04.噂
昨日の出来事は、緋紗にとってあまりにも非日常的だった。
学校の人気者が血まみれで倒れているのを発見し、生まれて初めて魔法を目の当たりにした。さらに、人が狼へと変化する瞬間を目の当たりにしたことで、人気者こと狛斗から脅しとも取れる形で協力を求められ、手を貸すことに。
夢だったと割り切ることができれば楽だが、現実として受け止めるしかない。残り少ない高校生活での特異な体験として、自身を納得させようとしていた。
狛斗が求めている力は、三日に一度、狛斗のそばにいるだけで渡すことができ、体力的な負担もほとんどない。その見返りとして図書室の隣にある特別な空間の使用権がもらえることを考えれば、今回の件はラッキーだったのかもしれない。
とはいえ、事態は厄介であることに変わりはなかった。
翌朝、登校した緋紗はいつもとは様子が違う教室に気がついた。ドアの前にできた人だかりに嫌な予感を覚え、教室を覗いてみれば、緋紗の席に膳が座っている。まるで自分の席のように座る膳は男友達が多いのか、いろいろと話しかけられ、そのたびに不機嫌そうに応えている。会話のやりとりに「瀬野さん」と聞こえた気がするのは、きっと気のせいじゃない。
(……狛斗のフォロー、まったく効いてないじゃん)
狛斗は「俺が話しておく」と言っていたが、膳の機嫌の悪さから判断するに、その努力は実を結ばなかったらしい。むしろ話がこじれて、膳が自ら緋紗に会いに来たというのが実情のようだった。
しかも、彼をからかう男子生徒たちのやり取りからして、かなり早朝からこの状態が続いていたことも分かった。毎朝ギリギリに登校する緋紗にとって知らぬことだが、膳にとってはさぞかし長い待ち時間だっただろう。
「……帰ろう」
緋紗はそう判断し、教室をあとにする。かといって施設に戻ることもできず、制服のまま外で過ごすには問題がある。具合が悪いふりをして保健室に──ああ、そうだ。
うってつけの場所を思い出して、緋紗は口元を緩める。
(準備室、行ってみよ)
そして迷いなく歩き出し、あの異空間へと向かった。
「緋紗、緋紗。起きろ」
「ん……狛斗?」
揺すられて目を開けた緋紗の視界には、眉間にしわを寄せた狛斗の顔が映った。信じられないものでも見るような、呆れや動揺が感じられ、端正な顔立ちがその表情で損なわれている。
「朝からここにいるのか。風邪ひくぞ、ベッドに移動しろ」
「いや、さすがに人のベッドは嫌だし、本格的に寝ちゃうでしょ。ここでいいの。あったかいし」
「まあ、そう設定してあるから」
「ほんと、何でもアリなんだね」
準備室のドアに鍵を差し込んで開けるときには警戒心を思い出したものの、異空間にあった寝心地のよさそうなソファを見つけた瞬間、いろいろと、どうでもよくなった。横になりながら読んでいた本を見つけた緋紗は近くにあった机におく。
緋紗の行動に狛斗が驚いたような声をだす。狛斗が近くにいたことを思い出した緋紗は、まどろむ意識の中で狛斗に視線を移し、狼のときとは違う髪色が目についた。銀色が目立つ今の彼は、白くてふわふわの毛とは異なる印象だ。
「ねえ、狼にならないの?」
「……そっちのほうがよかった? 今の俺は嫌?」
「え?」
「え?」
狛斗は緋紗の目線に合わせてしゃがんでいたのだろう。突然バランスを崩し、後ろの机にぶつかって倒れ込む。顔を真っ赤にしながら、気まずそうに立ち上がる彼の姿に、緋紗は思わず微笑を浮かべる。
「気にしないでくれっ」
慌てて言い訳する狛斗に、緋紗は落ち着かせようと頭を撫でた。
「あ、ひ、緋紗……?」
「今の狛斗も、好きだよ」
人間の姿になった彼の髪は柔らかく、指先に心地よい感触を残す。前髪は目にかかるほどで、後ろは短く、トップは軽くはねていた。セットしていない自然な状態にも関わらず整っていて、触れるのが癖になりそうだった。
「好きにしてくれ」
「そうそう」
狛斗の諦めたような表情に、緋紗は適当に相槌を打ちつつ、再び眠気に引き込まれていく。現実に呼び戻すのは咎める厳しい声だ。
「緋紗」
「……狛斗、なんかお母さんみたい」
「……えっ」
その声の調子と気遣いが、無意識のうちにそう言わせたのだが、狛斗は固まってしまった。
(もしかして、思春期男子に言ってはいけない一言だった?)
緋紗は上半身を起こすと、黙ったままの狛斗の頭を撫でる。サラサラだ。
「なんで頭撫でるの」
「んー」
じとっとした視線を向けてくるが、すぐにため息をついて撫でられるままになる。やっぱり狛斗は犬なのかもしれない、そう考えているのを知ったら、さらに眉を寄せそうだ。
余計な口を滑らせてしまうまえに、緋紗は用事を済ませることにする。
「膳くんと何を話したの?」
「え?」
「今朝、私の席に膳が座っててさ」
「あの野郎……悪かったな、緋紗。もう一度膳と話すが、そのときは一緒にいてくれないか?そっちのほうが手っ取り早い気がする」
「私もそんな気がするし、いいよ……あ、ちょうど1限が終わった頃だ」
なんのきなしにスマホの腕時計を見た緋紗は驚いて目を見開く。
この空間があまりにも居心地が良く、時間を忘れていた。そう、居心地のいい空間。緋紗は異空間を見渡して困ったように笑う。
「……狛斗」
「なんだ?」
「なんか、昨日と比べて空間の中がすごく変わってない?」
生活感のなかった異空間は、キッチンにクッションや食器棚が増え、照明まで明るくなっていた。
狛斗は一瞬口を開きかけて、視線を逸らす。
「昨日のままだと緋紗が過ごしづらいと思って。泊まりたいとか言ってたし……だから、ちょっと改築してみた」
「……なにそれ、え? 買ったの?」
「作った」
「……??うん、すごい」
「……気に入った?」
少し不安そうな狛斗に、緋紗は素直に頷いた。
「すごく気に入った。ありがとう。でも無理して体壊すのはダメだからね」
「それは大丈夫」
狛斗は満面の笑みを浮かべた。狼の姿だったら、今頃ブンブンと尻尾を振っていただろう。
「じゃあ、教室に戻ろうかな」
「そう。膳と話すのは放課後でもいい?先に俺が釘差しとくから休み時間には現れないようにするし」
「それならいいけど、バイトもあるからそんなに長く時間は取れないよ?」
「バイト?分かった」
「助かる」
緋紗は微笑み、空間を後にして教室へと向かう。
膳の問題は片付きそうだと安心したのも束の間、教室に入った瞬間、膳の置き土産があったことに気がついた。
「緋紗ああ!! ちょっと、どういうことー!? 膳くんが緋紗のところに来てずっと緋紗を待ってたんだよー?なになに?なにがあったの?」
教室に入った瞬間、亜紀が勢いよく飛びついてきた。まるで猛獣のように迫ってくる彼女に、緋紗は鞄を下ろす暇もなかった。
狛斗が膳を説得したとしても、緋紗を待っていたという膳の行動を見ていたクラスメイトからすれば、噂の緋紗に興味を持つのは仕方がないことだろう。
(めんどくさ)
ゴシップが好きな亜紀のきらめく瞳と大声を聞きながら、緋紗はくちもとをひくつかせる。それから一息吐くと、微笑みを作る。
「一応言っとくと、亜紀が思ってるような話じゃないよ。昨日膳くんに会ったんだけどさ、紀伊くんのことすごい剣幕で聞いてきたんだよね。しつこかったから適当に応えてたんだけど、それが気に食わなかったのかな?なんか怒ってるみたいだったね」
「あっ、それで1限サボったの?って、膳、くん?膳くん??」
「これも一応言っておくと、亜紀が思ってるような話じゃないよ。苗字知らないだけ」
「ええ……四谷膳くんって前に教えたじゃん…」
「そうだっけ?とりあえず、四谷くんがずっと何回もしつこく紀伊くんのこと聞いてきたんだよね。適当なこと言って悪かったなあ。知らなかったけど、2人って凄く仲がいいみたい」
「凄く、仲がいい?……そんなに狛斗くんのこと膳くんが聞きまわってたの?」
「知らないっていってるのに私を問い詰めるぐらいには」
「わ、わあっ!」
妙に嬉しそうな顔をする亜紀を見て、緋紗は内心で「よかった」と胸をなでおろした。亜紀は都合の良い部分だけを拾って解釈するタイプだ。きっとこの話も噂としてうまく加工されて、勝手に広まっていくだろう。
さて、放課後はどうなってるやら。