第3話:夏希の接近
マイの事故から数日後。
現場には重苦しい空気が漂っていたが、僕は一人、上機嫌で作業を進めていた。
手首の白い手形は、日を追うごとにくっきりとその輪郭を増している。まるで、僕の体の一部になろうとしているかのように。
「すみませーん、こんにちは!」
静寂を破る、場違いなほど明るい声が響いた。
振り返ると、エントランスの瓦礫を跨いで、一人の女性が入ってくるところだった。
ショートカットの髪に、活動的なパーカー姿。首から一眼レフカメラを下げている。
「……ここは関係者以外立ち入り禁止ですが」
僕は努めて冷淡な声を装った。
「あ、ごめんなさい!私、フリーライターの滝川夏希と言います」
彼女は悪びれもせず、名刺を差し出した。
滝川夏希。オカルト雑誌やWebメディアで怪談記事を書いているライターだ。
「実は、このホテルの改修工事が始まったって聞いて、取材に来たんです。ここ、『出る』って有名でしょう?」
彼女の瞳は、好奇心でキラキラと輝いていた。
このホテルの闇を、ただのエンターテインメントとして消費しようとする浅はかな人種。
普段なら追い返すところだが、なぜか僕は、彼女を拒絶する気になれなかった。
「幽霊なんていませんよ。ただの古い建物です」
「えー、でも先週、アルバイトの女の子が倒れたって噂、聞きましたよ?『白い手を見た』って言い残して」
情報が早い。
僕は少しだけ興味を惹かれた。
「彼女は何も言い残していませんよ。ただの貧血です」
「そうですか……残念。でも、オーナーさん。あなた、変わった経歴をお持ちなんですね。建築家として数々の賞を取りながら、突然こんな廃墟を買い取るなんて」
夏希は、僕の顔をじっと覗き込んだ。
その視線には、不躾な好奇心だけでなく、どこか温かい共感のようなものが混じっていた。
「私は、ただの怪談記事を書くつもりはないんです。建物には記憶が宿る。そして、それを再生させようとする人にも、何か特別な想いがあるはずだって」
特別な想い。
僕はふと、自分の計画を口にしていた。
「……僕は、死を忌むべきものだとは思っていません」
「え?」
「現代人は死を隠そうとする。病院の白い壁の向こうへ、葬儀場の黒い幕の裏へ。でも、死は生の完成形です。最も美しい瞬間だ。このホテルは、そんな『死の美学』を感じられるアート空間にするつもりなんです」
狂気じみた独白だと、自分でも思う。
しかし、夏希は引かなかった。
むしろ、真剣な表情で頷いたのだ。
「死は生の完成形……。なんか、わかる気がします。終わりがあるからこそ、輝くものってありますもんね」
彼女の言葉は、浅い理解かもしれない。
だが、その真っ直ぐな肯定は、僕の心の柔らかい部分を撫でた。
「……君は、変わった人だ」
「よく言われます。あ、ここ、写真撮っていいですか?」
彼女はファインダーを覗き、シャッターを切る。
レンズ越しに見る彼女の横顔は、生命力に溢れていた。
その首筋の滑らかなライン。脈打つ血管。
(ああ、綺麗だ……)
ふいに、どす黒い衝動が僕の脳裏を掠めた。
この生命力溢れる彼女が、動かなくなったら。
その瞳から光が消え、肌から血の気が失せ、ただの美しいオブジェとしてここに永遠に留まったら。
それはどれほど、芸術的だろうか。
ズキン。
手首の白い手形が、熱く脈打った。
「黒崎さん?どうしました?」
「……いえ、なんでもない。案内しましょう。地下に、面白いものがありますよ」
僕は嘘をついた。
まだ誰にも見せていない地下への入り口。
でも、彼女なら。
彼女なら、あの場所の「客」として相応しいかもしれない。
無意識のうちに、僕は彼女を「獲物」として品定めし始めていた。




