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ようこそ、"そちら側"へ ~逃れられない怪異の招待状~  作者: silver fox
第20章:その殺人鬼を、死刑にしてはいけなかった。封印された呪いが解き放たれ、都市が白い手形に埋め尽くされるまで

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第5話:最初の「作品」

 湯気が、白く甘美な夢のように視界を曇らせていた。


 ホテルの最上階、特別室「月光の間」。

 改装を終えたばかりのこの部屋には、最高級の檜風呂が設えられている。

 窓の外には、森の闇と、その向こうに広がる都会の夜景が、宝石箱をひっくり返したように輝いていた。


「素敵な眺め……まるで、天国にいるみたい」


 湯船に浸かる女性、サユリがうっとりとした声を漏らす。

 彼女は都会の喧騒と人間関係に疲れ、癒やしを求めてこのモニター宿泊に応募してきた最初の客だった。

 白い肌、長い黒髪、そして憂いを帯びた瞳。

 彼女は素材として、悪くなかった。


「お気に召して何よりです。このお湯には、特別なアロマを調合してあります。心身の浄化を促す、古来の秘薬ですよ」


 僕は脱衣所の磨りガラス越しに、優しく語りかけた。

 手元の操作パネルに指を這わせる。

 空調システムの制御画面。そこに表示された「排気停止」「特殊ガス噴射」の項目が、僕の鼓動を早める。


「いい香り……なんだか、桜のような、アーモンドのような……」


「ええ、深く吸い込んでください。体の芯から、生まれ変われますから」


 それは嘘ではなかった。

 彼女は生まれ変わるのだ。

 ただの「生きている肉塊」から、永遠に腐ることのない「芸術」へと。


 僕はスイッチを押した。

 シューッという微かな音と共に、浴室の通気口から無色のガスが送り込まれる。

 ヒ素をベースに、僕の中に巣食う「彼ら」の知識を借りて調合した特殊ガス。

 苦しみを与えるためのものではない。

 血中の酸素を奪いながら、同時に防腐作用をもたらし、皮膚を陶磁器のように白く硬化させる「聖なる霧」だ。


「あれ……?なんだか、体が……ふわふわして……」


 サユリの声が、次第に呂律が回らなくなっていく。


「眠っていいんですよ。そのままで」

「う、ん……きもち、いい……」


 チャプン、と水音がした。

 彼女の腕が力なく湯船に沈んだ音だ。


 僕はさらに十分ほど待った。

 静寂。

 森の木々がざわめく音だけが、浴室の換気扇を通して微かに聞こえる。


 防毒マスクを装着し、僕は浴室の扉を開けた。

 湯気の中に浮かび上がった光景に、僕は膝を震わせた。


「美しい……」


 サユリは、湯船の縁に頭をもたせかけ、目を閉じていた。

 苦悶の表情など微塵もない。

 その肌は、生前よりも遥かに白く、透き通るような青白さを帯びていた。血管の一本一本が、まるで大理石の模様のように美しく浮き出ている。

 魂という不純物が抜け落ち、完璧な物質としての静謐さだけがそこにあった。


「さあ、仕上げだ」


 僕は用意していた籠から、深紅の薔薇の花弁を鷲掴みにした。

 パラパラと、彼女の白い肌へ、そして透明な湯面へと撒き散らす。

 白と赤のコントラスト。

 死と愛の象徴。


 僕は彼女の体を抱き上げた。

 軽い。魂の重さがなくなった分、重力を感じないかのようだ。

 冷え始めたその体をシーツで包み、業務用エレベーターで地下へと運ぶ。


 地下二階。

 あのシュートの前へ。


『待ちわびたぞ……』

『早く……我々に……』


 壁のシミが、床の汚れが、人の顔に見える。

 無数の囁きが、僕を急かす。


「ああ、わかっている。彼女は君たちへの最初の供物だ」


 僕はサユリの遺体を、シュートの滑り口に横たえた。

 その胸に、一輪の薔薇を添える。

 滑り台の表面には、微細な針のような突起が無数に仕込まれていた。

 これから彼女が滑り落ちていく過程で、その針が皮膚に幾何学模様の傷を刻む。

 それは「痛み」ではなく「刺繍」だ。


「行ってらっしゃい。君はこれから、もっと美しくなる」


 トン、と背中を押す。


 衣擦れの音と共に、彼女の体は闇の底へと滑り落ちていった。

 ズルズル、ザザザ……という音が、次第に遠ざかっていく。

 やがて、遥か底で「ドサッ」という鈍い音が響いた時、僕の手首の白いアザが、快楽に似た熱を持って脈打った。


 僕は恍惚として、自分の手を眺めた。

 震えは止まっていた。

 代わりに、完璧な仕事を成し遂げた職人の、冷徹な満足感だけが満ちていた。


 これが、僕の天職だ。

 建築家として空間を作るのではない。

 死という素材を使って、永遠の瞬間を構築するのだ。


 僕はポケットから手帳を取り出し、走り書きをした。

『作品番号1:薔薇の睡り姫』

『所見:皮膚の蒼白化は成功。次回は、より透明感を追求すべし』


 暗闇の中で、誰かが拍手をしたような気がした。


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