってほしい」
「黒崎さん……」
夏希は照れくさそうに視線を逸らした。
まんざらでもない反応だ。
彼女は、この危険な男の、危険な魅力に惹かれ始めている。
蛾が、炎に飛び込むように。
「でも、今はまだ記事を書くだけにしておきますね。私、公私混同はしない主義なので!」
彼女は明るく笑って誤魔化したが、その瞳の奥には、僕への執着の火が灯っていた。
「焦りませんよ。時間はたっぷりある」
僕は微笑み返した。
そう、急ぐ必要はない。
まずは手近な材料で、技術を磨くのだ。
地下には、一昨日チェックインした、もう一人の「お客様」が待っているのだから。
***
地下二階の奥。
元は食肉用の冷凍保管庫だった部屋。
分厚い断熱扉を閉めると、そこは外界から隔絶された極寒の世界となる。
室温マイナス20度。
僕の吐く息が白く凍る。
防寒コートを着ていても、骨の髄まで冷える寒さだ。
だが、中央の椅子に縛り付けられた女性には、薄いネグリジェ一枚しか与えられていなかった。
彼女の名はミキ。30代半ばの、美容整形中毒の女性だった。
『老いるのが怖い』『今の美しさを留めておきたい』
チェックインの際、彼女はそう漏らしていた。
「寒い……出して……お願い……」
ミキの唇は紫色に変色し、全身がガタガタと激しく震えている。
まつ毛には霜が降り、涙も頬で凍りついていた。
「大丈夫ですよ、ミキさん。あなたの願いを叶えてあげているんです」
僕はカメラのレンズ越しに彼女を覗いた。
シャッターを切る。カシャ、という乾いた音が、静寂に響く。
「老いとは、酸化であり、腐敗です。でも、氷の世界では時間は止まる。あなたは今、永遠の若さを手に入れようとしている」
「い、や……しにたく、ない……」
「死ぬのではありません。保存されるのです」
僕は壁のレバーを引いた。
天井のスプリンクラーのようなノズルから、ガスが噴射される。
前回とは違う成分。
「サクラサク」と名付けられたそのガスは、低温下で反応し、細胞内の水分を結晶化させずにガラス化する特殊な混合気体だ。
シューッ……。
淡いピンク色のガスが、ミキを包み込む。
「ゴホッ、ゴホッ……あ、あ……」
彼女の震えが、徐々に小さくなっていく。
ガスの作用で、意識が急速に遠のいているのだ。
そして、驚くべき変化が起きた。
紫色だった唇に、鮮やかな赤みが戻り、肌が透き通るような桜色に染まっていく。
生きている時よりも、遥かに血色が良く、それでいて作り物めいた美しさ。
「すごい……」
僕は思わず息を呑んだ。
彼女の体は、氷像のように硬直しつつあった。
恐怖に歪んでいた表情筋が緩み、ガスによる陶酔感で、恍惚とした笑みを浮かべたまま凍りついていく。
ピキッ、ピキ、ピキッ……。
微細な音が聞こえる。
皮膚の表面が薄い氷の膜で覆われ、ダイヤモンドダストのようにキラキラと輝き始めた。
完全に動きが止まった。
彼女は、椅子に座ったまま、永遠の「氷の姫」となった。
僕は彼女を椅子から外し、あらかじめ用意しておいた強化ガラスのケースへと運んだ。
ケースの中は真空になっており、腐敗も融解も許さない。
LEDライトを点灯させる。
冷たい光に照らされた彼女は、現代アートのオブジェそのものだった。
「完璧だ……」
僕は再びカメラを構えた。
様々なアングルから、彼女の死顔を撮影する。
この写真は、僕の個人的なコレクションであり、地下で蠢く「彼ら」への報告書だ。
「どうだ、神代先生。あなたの理論は正しい」
僕は独り言を呟いた。
神代巖。
この場所で人体実験を行っていた主犯格の医師の名前が、自然と口をついて出た。
僕の中の記憶が、彼とリンクしている。
『悪くない……だが、まだ足りない』
脳内で声が響く。
『魂の抽出が不完全だ。もっと……もっと絶望と愛が入り混じった、濃厚な魂が必要だ』
「わかっている。次はもっと上手くやる」
僕はガラスケースに手を触れた。
冷たい感触。
その向こうで微笑むミキの瞳が、僕を見つめ返しているように見えた。
背後で、重い扉が開く音がした。
誰もいないはずなのに。
いや、いるのだ。
あの白い手たちが。無数の見えない観客たちが、このアトリエに集まってきている。
僕は振り返り、闇に向かって一礼した。
「次回の展覧会にご期待ください。メインディッシュは、まだこれからですから」
ホテルの外では、サイレンの音が遠く聞こえていた。
警察が近づいている。
それすらも、この狂気の舞台を盛り上げる演出の一つのように思えた。




