インクの澱
初投稿です。よろしくお願いします。
黒瀬詠斗は、今日もまた、熱いインスタントコーヒーを舐め一日を始めた。築四十年は経つアパートの一室。朝から淀んだ空気が、古い木造の壁にへばりついている。窓の外には、いつもと変わらない薄汚れた町並みが広がっていた。ここ数日、空模様はずっと鉛色で、詠斗の心の色を映したようだった。
机に向かう。そこにあるのは、使い古されたノートパソコンと、埃をかぶったメモ帳。画面には、「『無貌の勇者レヴァン』」というタイトルが鈍く光っている。商業化を夢見て書き始めたダークファンタジーは、しかし、どこにも拾ってもらえず、既に三年が経っていた。
「くそ……」
詠斗は舌打ちをした。今日、自分に課したノルマは、レヴァンが敵の拠点を壊滅させる場面だ。しかし、一文字も進まない。指がキーボードの上で止まっている。脳裏には郵便受けに入れっぱなしの消費者金融からの手紙がちらついていた。
かつて、賞に応募すれば、佳作にでも引っかかるかもしれないと、漠然とした期待を抱いていた時期もあった。しかし、現実は甘くない。出版社に持ち込んでも、編集者からは「テーマが重すぎる」「市場に合わない」とばかり言われた。詠斗の小説に登場する勇者レヴァンは、決して光の存在ではない。平和のためではなく、ただ自身の存在意義を問い続けるために戦い、時には多くの犠牲を顧みない。そんな異端の英雄譚は、世間には受け入れられなかった。
詠斗はカップを掴み、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。苦い。自分の人生そのもののようだ。夢を追いかけ、このアパートに引きこもって何年も経つ。友人は減り、家族からの連絡も途絶えがちになった。売れない小説家など、社会のどこにも居場所がない。
「だったら……滅んでしまえ」
誰も理解してくれない世界なら、いっそ全てが滅んでしまえばいい。そんな、心の奥底に澱のように溜まった暗い感情が、不意に口からこぼれた。
その時だった。
画面の中の文字が、まるで生きているかのように、僅かに震えた気がした。いや、気のせいだ。疲れているのだ。詠斗は目を擦り、改めて画面を見た。やはり、何も変わっていない。ただの文字の羅列がそこにあるだけだ。
だが、その日を境に、奇妙な出来事が起こり始める。
詠斗が執筆を進めるにつれて、原稿の中の勇者レヴァンが、少しずつ、しかし確実に、その「文字の殻」を破り始めるのを感じるようになる。最初は些細なことだった。文字のフォントが、ほんの少しだけ力強く、太くなったように見える。次に、書籍化、漫画の依頼が舞い込み、そこでのレヴァンは、驚くほど生々しい筆致で描かれた。そして、アニメ化の話。二次元のスクリーンの中で、レヴァンは意志を持ったかのように動き出す。詠斗は、まるで自分が生み出した存在が、自分の預かり知らぬところで、現実へと向かって這い上がってきているような、言いようのない奇妙な感覚に囚われ始めた。
これは、ただの偶然なのだろうか? それとも――。
詠斗の胸に、拭いきれない不安が芽生え始めていた。彼の書いた物語が、彼の望まぬ形で、現実を浸食し始めているのには、まだ誰も気付いていない。