1-4 まちあわせ
次の日。金曜日。
世間では、月末の金曜日をプレミアムフライデーとかいって、もてはやしているらしい。なら月初の金曜日は、高級な金曜日の反対で、低級な金曜日ということになる……論理的に考えれば、そうなる。同じ金曜日であることには変わりないのに、巡り合わせが違うだけでこうも立場が変わるなんて、可哀想に。
……と、益体のないことを考えてしまうくらい、待ち合わせの時間というものはヒマだ。
昼下がりの駅前、僕と美奈はベンチに座って、ぼけーっと時間を潰していた。
待ち合わせ時刻の14時まで、あと一時間もある。
どうしてこんな時間の無駄遣いをしているのか……。
みんなで映画を観に行くのが楽しみすぎて早く来すぎてしまったから、じゃない。もちろんみんなで映画を観るのは楽しみだし、そのせいか昨日寝坊しておいて今日はばっちり早起きしてしまったけれど、早く着いてしまったのには別に理由がある。
順を追って説明しよう。今日は中学校はお休みで、小学校は登校日ではあるものの、午前授業で給食もない日。朝、のんびりしている僕らのことをずる休みずる休み言って家を出た悠介と悠奈は、昼前には帰ってきた。そこでお昼をどうしようかの会議をして、せっかくだから外で食べることになった。母さんがどこに行きたいかを訊くと、悠介は近所のファミレスを、悠奈は駅前のうどん屋を答えて、公正公平なじゃんけん三本勝負の結果、うどん屋に決まった。
その店は麺が細い割に歯ごたえがあり、温かいうどんでも麺がふにゃっとしない。サイドメニューのかき揚げと手作りおむすびも美味しい。しばらく前から悠奈がハマっていて、事あるごとに行きたいと言うのだった。
さて、件のうどん屋にてめいめいにうどんを(たとえば僕は肉うどんを、美奈はおろしうどんを)頼み、(悠介と悠奈によるどちらがより長いうどんを見つけられるか勝負を見守りながら)食べ、全員の器が空になる頃の時刻は、13時の少し前くらい。そこから家に帰っても、またすぐ出ることになって忙しない。
……ならば昼食後に母さんたちと別れて駅に残ることを織り込み、先に準備をして家を出て、向こうで時間を潰すことにしよう、と、こうきたわけだ。
そして、いざとなって時間の潰しかたが見当たらずに困っている。
僕と美奈がいるのは、ショッピングモールと一体化した駅の構内を南口から抜けたところに広がる公園に似たスペース。ここは商店街というか、テナントビルが立ち並ぶ駅周辺エリアとの中継地点でもある。芝生と木製ベンチ、植え込みと手すり柵、植木とそれを囲む環状ベンチなど、そこかしこに緑と腰掛けがセットで置いてあるので、よく待ち合わせに使われている。その広場の中心には四角錐の謎のオブジェがあって、これは安直にピラミッドと呼ばれている。砂漠ならぬ芝生の中のピラミッド。
ちなみに、駅の反対側の北口は、バスやタクシーの出入りするロータリーと、大通りに面している。こっちは待ち合わせをするような場所がないので、駅前で待ち合わせといったら、普通は南口のことだ。
休日だとたくさんの人でごった返す広場だけれど、平日の昼時ということもあってか、人通りは少なかった。
隣を見る。
シンプルな薄手のTシャツに膝上のショートパンツという、春より夏のほうが似合いそうなラフな出で立ちをして、美奈は格好に似合わずお行儀よく座っている。美奈の私服はTシャツとショートパンツが大半で、今日もそのセットだった。並んで違和感のないように、僕も涼しめの服を選んでみたんだけど、今日は日差しがあって気温が高めだから正解だった。
少し汗ばんできた首に、片手でなけなしの風を送る。すぐに意味がないとわかって、手を下ろす。
同じベンチに座る美奈と僕との間には、拳3つほどの距離があった。人一人座れるような、そうでもないような……悠奈くらいならお尻をねじこめばジャストフィットしそうな隙間が空いている。
「やっぱどっか違うとこ行かない?」
駅前の定点観測にも飽きた。僕は両手をベンチについて足を伸ばす。美奈がこっちを向いた。
「一時間も待ってられないよ」
「……」
美奈は黙ったまま駅の中を覗いて、電光掲示板横の時計で時間を確かめると、また僕を見た。
「行ってきてもいいよ。ここで待ってる」
……行ってきてもいい、か。
一人でショッピングモールぶらついたところでなー、と、僕はもにょもにょした。もしかしたら、同じようにここへ遊びに来ている友達と会えるかもしれないけど、会ったら会ったですぐ別れないといけないんだから、どこか損した気分になりそうだ。
退屈そうな素振りを見せない美奈は、待つことに慣れているのだろう。ほぼ毎日、図書室で僕の部活の終わるのを待っているから、一時間くらい苦にもならないんだと思う。でも僕は苦だ。
ぱっとしない気分でいる僕を見かねてか、美奈が続けて声をかけてきた。
「……しりとりする?」
「しりとり……」
それは何も道具がないときの暇潰しの最終手段ではないですか。そのカードもう切っちゃうの? まあいいけどさ。
「じゃあこの後のポップコーン賭けて」
「そういうのはいい」
ああ、そう。
案はあっさり蹴られた。そうとはいえ、ただのしりとりでは食傷気味だという点には同意見らしい。
「絵しりとりにしようよ」
そう付け加えて、美奈は自分の鞄(小型のナップサック)から、メモ帳と筆入れを探した。筆入れからは六角鉛筆を取り出して、キャップを外して、メモ帳と一緒に僕に手渡してきた。
「はい」
「僕から?」
頷かれる。強いて断る理由もないので受けとる。
絵しりとり……絵ねえ。それじゃあ、悠介と悠奈がもっと小さかったときに、あれ描いてこれ描いてとせがまれては母さんと共にイラストを量産していたこの僕の、上手でも下手でもないそれなり画力をとくと見せてやろう。
美奈が鞄に筆入れを戻している間に、僕はささっと鉛筆を走らせた。丸描いて棒刺して、その端っこに葉っぱをちょろっと。『リンゴ』だ。
しりとりをやる人が100人いたら、そのうち90人くらいは『リ』から始めて、90人中80人くらいは『リンゴ』を選ぶと思う。で、ゴリラ、ラッパ、パンツ、積み木、と、この辺までは定番。定番すぎて逆に、積み木までいくパターンは滅多にないだろうけど……。とりあえず僕は定番を踏む。相手の選択肢を読んでいく心理戦たるしりとりで、初手で変なのぶっこんで場を荒らすなんて、そんなことやるのは悠介くらいだ。
返ってきたメモ帳に、美奈はじっくりと何かを描いている。昔から何事もいい加減に済ますということのない美奈は、絵しりとりひとつとっても真剣だ。前にやったときは、絵に納得がいかないと言って消しゴムで消して描き直そうとするものだから、この遊びそういうんじゃないからと止めたっけ。
何描いてるんだろう。定番のゴリラかな。時間使って描かれると、待ってるほうはやっぱりヒマなんだよな。
「見ていい?」
訊くと、うん、と生返事。ただ、その後すぐに絵が完成したようで、覗く間もなく渡された。
これはゴリラじゃない。それは見てすぐわかった。じゃあなんだろう。細い棒、たぶん箸で何かをつまんで、火の上の鍋から取り出している。横には鍋よりも小さな皿かお椀かが置いてある。どちらも中に水が入っているっぽい。見た感じ鍋料理だ。でも、『ゴ』から始まる鍋料理って何だ? ご当地料理とか……まさか美奈、リンゴをリンゴだと思ってないなんてことは……。
「なにこれ、何描いたのこれ」
「……」
返事はない。美奈はルールを遵守しているようだ。
謎の鍋料理を穴の空くほど見つめる。
「……」
見つめる。
「……」
あるとき、ふっと、驚くくらいすんなりと思いついた。
わかった……『ごましゃぶ』だ。
箸で持っているのは肉。それを鍋のお湯にくぐらせている場面。その前提で見れば、横の取り皿の中の液体が透明なのは水だからではなく胡麻ダレだからと思えなくもない。
何故思いついたか、昨日の夕飯がごましゃぶだったからだ。……ごましゃぶ、まあ、タレの名前だから固有名だけど、家では料理の名前みたいになってるから、オッケーになるのかな。
にしても……この発想。ぶっこんできたなー。
絵しりとりで『リンゴ』の次に『ごましゃぶ』を持ってくる女子中学生なんて、いるか? 普通。世界で美奈の他にいないんじゃないだろうか。
こんな変化球を投げられると、僕も難しいお題に挑戦したくなる。冒険してやろう。ついでに食べもので縛るとして……まっさきに浮かんだのは、『ブイヤベース』。
ヨーロッパあたりの煮込み料理だったはずだ。魚介が入っているのは覚えている。それ以外は知らない。食べたことがないので味もわからない。けど僕が知っているんだから美奈も知っているだろ。
「……」
描く。渡す。
「……」
互いのお絵かきを覗き見合いながら、言葉少なに二人で紙面を埋めてゆく。
描く。渡す。
そうして、メモ帳の一ページが満杯になったところで、答え合わせをすることにした。
「これ、なに?」
解禁の途端、美奈は真っ先に僕のブイヤベースを指して言った。
来ると思ったよ。ここから早速狂ったもんな。渡してから描き始めるまで、美奈、けっこう悩んでたし。
ブイヤベースだと答えると、美奈は「は?」と全く予想外だったという感じに頓狂な声を上げた。
「豚の角煮だと思った」
「それはアウトだろ、しりとり的に。……ほら、これがあの、ムール貝ってやつで」
「見えないし……こことんがってるもの、角煮でしょ」
「貝だって」
「嘘。角煮」
「なんだよその角煮押し。食べたいの?」
身を寄せ合って、一冊の小さなメモ帳に描かれたものにあーだこーだと言い合う、僕と美奈。ふと気づいた。さっきまで僕と美奈の間に空いていた拳3つ分の距離がいつの間にか縮まっていた。
これは、この距離は、傍から見たら……。
知り合いに見つかったら、ちょっと、恥ずかしいぞ。
離れようかどうしようか、迷って足を踏みかえたその刹那。
「楽しそー」
予感、的中。当たってほしくないもしもほど、やけに当たるよな。遠巻きに声をかけられて、揃って顔を上げると、少し離れたところに女子の二人組が立ってこちらを見ていた。ピラミッドに反射した陽の光が、後ろから彼女たちを照らしていて、目にまぶしく映る。二人が近づいてくる。
一人は作利川さんだった。長い黒髪を丁寧にまとめて、淡いカーディガンに濃いフレアスカートと、すごく落ちついた格好をしている。
もう一人は……見覚えはあった。昨日、教室で、美奈にガッツリ話しかけていた子だ。名前は、昨日美奈から聞いたところによると古谷さん。下の名前はたぶん……マイラ?
実は、今日の面子を集めた通信アプリのトークに一人「Maira」と心当たりのない名前があって、聖母様がスペルミスしたのだろうかと気になっていたのだ。
こうして正面からお目にかかると、何と表せばいいか……キラキラした女の子、という雰囲気が強くあった。小柄で、髪色は明るく、目がくりっとしていて大きい。デニム生地のオーバーオールという、ややボーイッシュな格好がよく似合っている。
まあ、ボーイッシュな格好といえば……いま僕の隣にいる人もそうだ。ショートパンツだし。
「やあ」
つとめて自然に挨拶をする。寄ってくる作利川さんの目は美奈に向いていて、美奈はその視線を敏感に受けとめて言葉を交わさないうちから緊張し始めているのが伝わってきた。一方、古谷さんの目は僕を向いていた。
「早いねー稲橋くん。それと……古館さん、でいいんだよね。私、作利川楓奈です。よろしくね」
「私が古谷昧羅です! フルタニじゃなくて、フルヤですっ! 稲橋くんとも同じクラスなんだよね、これからよろしくね!」
美奈に話しかける作利川さんは、スマホを没収されて先生に「ハーゲ」とか言っていた問題児はどこにいったのと思うくらい、大人びた物腰だった。その横で、古谷さんは対照的に元気よく言って、おどけて敬礼のポーズをした。
教室でも見かけているし、トークでもお互いに名前を見ている。でも、実際に話すときこそ初めましてだ……僕もよろしくと挨拶を返す。古谷さんは嬉しそうに頷いた。
それから古谷さんは、しゅんっ! とLRボタンでターゲットを切り替えるように美奈のほうを向いた。
「美奈ちゃん、昨日ぶりだね! その服かっこかわいいね、ていうかやっぱ足綺麗だよね。スタイルよくていいなあ、羨ましい」
あ、えっと、と美奈がしどろもどろになっている隙に、古谷さんは美奈の空いている隣にさっと座った。
「何やってたの? 見せて見せて!」
メモ帳を覗きこむ古谷さん。美奈の説明は全然追いついていなかった。
……ああ、これは美奈は疲れるわ。昨日の帰り道での、美奈の言葉に今更ながら納得。古谷さん、動作に小動物っぽい忙しさがあるし。本人が小柄なのもあって、余計にそう思う。
古谷さんが美奈の隣に座ったことで、ベンチは満員になった。もっとぎゅうっと詰めれば4人座れないこともないが、せせこましいことをしても仕方がない。
「座る?」
「おっ、紳士だー。ありがとー」
作利川さんと場所を交代するとき、気のせいかな、美奈に恨みがましい目で見られた気がした。いやいやまったく、付き合いの浅い人たちに両隣を挟まれるからってそんな目をしないでほしいです。大丈夫大丈夫、美奈が本当に困っちゃって何も答えられなくなったときは、僕がここから助け船を出すからさ。
「ところで」
僕と美奈の絵心バトルの変遷をひととおり眺め終えた古谷さんは、ちらと目を上げて、これが一番の話題だというふうに切り出した。
「美奈ちゃんって楓奈じゃなくて、稲橋くんの繋がりなんでしょ? 二人は、あの、これ噂で聞いたんだけど、同じ家に住んでるって……ほんと?」
「……」
「……」
うわ来た。
爆弾投下、である。
新学期が始まったから、この話題はいつかどっかから来るだろうと思っていた。今かあ。
何と答えたものか。
本当は本当だけど、うまい説明が思いつかなくて、美奈は黙ったし、僕も黙った。
僕と美奈の、人とはちょっと違う特別な幼馴染みの関係は、特別秘密にしていることでもないから、知っている人には知られている……少なくとも、あのとき同じクラスだった人たちは皆事情を知っている。そこから、じわじわと内緒話は広まっているんだと思う。人の口に戸は立てられないというように。ただ、やっぱり知らない人もいるのだ。話の尻尾だけ聞きかじって、古谷さんみたいに訊いてくる人も、たまにはいる。
僕は美奈を見る。美奈は下を向いて黙りこくっている。
どうしよう。美奈の気持ちを考えると、何を言うのもはばかられて困ってしまう。今みたいに、美奈がいる前でとなると、なおさら……。
前に訊かれたときは、美奈が一緒にいないときだったから、かいつまんで説明することもできたし、それか、世間話のついでとかだったから、適当にうやむやにすることもできた。でも今はそうじゃない。ダンボールに詰めて端に寄せておいて、みんなで見ないことにしていたものを、懐中電灯で照らされて「あれはなに?」と訊かれたような気分だ。こういうとき、父さんや母さんだったら、なんて答えるんだろう。あるいは、美奈自身は?
助け船を出してくれたのは、窮した僕と美奈の様子を交互に覗っていた作利川さんだった。
「私それ、どっかで聞いたことあるよ。二人とも小学校からクラス同じで、家がすごく近所だったんでしょ。昔から仲がよかったから、家の事情で、稲橋くんちで古館さんを預かることになったって」
この言い回し……作利川さんはもしかしたら、事情をどこかで聞いて、知っているのかもしれない。知っていて気を回してくれたみたいな話しかただった。
そんなところだよ、と僕が渡りに船と同意しかけたとき、
「私、捨て子だから」
「……」
「……」
「……」
再びの、爆弾投下。
古谷さんの笑顔が凍った。古谷さんだけでなく、作利川さんも僕も何も言えずに固まって、下向きにメモ帳ではないどこかの一点を見つめながら口だけを動かして喋る、美奈の声を聞く。
「小4の頃から悠揮の家に居候、してて……同じ家に住んでるのは、本当だけど……。……私が拾ってもらったって、それだけ」
……言っちゃうんだ、美奈。
美奈の声には努めて平淡にしているような頑なさがあった。美奈はたまにこんなふうになる。「捨て子だから」と直接言うようなことは珍しいとしても、回りくどく自分で自分の立場を貶めるようなことを、頑なな態度で言うのだ。
「えっと……」
可哀想に古谷さんはすっかり狼狽してしまって、誰に助けを求めるでもなくあちこち視線を走らせた。
まあ、訊いてきた以上は全く予想してなかったわけでもないだろう。名字の違う同級生が同じ家に暮らしている、と聞かされれば、色々理由を妄想する中のどこかに出てくるはずだ。だけど、こう剥き出しに告げられるとは思っていなかったか……。
それとも、普通に暮らしている人たちは、捨て子なんて発想、出てこないのかな。
「でもさ、仲がいいのは本当なんだよね? 一緒に帰ったりするくらい」
作利川さんが微妙に声を張った。
「そうだよ、超仲良し。な、美奈」
乗っかる僕。いつもは友達に僕たち仲がいいですなんて言わないから、少し恥ずかしいなーと思いつつ言ったところ美奈はもっとそうだったらしく、顔を赤くして僕を睨んだ。
「あの……ごめんね、変なこと訊いて」
こそりと呟くような謝罪の言葉を、その場にいた全員は聞かなかったことにした。
それから、トシたちがやってくるまでの間……古谷さんは遠慮して口数が減ってしまって、美奈はもともと喋らないし、僕と作利川さんだけが倒れた自転車の後輪のごとく空回りの感じがする会話で盛り上がっていた。