第2話:最初の接触
改修工事が始まって一週間が経った。
作業は順調とは言い難かった。
職人たちが次々と体調不良を訴え、現場に来るのを嫌がり始めたからだ。
「空気が悪いんですよ、ここ」
「視線を感じるんです。誰もいないはずの二階から」
そんな泣き言を聞き流しながら、僕は現場監督として指示を出し続けていた。
彼らには見えていないのだ。この建物が持つ、真の美しさが。
その日、アルバイトとして雇っていた十九歳の大学生、マイが資材運びを手伝っていた。
彼女は明るく、廃墟特有の陰鬱さを物ともしない健気な少女だった。
「黒崎さん、このペンキ、どこに置けばいいですか?」
「ああ、それは奥の廊下の突き当たりに」
僕が指差したのは、あの日見つけた隠し扉――今はベニヤ板で塞いである――の近くだった。
「了解です!」
マイは一斗缶を両手に持ち、軽快な足取りで薄暗い廊下へと消えていった。
僕は手元の図面に目を落とす。
このホテルの地下構造をどう活かすか。あのシュートを、オブジェとしてライトアップするのはどうだろう。
ガシャン!!
突然、激しい金属音が廊下の奥から響いた。
続いて、何かが崩れ落ちるような鈍い音。
「マイちゃん?」
返事がない。
僕は図面を放り出し、廊下へと走った。
薄暗い廊下の突き当たり。
マイは、床に倒れていたわけではなかった。
壁に背を預け、立ったまま硬直していた。
足元には一斗缶が転がり、白いペンキがぶちまけられ、まるで抽象画のような模様を床に描いている。
「おい、大丈夫か!」
駆け寄った僕は、息を呑んだ。
マイの様子がおかしい。
彼女の目は大きく見開かれ、しかし焦点はどこにも合っていない。白目が剥き出しになり、口はパクパクと金魚のように開閉しているが、声にはなっていない。
そして、彼女の視線は、虚空の一点に釘付けになっていた。
僕には何も見えない、ただの薄汚れた壁の一点に。
「あ……あ……しろ……い……」
かすれ声が漏れる。
「しっかりしろ!」
僕は彼女の肩を掴んだ。
その瞬間、氷のような冷たさが僕の手のひらを突き抜けた。
人間の体温ではない。まるで冷蔵庫の中に何時間も放置された肉塊のような冷たさ。
ビクリ、と彼女の体が痙攣する。
次の瞬間、彼女は糸が切れた操り人形のように、僕の腕の中に崩れ落ちた。
「救急車!誰か、救急車を呼べ!」
僕の怒声が、静まり返った廃ホテルに虚しく木霊した。
***
数時間後。
マイは病院へ搬送されたが、意識は戻らなかった。
医師の診断は「原因不明の昏睡」。脳に異常は見られないが、何らかの極度のショック状態にあるという。
警察への事情聴取を終え、ホテルに戻った頃には、すっかり日が暮れていた。
作業員たちは逃げるように帰ってしまい、再び僕一人きりだ。
仮設のプレハブ小屋に設置した洗面台で、僕は顔を洗った。
冷たい水が、火照った神経を冷やしてくれる。
「……悪いことをしたな」
鏡の中の自分に呟く。
だが、心の奥底では、奇妙な高揚感が消えていなかった。
あの一瞬、マイの体に触れた時に感じた、あの異常な冷気。
あれは、ただの体調不良ではない。
何かが、彼女に「触れた」のだ。
タオルで顔を拭き、何気なく左手首を見た時、僕は動きを止めた。
「……なんだ、これは」
手首の内側。血管が浮き出る白い肌の上に、あざのようなものが浮かび上がっていた。
打撲ではない。
色は赤や青ではなく、奇妙なほどに透き通った「白」。
肌の色素がそこだけ抜け落ちたような、白斑。
その形は、はっきりとしていた。
五本の指の跡。
誰かに強く手首を掴まれたような、掌の跡だ。
だが、その指は異様に細く、長い。人間のそれよりも関節が一つ多いのではないかと思えるほどに、不自然に長い指の跡。
マイを抱き止めた時、僕の手首を掴んだ者などいなかったはずだ。
僕はその白い痕跡を指でなぞった。
痛みはない。
むしろ、懐かしさすら感じる温もりが、そこからじんわりと体内に浸透してくるようだった。
「ふふ……」
笑いがこみ上げてくる。
恐怖すべき状況で、僕は笑っていた。
これは招待状だ。
このホテルに巣食う「何か」が、僕を受け入れようとしている。
あるいは、僕が彼らを求めたことに、応えてくれたのか。
窓の外では、夜の森がざわめいていた。
風に揺れる木々の音が、無数の手拍子のように聞こえた。




