伯爵家の後継※
微睡んでいる。夢を見ている。まだ幼かった頃から、嫁いできた今に至るまでの、自分の過去を。
「せんせい。しょっきのおとをさせないようにのめたら、おかあさまは、わたくしとおちゃをしてくれるかしら?」
「ええ、もちろんですとも。奥様もきっと、お嬢様とお茶を飲むのを楽しみにしていらっしゃいますよ」
家庭教師がやって来たばかりの頃は、まだ母から愛されたがっていた。冷たい態度が常だけれど、気紛れに甘やかな声をかけてくる母という存在から。
「ねえ。まだ、お父さまと、おはなししてはいけないの? わたくしのかきとりは、そんなにへたかしら?」
「いいえ、良く書けておりますよ。でも、もう少し頑張りましょう。旦那様は、きっとお嬢様に期待しておられるのですよ」
後継のための教育が始まった頃は、まだ父を愛していた。忙しいと言ってあまり構ってもらえないけれど、時折、どんな物でも買い与えてくれる父というものを。
「先生。どうでしょうか? これなら、お父さまお母さまと、正式な食事をご一緒できるでしょうか?」
「ええ、お嬢様。大変よく頑張りましたね。旦那様も、奥様も、きっとお喜びでしょう」
「……先生。お父さまも、お母さまも、よろこんでくださいませんでしたわ。わたくしは、もっとがまんが必要なのですって……。訓練のために、好きなものを着たり食べたりしないように言われましたわ。……これから、ずっと」
「お、お嬢様。きっと、期待の裏返しですよ。お嬢様には、厳しくするだけの値打ちがあると思っていらっしゃるのですよ、きっと。ですが、時々は息抜きをいたしましょう? お部屋でこっそりとなら、好きなお菓子を召し上がっても大丈夫ですよ、きっと」
6歳になるまで、「きっと」は家庭教師の口癖だと勘違いしていた。雇い主に逆らえない彼女の精一杯の言葉を。
「……お嬢様、お暇乞いに参りました」
「先生、どうして? 居なくなっては嫌よ」
「わたくしの力不足で申し訳ありません。伯爵家のお世継ぎは、弟君に代わるそうです。旦那様から、お嬢様の教育は中止するとの事です」
「弟って……。まだ3歳になったばかりの、あの子の事? それで、先生が居なくなってしまうの? わたくしはこれから、どうしたらいいの?」
「……お嬢様。弟君もお嬢様に負けないくらい学んでくれますよ、きっと。お嬢様は、これまでの分も、旦那様と奥様に甘えるといいと思います。お嬢様は、頑張りすぎでした。旦那様と奥様も、お嬢様を可愛がる時間が欲しいとお思いになったんです、きっと」
9歳、わたくしは、自分の事を見てくれていた唯一の人を失った。
「公爵閣下にご挨拶しなさい」
父から呼び出され、両親と同年代の貴族男性の前に押し出される。
「公爵様、ご機嫌麗しゅうございますか? アルディ伯爵家が長女、ロクサーヌと申します。どうぞお見知り置き下さいませ」
家庭教師の教えを思い出し、深くカーテシーをする。
「ほう。まだ幼いのに大したものだ。さぞかし自慢なのではないか?」
「とんでもございません。大変な親不孝者ですわ。この娘を産む時は、わたくし、本当に死にそうな思いをしましたもの」
公爵の世辞を母が否定したが、謙遜ではなかった。
「いや、それは、仕方ないのではないかね」
公爵が、僅かに狼狽の様子を見せた。
「そんな事はありませんわ。この娘の弟の時は、それほどではありませんでしたもの。本当に意地悪な娘ですわ」
母がよく言っていた事だった。おかげで、ずっと弟が羨ましかった。
「いやいや、先が楽しみなご令嬢ではないか」
「おお、それでは、公爵閣下が娶ってやってはくれませんか」
取りなそうとした公爵の言葉に、しばらく黙っていた父が意気込む。
「……何を言っている。まだ、妻の喪が明けたばかりだ。ご令嬢が成人しても何の話もなければ考えよう」
公爵は去って行ったが、両親が考えを改める事は無かった。
10歳になったばかりで、わたくしは将来を夢想する事も出来なくなった。
「……マナーが習得できなければ、食事に加わる資格が無かったのではないのですか?」
ある日の食堂で、黙っているつもりだったのに、思わず口にしていた。
つい先日、家族の食卓につく事をようやく許されたばかりの弟の、色を失い引き結ばれた唇を見てしまったから。
この家では、マナーが習得できなければ、両親と一緒に食事をする許可がおりない。
ずっと、そう聞いて育ってきた。
碌に会話も交わした事の無い弟も、同じ様に教育されてきたはずだ。
なのに、わたくし達の前には、カトラリーを握りしめて振り回すしか出来ない幼児が座っていた。
「いいのよ、この子は。あなた達と違って責任も無い。何より孝行者だわ。産むのが一番楽だったのよ。」
言葉の後半で、母がわたくしを睨んだ。
生まれやすさと個人の資質は関係が無い、とは家庭教師の教えだ。
「後を継ぐ役割を課す必要も、ちょうどいい政略結婚の相手も居ない。ならば、儂らを楽しませるだけで構わんのだよ」
締まりのない笑顔で父が言った。
13歳、わたくしは親というものを完全に諦めた。
ただ、泣くのを堪えて震える弟の小さな背中だけが、どうしようもなく忘れ難かった。
「これから、食事は部屋で摂ってもいいかしら? もう、好きな物を食べたいわ。それとも、まだ我慢とやらが必要かしら?」
届け物を携えて来た執事に、ふと溢す。
数日の間は、茶番の様な食事風景を耐え忍んだ。
しかし、彼らの目が異物の如き幼児へ釘付けになっているのを見て、つまりわたくしの方を全く見ない事に気付いて、馬鹿らしくなった。
「別の食堂では如何でしょうか? アンリ様とご一緒なされては?」
執事からは意外な提案が返ってきた。
「弟と? 嫌がらないかしら? わたくしは、構わないけれど」
6歳年下の弟には、嫌われている。
母の言いがかりのせいだと思われたが、訂正する気にもなれず、没交渉を貫いてきた。
「かしこまりました。いずれにしても、明日以降は別室に準備をさせていただきます」
わたくしの了承を受けて、執事は下がっていった。これでもう少なくとも、あの異物を見なくて済む。
翌日、使用人に案内された食堂には、気まずそうに佇む小さな影があった。
そうして、弟が7歳の時から、2人で食事をする様になった。
「アンリ、手をどうかしたの?」
弟がカトラリーを手から滑り落したのを不審に思う。
「家庭教師に鞭を使われたのです。書き取りが上手くいかなくて」
見せてくれた弟の掌には、赤い筋が出来ていた。
「手を傷つけたら、書き取りには逆効果ではないの。そんな事、一体いつから……」
後継教育が本格化したからと言って、執事と協力して、弟の家庭教師を変更したのが、わたくしが14歳の時だった。
それから、わたくしが嫁ぐまでの邸では、親の無い姉弟と、一人娘を猫可愛がりする夫婦が別々に暮らしている様だった。
18歳で華やかさとは縁遠い式を挙げて、公爵邸に居を移した。売られていく様な気持ちだったが、さりとて離れがたいものも浮かばなかった。
別れ際、弟に「元気でいてね」と声をかけたが、唇を引き結んだ睨む様な顔でこちらを見るばかりで、何も言ってくれなかったのが唯一の心残りだったかもしれない。
「まさか、本当に君を娶る事になるとはな。こんな年寄り相手とは、君も不本意だろうが、あの両親よりはまともな環境を約束しよう。君の弟の願いを無下にはしないよ」
「アンリが何か?」
「それは言わないよ。そういう約束なんだ」
そう言って公爵はそれ以上を語ってくれなかったが、弟がわたくしを気にしてくれていると言うだけで、内容は何でも構わない気がした。
公爵からは妻と言うより子どもの様な扱いを受けた。呼び方だけは、ルイと名を口にする様に言われているが、それ以外はまるで預かり者の令嬢の様だ。事実、一般的な貴族の結婚では必要な出産が望まれていない上に、年の差も親子ほどある。
未来は無かったが、悪い気はしなかった。
「どうやって父に取り入ったか知らないが、俺はお前など信用しないからな」
「ディオン様。ルイ様はわたくしを憐れんでおられるだけでございます」
ルイ様が好意的だった代償として、義理の息子ディオンからの印象は悪くなった。
次期公爵に嫌われている事は将来の不安ではあったが、成すべき事に支障は無かった。
わたくしの役割は公爵家の代替わりを恙なく行う事だけ。邸内では、ルイ様と引継ぎに関わる上級使用人、そして時折訪れるディオンの婚約者だけを相手にしていれば良かったからだ。
社交も行うが、あくまで引継ぎが目的。ルイ様が尊重してくれているために無下にはされないものの、本当の公爵夫人の代理を務める事になった小間使いの様なものとして扱われる。
わたくしもまた、何処に行っても会話の主導権は取らずに、当たり障りなく追従し、次代の女主人に伝えるべき内容をさり気なく収集する。
楽と言えば楽だが、楽しくないと言えば楽しくない。
「貴族女性の生き方なんて、多かれ少なかれこんなものでしょうけれどね」
仕事を終え、人払いした部屋で独り言ちる。
女主人の部屋に身を休めながらも、カーテンや壁紙を自分の趣味に合わせる事も出来ない、引継ぎの準備を整えるだけの日々だ。尤も、部屋を自分の好きに設えられないのは、今に始まった事ではないので、慣れている。
「まあ。それでは、あまりに気詰まりではありませんか? 宜しければ、ロクサーヌ様の気が晴れる様な物と一緒に、お邸へ訪問させて下さいませ」
話しかけてきたのは、マルグリット・メナール。
実家のアンディ伯爵家の隣領の侯爵家に嫁いだばかりだ。時期はわたくしとは入れ違いだったので、婚前の関わりはほぼ無かった。
最近になって、わたくしにすり寄ってくる。弟のアンリが嫁ぎ先の隣の領主になる予定だからだろう。
結婚してからというもの、ほんの一時的な公爵夫人という扱いしかされていなかったわたくしには、弟の姉だからという理由は、存外受け入れやすかった。
「歓迎しますわ、マルグリット様」
それから、マルグリットとは度々会うようになった。
「ロクサーヌ様。本日は少々、困ったものをお持ちしてしまったかもしれません」
ある日、マルグリットが戸惑い気味に、立派な装丁の本を差し出してきた。
「どうしましたの? あら、3冊ありますのね」
本に手を伸ばし、表紙を読み取った瞬間、心臓が軋んだ様な気がする。
作者として妹の名が書いてあった。
「同じ物ですわ。手掛けた工房では、元の注文は20冊だったという話です。ロクサーヌ様、わたくしがこれを手に入れたのはあくまで偶然。まだ誰にも話をしていないと誓いますわ。宜しければ、ゆっくりお読みになって下さいませ。わたくしは、お暇させていただきますわ」
意味深長な笑みを浮かべて立ち去るマルグリットは、色味も相俟って、悪魔の使いの様に見えた。
使用人に茶を淹れ直させ、改めて手に取った本は、怒りで読むのが困難なほどだった。
(てっきりただの愚か者に育っていると思いきや、人を怒らせるくらいの悪知恵は働く様ね)
前半部分は、わたくしと弟の幼い日々の苛烈な教育。
(拍子抜けだわ。結局不出来なだけなのね)
後半は、客観的にも詰まらないと言い切れる出来で、呆れのあまりに理性が戻ってきた。
そもそも、実際に書いたのが妹かどうかも分からない事に気付く。
寝椅子に身を預け、考えに集中するため目を閉じた。
(とは言え、普通に問題があるわね。アンリは知っているのかしら? 気付いていないなら、将来が不安だわ。助けてあげないと。そのためには……。逆に、分かっていて放置しているなら、狙いは……)
いつの間にか転寝していた様だった。
子どもの頃を思い出させられたせいか、昔の夢を見ていた。
ゆっくりと瞼を開け、微睡む前の思考に戻る。
(そう、どちらだったとしても、わたくしの結論は変わらないのね。では、もう動いてしまいましょう)
呼び鈴を鳴らし、必要な準備を開始する。
「ごきげんよう、ロクサーヌ様。本日もよろしくお願いいたします」
「ごきげんよう、イネス様。こちらこそよろしくお願いします」
次期公爵であるディオンの婚約者イネスは、わたくしよりも2つ年下の侯爵令嬢である。婚前の身分は向こうが上、わたくしだけが結婚済みの今はこちらが上。そして、彼女が嫁げば嫁姑、代替わりが終われば立場の強弱も入れ替わる。微妙な関係だ。
「そう言えば、イネス様。実家の恥を晒す様で心苦しいのですが、最近、妹に手を焼いていますのよ」
引継ぎのためのやり取りに一息入れたお茶の席で、思い出した様に切り出す。
本当は夫の不在時を見計らっていたのだ。本来ならば、公爵に話をして火が小さいうちに揉み消すべきである。
「まあ、お悩み事でしょうか? わたくしでよければ、喜んでお聞きします」
イネスが乗ってきてくれたので、例の本を使用人に持って来てもらう。
マルグリットとの更なるやり取りの後で、1冊は弟に送ったので、残った2冊をイネスに見せる。
「ま! これは、お困りですわね」
言葉とは裏腹にイネスの声には楽しそうな響きがある。他人の不幸は蜜の味といったところか。彼女の実家は、アンディ伯爵領とは遠く、影響は少ない。
婚家でのわたくしの発言力を落としたいなら、利益があると考えるだろう。
そこまでの悪意が無かったとしても、人はこういう噂話を好むものだ。ここだけの話と言いながら、広めてくれるだろう。
当主夫妻が異常であるという内容を、当の令嬢が書いた本が社交界で広まれば、アンディ伯爵家の評判は落ちる。短期的には逆風だが、両親の立場が弱まるのは悪くない。わたくし達と両親の関係は、冷え切っているのだから。
イネスに噂を発端になってもらうのは、上手くいけば一石二鳥である。
先ず、企みを自然に見せる事ができる。
実家の醜聞なのだから、本来ならば揉み消すべき事、手に余るならば夫に相談するべき事。わたくし自身が広めるのはおかしい。
ここまでは必須。
次に、イネス自身の評判を下げてもらう。
実家の悪評を立てる事が不自然である様に、将来の姑の評判を自ら落としてまわるのもまた、褒められた事ではない。
わたくしが狙う立場は、折悪しく夫が不在であったため、実家の不安を将来の嫁に溢したら、裏切られてしまった被害者。上手く立ち振る舞えば、社交界での同情を買い、イネスのパートナーのディオンに監督不行き届きの負い目を持たせる事ができるでしょう。お飾りの公爵夫人という地位すら失くした後の生活を、少しは楽にしたいもの。
そのためには、印象操作が肝心。
同じ舞台でも、誰に共感して見るかで、主人公と悪役なんて、簡単に入れ替わってしまうのだから。
出処がイネスである事を明白にしつつ、実家の評判を下げる噂を広める事で弟への代替わりを早めて、社交界でわたくしへの同情を引く。
言うは易く、行うは難し。
それでも成功させるのです。
自分のために、そして弟のために。
読んで下さってありがとうございます。
例の本を「薄い本」以外の表現にするのに地味に苦労しました。……意味が違っちゃうからね。