第2話:件の予言
言葉が喉の奥で砕けた。
それは、コンクリートの床に直接、無造作に投げ出されたように横たわっていた。下半身は――牛のものだ。だが、それは完全な姿ではない。皮も肉も剥ぎ取られ、あるいは腐敗し尽くし、白く乾いた骨だけが露わになっている。肋骨が鳥籠のように開き、その空洞には黒い土と腐敗物が詰まっていた。しかし、その骨の上に、異様に生々しく、不自然に接合されたものがあった。
人間の、老人の上半身だった。
腰から上は、皺だらけの、生きた、あるいは生きていたばかりの人間の皮膚に覆われている。色は土気色で、所々に老人斑が浮かんでいる。無数の皺が、苦悶か、嘲笑か、判別できない表情を刻み込んでいる。頭髪は疎らで、白く汚れていた。その顔――。
目は半開きで、白濁した眼球が、硝子体が濁ったように曇っている。しかし、その瞳孔の奥には、微かに、底知れぬ深淵を覗かせるような光が淀んでいた。鼻は潰れ、唇はひどく割れ、乾いた血の跡が黒くこびりついている。首から下は、牛の白骨化した胸郭の上部に、まるで生きたまま継ぎ合わされたかのように、皮肉にも「生々しく」接合されていた。縫合痕らしきものはない。境界は、異物同士が拒絶し合いながらも、腐敗という共通の土台で無理やり癒着したかのような、醜く膨れ上がった肉の盛り上がりで曖昧になっていた。
「…っ!」
吐き気が逆流した。視界が一瞬、揺らぐ。スマホを持つ手が震えた。画面には、私の動揺した息遣いと、その化物の生々しいアップが映し出されている。コメントは一瞬止まり、そして堰を切ったように溢れ出した。
『なにこれ!?』
『CG?すごいクオリティ』
『マジで気持ち悪い!』
『イタズラでしょ?本物なわけない』
『でもリアルすぎ…』
「…ふ、ふふっ」 声が掠れた。私は必死に平静を装おうとした。「…お、おはようございます! す、すごい発見です! これは…まさに伝説の『件』そのものを模した、かなり…本格的な作り込みのオブジェですね! 誰かがここに仕掛けた、かなり悪趣味な…」
『作り込み?』
『オブジェにしては生々しすぎるよ…』
『皮膚の質感半端ない』
『目、動いた気がするんだけど』
「動くわけないでしょ!」 私は声を荒げた。恐怖が怒りに変わる瞬間だった。「ただの…ただの人形か、特殊メイクか…! こんなもの、本物のわけが――」
その時だった。
白濁した、半開きの眼球が、カクン、と微かに動いた。
ゆっくりと。滑るように。私が立つ方向へと向きを変えたのだ。
コメント欄が一瞬で沸騰した。『動いた!』『目が!』『絶対動いた!』。私の鼓動は耳の中で爆発音のように鳴った。全身の血が逆流する。逃げ出したい。しかし足が地に釘付けだ。
そして、その割れた黒ずんだ唇が、ゆっくりと、無理やり引き裂かれるように開いた。
「………」
かすれた、空気の漏れるような音。それは最初、ただの軋みにしか聞こえなかった。しかし、次に発せられたのは、紛れもなく、意味を持つ言葉だった。乾いた枯れ葉を擦り合わせるような、地の底から湧き上がるような、非人間的な囁き。
「…く…る…」
息が止まった。
「…ゆ…れ…」
コメントが恐怖の叫びに変わった。『声聞こえた!?』『何言ってる!?』『地震!?』『やばいやばい!』。スマホの画面が、視聴者のパニックを映し出す。
「…お…ま…え…」
その目が、私をまっすぐに見据えている。深淵のような曇った瞳孔に、私の恐怖に歪む小さな姿が映っている。
「…お…ち…る…」
最後の言葉が虚空に消えた、その瞬間――。
世界が、縦に激しく揺れた。
「ぐわあっ!」
轟音ではない。地そのものが唸る、重く低い、有機的な呻きが、足の裏から全身の骨を伝って脳髄を揺さぶった。天井が視界の中で波打つ。無数のパイプが悲鳴を上げてねじれ、コンクリートの破片が雨のように降り注ぐ。塵埃が渦巻き、視界は一瞬で真っ白になった。
「うわああっ!」
バランスを失い、後ろにのめろうとする。その時、足元のコンクリートが、まるで脆い餅のように、不自然に陥没した。
「――――ッ!」
悲鳴もろとも、私は奈落へと呑み込まれた。背中から激しく何かに叩きつけられ、肺の空気を全て吐き出した。暗闇。落下は、硬い土の斜面を転がり落ちる感覚に変わった。岩角が体を切りつける。何度も何度も激突し、回転し、世界がぐちゃぐちゃに混ざり合う。スマホはどこかへ飛んでいった。ジンバルが砕ける音。最後に、鈍い水音とともに、深い泥水に沈んだ。
「げほっ! げほっ!」
冷たい、泥臭い水が口と鼻に流れ込む。必死にもがいて顔を上げる。真っ暗だ。頭上、遥か高く、陥没した穴からかすかな光が差しているだけだ。あのコンクリートの床が、今は天井のように見える。降り注ぐのは塵埃と、微かな雨粒のような水滴だけだ。激しい揺れは、地底の深い唸りとともに、まだ続いている。壁から砂利がさらさらと落ちてくる。
「…ひっ…ひっ…」
息が荒い。全身が痛い。特に右肩と左足首に激痛が走る。泥水は腰まで浸かっている。冷たさが骨髄まで染み込む。恐怖が、思考を麻痺させる。何が起きた? あの化物は? 地震? あの予言は…?
「落ちる…」
件の乾いた声が、耳の奥で反響する。お前が落ちる。まさにこのことか。
「バカな…まさか…そんな…」
頭上から、微かに聞こえるのは、配信が途切れた私のスマホからか、あるいは建物のどこかからか、断続的なノイズと、視聴者の悲鳴や叫びが混ざり合った、歪んだ音声の残響だった。
「――――ッ!!」
突然、頭上を覆うコンクリートの破片の影が動いた。あの場所だ。件が横たわっていた場所の真下。破れかぶれの穴から、何かが覗き込んでいる。
白濁した眼球が、真っ暗な闇の中でも、異様な微光を放ってこちらを見下ろしている。牛の白骨の輪郭が、歪んだ天井のシルエットに重なる。
そして、割れた黒い唇が、ゆっくりと、無理やり引き延ばされるように、両端を持ち上げた。
歪んだ、底知れぬ悪意と嘲笑に満ちた笑みを浮かべて。
次の瞬間、激しい地鳴りとともに、頭上から大きなコンクリート塊が落下し、件の姿を――そして私の頭上への僅かな光を――完全に遮った。最後に視界に焼き付いたのは、あの歪んだ笑みだけだった。配信は、その直後、完全なノイズとともに途絶えた。




