第1話:仄暗い水音
はじめまして。この物語を手に取っていただき、ありがとうございます。
作者のsilver foxと申します。
今回が「小説家になろう」での初めての投稿になります。
テーマは、日本の古い家と「水」にまつわる、少し不気味なお話です。
私たちのすぐそばにある日常が、ふとしたきっかけで異界と繋がってしまったら…?
そんな背筋が少しだけひんやりとするような時間を、楽しんでいただけたら嬉しいです。
拙い点も多いかと思いますが、どうぞ最後までお付き合いください。
僕はこの家を買った時、安さに惹かれた。築五十年近い木造の平屋、隣を小川がかすかに流れている。不動産屋の男は、薄ら笑いを浮かべて「風情がありますよ」と言った。
風情、か。その言葉には、確かに湿った何かがまとわりついていた。安さの理由はすぐにわかった。台所の古いステンレスシンクの排水溝は、いつも詰まりかけている。蛇口を捻れば、水はゆっくりと渦を巻きながら、まるで抵抗するかのように、嫌々ながら流れていく。その度に、ぼそぼそと、泥を啜るような、あるいは何かが喉を鳴らすような、鈍く濁った音が排水管の奥から聞こえるのだ。
「……またか」
今夜も、食器を洗い終えた後、その音が響いた。グオッ、グオルル…。まるで巨大な胃袋が空を切る音のようだ。僕は思わず蛇口を閉めた。音はすぐに消えたが、シンクの底には、わずかに溜まった水が、薄暗い蛍光灯の下で鈍く光っている。水底に、微かに、藻か何かが漂っているように見えた。細長い、緑がかった…指の形をしたものか?
気のせいだ。拭き取ろうとスポンジを伸ばすと、それは一瞬で消えた。水の歪みか、目の錯覚か。ただ、指先が触れた水の冷たさが、尋常ではない。真夏の夜なのに、井戸の底から汲み上げたような、生気を奪う冷たさだ。
シンクの縁に触れた手のひらが、妙にヌルついているのに気づく。藻? 油? いや…もっと生々しい、何かが腐敗した後の粘膜のような感触だ。嫌悪感が喉元までこみ上げてくる。慌てて手を洗い流す。流れる水は透明なのに、手のひらのヌルつきはなかなか取れない。その感触を、僕は無意識にズボンの裾でこすった。こすった場所が、妙に冷たい。
小川のせせらぎが、窓の外からかすかに聞こえる。普段は気にも留めない自然の音が、今夜は排水溝の奥で聞いたあの音と奇妙に重なり合い、耳の奥で増幅している気がした。水音が、僕の意識の隙間を、じわじわと浸食していく。
恐怖は、水に触れる度に増していった。シャワーを浴びるのは、今や拷問に等しい。
熱いお湯を勢いよく浴びれば、あの音をかき消せるかもしれない。そう思って蛇口を捻る。勢いよく出る湯音が、一時的に排水溝の記憶を覆い隠す。しかし、湯気が立ち込め、鏡が曇り始める頃、湯船に溜まったお湯の表面が、微かに揺れているのに気づく。
泡でも立ったのか? いや、違う。水面が、まるで呼吸するかのように、ゆっくりと膨らみ、また沈むのだ。中心に、ごく小さな渦ができている。見つめていると、その渦の中心が、深い闇の穴のように見えてくる。吸い込まれそうになる。
「…っ!」
咄嗟に目を背け、壁のタイルを見つめる。白いタイルの継ぎ目に、黒いシミが点々とついている。カビか。だが、その形が不気味だ。どれも細長く、先が少し膨らんでいる。…まるで、水かきのついた指の跡のようではないか?
背筋に冷たいものが走る。慌ててシャワーを止め、湯船の栓を抜く。グオオオッ…! あの忌々しい音が、湯船の排水口から再び響き渡る。水が渦を巻きながら流れていく。その最後の一滴が落ちた瞬間、排水口の金具の隙間に、何かが引っかかっている。緑がかった、薄い膜のようなものだ。掴もうとした指が触れた瞬間、それは水飴のように伸び、そしてプツリと切れて、排水口の闇へと消えていった。
指先に残ったのは、あの忌々しいヌルつきと、生臭い、川底のような泥の匂いだった。
その夜、寝床に入っても、あの感触と匂いが離れない。布団の中で身体を丸めると、耳を塞いでも、小川のせせらぎが、排水溝の音に変容して脳裏に響く。
グオルル…グオッ…。それは次第に、微かに言葉を紡いでいるように聞こえてきた。意味はわからない。古代の呪文か、瀕死の生物の呻きか。ただ、確かに僕の名を呼んでいるような気がしてならない。目を閉じれば、湯船の底の闇の穴が広がり、その奥に、細長い指が蠢いている幻影が浮かぶ。