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2-1 次なること


 四月もそのほとんどが過ぎた。

 新しいクラスの違和感はなくなって、皆が馴染んできた頃の、昼休み。


 追滝さんを囲み、授業の復習という体でプチ勉強会が開かれていて、そこではテストのテの字も見えてこない時期なのに、早くも学力カーストが出来上がりつつあった。追滝さんが聖職者であとみんな平民だ。


 ノートの文字を指でなぞりながら、追滝先生が懇々と説明をする。


「かけてある文字の数を考えたらいいの。2xyzは、2かけるxかけるyかけるzだから、三次式だよね」


「ならこれは二次式?」


「こっちはxと、yの二乗があるから、yは二つぶんだと思って」


「ふーん……」


 次数の見分けかたからちょっと怪しいのはトシ。わかったんだかわかってないんだかわからない顔をして、椅子に後ろ前に座って、シャーペンをくるくる回している。


「そしたらこれ一次式なんじゃないの? かける一個しかないよ」


 トシの隣の席で、横座りから身体をひねって勉強会に参加しているのは、出席番号3番の石川さん。


「これは括弧だから。括弧を外したらxの二乗たすxになるでしょう。xの二乗は係数の1が隠れているから、二次式」


「……はー、なるほどー」


 石川さんは肩から前に垂らした二つ結びのお下げをくるくるいじりながら、ノートに大きく「カッコをはずす」と書き込んだ。外した式のほうを書いたらいいんじゃないかな、と僕は思い、ひょっとしたら同じことを思ったのか追滝さんもそれをじっと見るだけ見ている。


「ねえ、ミジンコってなに細胞?」


 今度は通路側にしゃがんでいた古谷さんが身を乗りだした。勉強会場になった僕と追滝さんの机の上には数学のノートばかり……なのに、古谷さん一人だけ理科の教科書を広げている。


「なに細胞? ……単細胞生物か、多細胞生物かってこと?」


「そうそれ」


「どっちだと思う?」


「えー、教えてくれないの? うーん……ちっちゃいから単細胞かなって」


「からだがひとつの細胞でできていたら単細胞生物、いくつも細胞が集まってできていたら多細胞生物だよ」


「どっちなの? 単細胞じゃないの?」


 古谷さんは唸りながら教科書を取りあげて自分の顔に近づけ、にらめっこを始めた。写真のミジンコに細胞がいくつあるか見極めるつもりだろうか。

 トシが軽口を叩く。


「どう見ても単細胞じゃないだろ。でかいし目あるし」


「大きいのは顕微鏡だからでしょ? え、違うよね? ミジンコこんなおっきくないよね?」


「実際は2ミリくらいだったかな」


「ほら」


 教科書を下ろしてどや顔を見せる古谷さん。しかしすぐさま追滝さんが「でも多細胞生物だよ。単細胞生物は、もっと小さい」と続ける。

 どや顔が怯んだタイミングでトシが「ミジンコってなに細胞?」とおちょくった感じの声真似をし、古谷さんは手近にあった消しゴムを引っつかんで投げるふりをした。それ、僕の消しゴムなんだけど……。


「昧羅さー、なんで数学できて理科できないの?」


 石川さんが頬杖をつく。


「だって、数学なら問題見たら答えがわかるじゃん。理科はぜんぶ暗記って感じ」


 ええー、と僕とトシと石川さんの三人の声が重なった。ところが、追滝さんだけは「ちょっとわかる」と頷いていた。だよねー!? と古谷さんが水を得た魚のようにイキイキして握手を求め、「これが頭いい人の考えかただよ」と調子に乗るので、僕らは顔を見あわせ、今度は三人で「ミジンコってなに細胞?」を繰り返した。

 ガタッ! 勢いづけて立ち上がる古谷さん。しかし捌け口が見つからず、黙ってむくれて机に手を着く。そこ、僕のノートが下敷きなんだけど……。


「ジャマだよー昧羅、戻って」


「うう~……」


 しっしっと石川さんに手を振られ、すごすごと元の位置に戻りながら「ぜったい数学のほうが簡単なのに……」とぶつぶつ言っている。申し訳ないが古谷さんにはミジンコの構造を頑張って覚えておいてもらうとしよう。数学の教科書を広げなおして……。


「これはどうしてこういう式になるのか教えて」


 追滝さんがちょっと腰を入れ、トシと石川さんも額を寄せてくる。


 僕が苦手なのは、文字を使った証明問題だ。たとえばこの、「3つの連続する奇数を合計すると3の倍数になることをうんたらかんたら~」という文章。何が言いたいのかはなんとなくわかるけれども、それを数学で説明するのがピンとこない。


「まずは、nが整数のとき、2nが必ず偶数になるから、2n+1は偶数に奇数足して必ず奇数になるのね」


「この+1はどっから来たの」


「えーと……奇数にするために、一番簡単な奇数を足してる……のかな? 別に+3でも、+5でもいいし、-1でもいいんだよ。連続してれば」


「だったら、1+3+5でやったらいいんじゃなくて?」


「それだと、1+3+5のときだけに限定されちゃうでしょ。2nっておけば、nはどんな数字でもありえるから、2n+1は理論上は全ての奇数の代わりになるの。だから、(2n+1)+(2n+3)+(2n+5)っておいたら、たとえばnが0だったら1+3+5になるし、nが1なら3+5+7になって、3つの連続する奇数の全てのパターンをこの式で作れて……」


 追滝さんはめちゃくちゃ一生懸命教えてくれる。そこが授業のごちゃごちゃーっと適当に片付けたドライヤーのコードみたいな説明とは違う。こんなにしてもらって、わかりませんでしたじゃ申し訳ないので、硬いアタマを必死に揺らして考える。石川さんも急いで頭を整理しているみたいだ。トシはフリーズしている。


「合計した6n+9は、3でくくったら3(2n+3)でしょう? 2n+3はnが整数だから必ず整数になって、3(2n+3)は必ず3の倍数になるの」


「でも、それって、この式のときしか言えないんじゃないの? 他の式は試さなくていいの?」


「うーん……」


「あとさ、nが整数って、なんでわかるの? nに何でも入るなら、整数じゃないのも入ったりしない?」


「……」


 石川さんの追撃もあり、追滝さんは黙ってしまった。顎に手を当てて、真剣な表情で考えこんでいる。


 頭の良い人にこう「どう説明したらわかってくれるんだろう」という悩みを持たせてしまうの、ちょっと、引け目だよなあ。家で美奈に勉強を教わるときも、こういう待ち時間ができることがある。僕らが授業をちゃんと聞いてさえいれば……いや、何言ってるのかよくわからない先生が悪いのか。そういうことにしとこ。


「……立ち返って、問題文の確認をすると」


 ふいに追滝さんが動いた。自分の机に手を突っこみ、ビリッと紙の破れる音がしたと思ったら、引き出した手と一緒に原稿用紙が出てきた。裏返して白地の部分に鉛筆を走らせる。


「条件は『3つの連続する奇数』です。奇数は、2で割り切れない整数のこと。連続するってことは、1と3と5みたいに、2ずつ増えていくということ。ここまでいいですか」


「うん」


「全部の例をひとつの式で説明するために、nという、それが何かはまだ決めてないけど、とりあえず整数とだけ決めた数を用意します。このnは必ず整数だと私たちは決めました。何故なら奇数は整数だから、整数じゃない場合を考えなくていいからです。nは今のままだと偶数も含んでいるので、たとえばnとn+2とn+4は、nが1なら1と3と5で成り立つけど、nが2だったら2と4と6になって、条件から外れてしまうので、ナシです」


「うん」


 なんで敬語なんだろう。


「そこでさっきの式が出てくるんだけど、2n+1はnがどんな整数でも必ず奇数になるし、どんな奇数にもなれます。だから(2n+1)+(2n+3)+(2n+5)は『3つの連続する奇数』そのものなの。この式はまだ途中の式で、答えが出るものじゃないから、具体的なたくさんの式がこの形に集約されたと思ったらいいのかも。ちなみに(2n-1)+(2n+1)+(2n+3)と書いたっていいんだよ。こっちの式でnが0のときと、こっちの式でnが1のときは同じことだから。nの範囲は決まってないから、どっちも条件どおりってこと」


 理解できた? と目顔で訊ねてくる追滝さん。

 バッチリ! ではないけれど、まあまあ、うん、まあまあまあくらい……わかった気がする。追滝さんが喋りながらも几帳面に図を描いて説明してくれたからだろう。定規を使わないで数直線がぴしっと綺麗に引かれたのには驚いた。そこに感動して内容を忘れたなんてことはたぶんない、大丈夫。


「これってさ、nを奇数とする、じゃだめなわけ」


 フリーズしていたトシが、急に解凍されて口を開く。凍ってはいたが説明をしっかり聞いていたらしい。


「どうだろう……いいとは思うよ。たぶん、整数にしたほうが汎用性が高いってだけ。考えかたの違いかな」


「そうなんだー」


 大体わかったありがとう、とお礼を言おうとしたところでそれより早く、通りのよい声が割りこんできた。横から。古谷さんのほうから、だけど古谷さんの声じゃない。


 揃って目を向けると、机の端でうつぶせに潰れた古谷さんの上に、作利川さんがいた。腕を組み、半ば乗っかるようにして身を預けて……亀の甲羅だ。この場にいた全員が真剣に頭を使っていたし、古谷さんも何も言わないしで、闖入者に全然気がつかなかった。いつの間にそんなところに……。


「楓ちゃんも一緒に勉強会する?」


 追滝先生がにこりと笑った。だが作利川さんは首を横に振った。


「私はやめとく。5秒で飽きちゃう」


「おもいー、楓奈ー。ダイエットしろー」


 さっきのノートの祟りか下敷きになっている古谷さんのくぐもった声がする。


「してるし」


 してるんだ。


「しててこんな重ぐえっ」


 作利川さんが背中へ思いきり反動つけて立ち上がったせいで、古谷さんの語尾がガチョウになった。

 古谷さんは机に伏せったまま横目でじとりと背後を睨む。


「ってか何しに来たの。ジャマしに来たなら帰ってよ。私たち今勉強してるんだから」


「まあそう怒るなよ。私はこれにみんなを誘おうと思って」


 言いながら作利川さんは机に一歩近づき、身を乗りだしながら何かを取り出した。それは表紙の賑やかな雑誌だった。また余計なもの持ってきたねという追滝さんの視線をよそに、ノートやら教科書やら原稿用紙やらの上に、とあるページを開いて置く。


「えーと? 春の行楽特集『桜舞うまち』夜桜町……」


 一番大きい見出しをトシが読みあげた。


 夜の公園なのか河川敷なのか開けた土地をバックに、ライトアップされた何本もの桜の樹が花びらを降らせている写真が一面でかでかと載っている。今年イチオシのデートスポットがどうの、編集部が選んだ名所百選がどうの、オススメの町めぐりがどうの……といったアオリ文の下に、イラスト風のアクセスマップがちょこんと所在をアピールしている。


 夜桜町はここからそう遠くない、地名に偽りなく夜桜で有名な町だ。


「お花見?」


 つぶやいて顔を上げた追滝さんが固まる。


「6駅くらいだっけ」


 言って顔を上げた石川さんも固まる。彼女たちの視線を追って僕らも固まり、こちらを向く古谷さんも皆の反応に気がついた。作利川さんだけが学習することなくにこにこしている。


「7駅だよ、新中島で乗り換えて――」


「作利川ァ」


 中学生には出せない低い声。ふっと真顔になった作利川さんは一瞬静止して、それからぱっと振り返った。振り返った位置が低かったのでそのまま見上げる。そこにあったのは仁王像テッセンである。


「懲りねえなお前」


「……」


 作利川さんは思いっきり頬を膨らませた。


「もー今いいとこだったのにセンセーはいつも邪魔ばっかり」


「何が今いいとこだ漫画でも読んでんのか」


 ぐりりと目玉を動かして、雑誌の内容をチラ見したテッセンは、またぐりりと呆れた目で作利川さんを見た。


「まーた似合わないもの読んでんな。あまり夜遅くまで遊ぶなよ、補導されんぞ」


「えー、じゃあセンセーが保護者やってくれればいいよ。来る?」


「行かねえよアホウ」


「けちくさ。家近いのに」


「なんで知ってんだお前」


「年賀状出したじゃん」


 ああ、そういやそうだったな、とテッセンは組んでいた腕を解く。最後にもう一度夜遊びはするなと念を押し、そのまま去っていこうとした。あれっ、と肩すかしな空気が漂い、先生の背中に石川さんが声を飛ばす。


「テッセンこれ没収しに来たんじゃないのー?」


「作利川の反省文はもう読み飽きたんだよ。つーかこいつはこの前だって」


「あーあーあーあー! あーちょっと電波がおかしいなここ!」


 教室の会話に電波も何もないだろうに作利川さんが声を張り上げる。事情を知る僕とトシと追滝さんは揃ってくすりと笑った(古谷さんは頭上での急な大声に「うるっさ……」と顔をしかめていた)。この前のチケットの件、映画館まで行った人ならわかるけれど、作利川さんにとってはほんのちょっぴり恥ずかしいエピソードがくっついてくるのだ。ただひとり要領を得ない顔をしている石川さんには、あとでこっそり教えてあげよう。


「見逃してくれてありがとセンセー」


「見逃してないぞ。お前の校則違反ポイントは年度末まで貯めておいて、いくら貯まったかで三年生にするかどうか決める」


「えっちょっと待って待って待って」


 慢心して渡っていた石橋がいきなりガラガラ崩れはじめたら慌てた人はこうなるだろうという動きで、テッセンの背中を追いかける作利川さん。義務教育で留年なんてそうあることじゃないわよ、と教えてくれたのは母さんだったか……。作利川さんはそのことを知らないのか、はたまたテッセンならやりかねないということか。壁向こうの廊下から、「待ってよー!」という作利川さんの悲鳴が響き、「楓奈ってほんと声でかい」と古谷さんが呟いた。






 ところ変わって、放課後の図書室。


 部活を終え、特別棟の三階にやってきた僕は、校内で最も滑らかに動くと評判の図書室の戸を引き開けた。


 今日もコンディションは絶好調の引き戸をくぐり、なんとも説明しにくい独特の雰囲気に満ちた部屋へ入ると、入口すぐのカウンターには、すっかり顔馴染みになった司書の先生がいる。会釈を交わしてから、閲覧席のほうを見やって美奈の姿を探す。放課後の図書室には不思議といつも何人かの生徒の姿があって、外と比べて『静けさ』のフィルターがかかって『落ち着き』のレベルが一段階上がった不思議な空間で、思い思いに時間を過ごしている。彼らの目的は暇潰しなのか、それとも、僕らのように待ち合わせに使っている人が他にもいるんだろうか? 機会があったら、訊いてみようかな。


 そんな中で、美奈は大抵、閲覧席のエリアの一番端、二辺を書架に面した場所に座って、本を読んだり宿題をしたりしている。寝ていたことはない、僕と違って。警戒心の強い野生動物は人前で眠らないというが、当たらずとも遠からずなのではないかと……本人に知られたら怒って追いかけられそうだから、密かに考えるだけにしている。


 この頃のお供は黒っぽい布表紙のハードカバーのようだ。僕には耳馴染みのない名前の、何だっけ、もう忘れたが、ファンタジー小説だと以前言っていた。書写の手本になりそうな姿勢をして、一心に読んでいる。美奈はものを読むときは決まって背筋を伸ばしている。それが新聞でもマンガでも無駄なほど姿勢がいい。


「……」


 歩いてゆくと、まだ何歩も近づかないうちから、気配を察知したのかすっと顔を上げた。こんなふうにすぐ気づくところも野生動物っぽいなー、なんて……。目が合ったので軽く手を振ると、美奈は読んでいた本をぱたりと閉じた。


 その仕草で、美奈の向かいに座っていた女子生徒もふと顔を上げ、こっちを振り向いた。この子はクラスは違うが同じ学年の、佐々木さん。美奈とは仲が良いみたいで、こうして放課後にときどき一緒にいるところを見かける。


「……」


 同じく目が合ったので、彼女にも手を振ると、遠慮がちに振り返してきた。


 美奈は無音で席を立ち、慣れた所作で本を元の棚に戻しに向かう。それを待ちつつ、僕は長机のすぐ脇に立つ。場繋ぎのおしゃべりを小声で始める。


「佐々木さん」


「はい」


「数学って得意?」


「えっ。数学?」


 いったん本に戻した目をまた上げて、ぱちりと瞬き。


 去年のいつか……まだ互いの名前も知らないような時期は、彼女には避けられているというか、美奈を迎えに来たときに近くまで行っても、完全にそっぽを向かれるという感じだった。後で(ちょっと仲良くなってから)聞いたら、目を合わせてくれなかったのは怖かったかららしいのだが、一年も美奈を介して出会っていれば多少は距離も縮まるというもので、廊下ですれ違ったときはアイコンタクトで挨拶をするくらいの仲にはなれた。


 ちなみに佐々木さんが図書室にいるわけは、家に帰る前にここで宿題を済ませてしまうため。待ち合わせをしているわけではないそうだ。


「普通……くらい」


「そっか。理科と数学だったら、どっちが難しいと思う?」


「それは……数学のほうが難しい、かな。あんまり得意じゃないし」


「やっぱそうだよね。クラスに理科のが難しいって言う人がいてさ」


 古谷さんが特殊なんだ、きっと。ああいう人が花嫁にフローラを選ぶに違いない。


 戻ってきた美奈が、佐々木さんにまたねと一言。ばいばいという小さな囁きが来て、それから僕らは図書室を後にする。

 いちいち本を棚に返して帰る美奈に「借りていかないの?」と声をかけていた司書の先生、必ず「大丈夫です」と断る美奈を軽くからかってか一時期は恒例のようにその会話をしていたけれど、今は何もかも馴染んでしまって、殊更にやりとりをすることもなくなった。


 廊下に出ると、美奈は振り返って引き戸を両手で閉める。そういえば美奈が図書室の戸を後ろ手で閉めるところは見たことがない。こういうところ、職員室なら僕も気を遣うんだけどね。


 開いているどこかの窓から、完全下校時刻が近づいてなお、ギリギリまで校庭を走っている運動部の声が入ってくる。きっと陸上部だろう、記録会が近いとかいう話を、誰かが言っていたのを聞いた。


「悠揮」


 覗こうとした窓ガラスに美奈が映っていた。呼ばれたのでふり返ると、美奈はガラスに映るより控えめな顔で、やや躊躇いがちに続けた。


「えっと、相談していい? お花見のこと……」


「聞いてたの?」


「それもそうだし、あと、あの、古谷さんに誘われて」


 そうなんだ、へえ、古谷さんが。意外というのも違う気がするけれど、古谷さんと美奈の間で遊びに誘う会話があるとは、まさしく「へえ」と感じた。見た印象の派手さだけでいったらお似合いの二人といえるかもしれないが……実際の性格の違いは言わずもがな、美奈の口から古谷さんの名前が出るのは、すごく久しぶりだったし。


 でもそういうことなら、僕が誘う手間が省けて楽だ。さっそく、おそらく騒ぐであろう悠介と悠奈をかわす方法を会議しよう、と思ったら、ところが美奈は斜め上なことを言い出した。


「門限の時間がわからないから、後で返事するって言ったんだけど……」


「なんでさ。門限言われたことないようちは」


 一緒に行こうと決まったって話じゃないんかい。

 門限なんか、仮にあったとしても、場所と時間さえ伝えておけば、友達と遊びに行くときくらい見逃してくれるだろうに……真面目なんだから。


「で相談って?」


「……どうやって返事したらいいと思う?」


「そんなの『お花見誘ってくれてありがとう。大丈夫だったから、一緒に行こうね。当日楽しみにしてる』……とか言えば、いくらでもあるだろ」


「どうしてスラスラ出てくるの……?」


 それは英語の宿題を教わっているときの僕のセリフか?


 美奈は眉根を寄せて困った顔をしている。


「直接言うの、うまく話す自信がなくて」


「じゃあ帰ったら携帯貸すから、ラインしなよ。そしたら明日話しやすいでしょ、まだ」


 小さく頷く。まだ苦手なのかなー、古谷さんのテンション。


 もしそういうことだったら、携帯を買ってもらえばいいのに、と思う。美奈みたいなタイプが使ってこそ役に立つんじゃないだろうか。

 僕の場合は、中学校に上がったときにすっごい頑張って両親を説得して、すったもんだの末に、ちゃんといい成績をとることと、悠介と悠奈の前で露骨に使わないことを条件に買ってもらった。でも美奈が欲しいと言ったらさらっと買い与えそうだ、父さんも母さんも美奈には甘いところがあるから。


「携帯はいらない。連絡とる人いないし」


 美奈はこんなことをよく言うけれど、今日みたいに友達にメッセージを送る用事があれば、出かけた帰りが遅くなって電話が必要になることもあるはず。

 今はなくても、女子だけで遊びに行くことだって絶対あるんだから、そのたび僕が端末を貸すのはなんか変だしね。


 昇降口まで降りてきて、下駄箱に手をかけながらそんな感じのことを話すと、靴を放って上履きをしまうまでの間、美奈はただじっと僕を見ていた。


「……悠揮はそうだよね」


「なにが?」


 靴に足先を突っこんだ体勢で、ぽかんとして聞きかえすと、はっと我に返る美奈。

 言うべきか、言わないでおくべきか、躊躇った感じの数秒のあと、急に話題を変えられた。


「追滝さんって、勉強教えるの上手?」


「追滝さん? まあ……うん、わかりやすく教えてくれるけど」


「今度から、私じゃなくて……追滝さんに教えてもらいたいって、思った?」


「え、なにその質問。まさか嫌んなったとか」


 美奈が勉強教えてくれなくなったら、僕、詰むんだけど。宿題とかテスト勉強とか、美奈だから頼めるけど、追滝さんに毎回そんなこと頼めない……第一、じきに席替えだってある。成績落ちて携帯没収されて、作利川さんと一緒に留年しちゃうよ。


 慌てる僕に、ふ、とわずかな吐息を漏らし、美奈はゆるゆると首を振る。


「ううん。私は嫌なんて思ったことない」


 その言いかたに、手袋で手を繋いだときのようなちょっぴりの違和感を覚え……頭をひねり、今さっき話した内容を思い出して……、ああ、と思い至った。


「僕だって別に、美奈に頼まれてイヤだと思うことはないよ」


 ……美奈はまた、小さく頷く。


 校門の脇に植えられた桜が枝を揺らした。こっちの桜はいい加減花も落ちきってしまって、ほとんど裸に近い。

 夜桜町の桜はまだ残っているのだろうか……これで行ってみてシーズン終わってたら相当面白いぞ。


「悠揮はお花見、したことある?」


 僕が見ていた桜を見てか、美奈がそう訊いてきた。

 この場合、僕は、というより、美奈が稲橋家に来る前に、という話か……。


「なかったと思う。母さんたちと歩いてて、咲いてるねー、って話したくらい」


 お互い初体験だねと言うと、美奈は無表情に切りかえす。


「私あるよ。一度だけ」


「マジ? ……連れてってもらったの?」


「違う。一人で行ったの」


 僕と美奈が知り合う前なら、まだ小学校の低学年だ。まさか夜桜町に行ったわけじゃないだろうが、よくお花見しようなんて思い立ったな。低学年で。


 当時を思い出してか、肩に掛けた鞄の取っ手を握り、美奈は少し俯く。


「全然楽しくなかった」


 そうだろうなあ。だって小学生だもん。小学生にとっての桜は毛虫が降ってくる樹でしかない。


「今度のは楽しみでしょ」


「うん」


「んじゃさ、古谷さんにもそう言ったらいいんだって」


「恥ずかしいよ……」


 わけわかんね。


 それから後の帰り道は、悠介と悠奈対策を考えながら歩いたけれど、あまり有用そうな案を思いつくことはできなかった。











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