第5話:最初の「作品」
湯気が、白く甘美な夢のように視界を曇らせていた。
ホテルの最上階、特別室「月光の間」。
改装を終えたばかりのこの部屋には、最高級の檜風呂が設えられている。
窓の外には、森の闇と、その向こうに広がる都会の夜景が、宝石箱をひっくり返したように輝いていた。
「素敵な眺め……まるで、天国にいるみたい」
湯船に浸かる女性、サユリがうっとりとした声を漏らす。
彼女は都会の喧騒と人間関係に疲れ、癒やしを求めてこのモニター宿泊に応募してきた最初の客だった。
白い肌、長い黒髪、そして憂いを帯びた瞳。
彼女は素材として、悪くなかった。
「お気に召して何よりです。このお湯には、特別なアロマを調合してあります。心身の浄化を促す、古来の秘薬ですよ」
僕は脱衣所の磨りガラス越しに、優しく語りかけた。
手元の操作パネルに指を這わせる。
空調システムの制御画面。そこに表示された「排気停止」「特殊ガス噴射」の項目が、僕の鼓動を早める。
「いい香り……なんだか、桜のような、アーモンドのような……」
「ええ、深く吸い込んでください。体の芯から、生まれ変われますから」
それは嘘ではなかった。
彼女は生まれ変わるのだ。
ただの「生きている肉塊」から、永遠に腐ることのない「芸術」へと。
僕はスイッチを押した。
シューッという微かな音と共に、浴室の通気口から無色のガスが送り込まれる。
ヒ素をベースに、僕の中に巣食う「彼ら」の知識を借りて調合した特殊ガス。
苦しみを与えるためのものではない。
血中の酸素を奪いながら、同時に防腐作用をもたらし、皮膚を陶磁器のように白く硬化させる「聖なる霧」だ。
「あれ……?なんだか、体が……ふわふわして……」
サユリの声が、次第に呂律が回らなくなっていく。
「眠っていいんですよ。そのままで」
「う、ん……きもち、いい……」
チャプン、と水音がした。
彼女の腕が力なく湯船に沈んだ音だ。
僕はさらに十分ほど待った。
静寂。
森の木々がざわめく音だけが、浴室の換気扇を通して微かに聞こえる。
防毒マスクを装着し、僕は浴室の扉を開けた。
湯気の中に浮かび上がった光景に、僕は膝を震わせた。
「美しい……」
サユリは、湯船の縁に頭をもたせかけ、目を閉じていた。
苦悶の表情など微塵もない。
その肌は、生前よりも遥かに白く、透き通るような青白さを帯びていた。血管の一本一本が、まるで大理石の模様のように美しく浮き出ている。
魂という不純物が抜け落ち、完璧な物質としての静謐さだけがそこにあった。
「さあ、仕上げだ」
僕は用意していた籠から、深紅の薔薇の花弁を鷲掴みにした。
パラパラと、彼女の白い肌へ、そして透明な湯面へと撒き散らす。
白と赤のコントラスト。
死と愛の象徴。
僕は彼女の体を抱き上げた。
軽い。魂の重さがなくなった分、重力を感じないかのようだ。
冷え始めたその体をシーツで包み、業務用エレベーターで地下へと運ぶ。
地下二階。
あのシュートの前へ。
『待ちわびたぞ……』
『早く……我々に……』
壁のシミが、床の汚れが、人の顔に見える。
無数の囁きが、僕を急かす。
「ああ、わかっている。彼女は君たちへの最初の供物だ」
僕はサユリの遺体を、シュートの滑り口に横たえた。
その胸に、一輪の薔薇を添える。
滑り台の表面には、微細な針のような突起が無数に仕込まれていた。
これから彼女が滑り落ちていく過程で、その針が皮膚に幾何学模様の傷を刻む。
それは「痛み」ではなく「刺繍」だ。
「行ってらっしゃい。君はこれから、もっと美しくなる」
トン、と背中を押す。
衣擦れの音と共に、彼女の体は闇の底へと滑り落ちていった。
ズルズル、ザザザ……という音が、次第に遠ざかっていく。
やがて、遥か底で「ドサッ」という鈍い音が響いた時、僕の手首の白いアザが、快楽に似た熱を持って脈打った。
僕は恍惚として、自分の手を眺めた。
震えは止まっていた。
代わりに、完璧な仕事を成し遂げた職人の、冷徹な満足感だけが満ちていた。
これが、僕の天職だ。
建築家として空間を作るのではない。
死という素材を使って、永遠の瞬間を構築するのだ。
僕はポケットから手帳を取り出し、走り書きをした。
『作品番号1:薔薇の睡り姫』
『所見:皮膚の蒼白化は成功。次回は、より透明感を追求すべし』
暗闇の中で、誰かが拍手をしたような気がした。




