1-1 始業式の朝
4月6日、木曜日の朝。
のんべんだらりと過ごした春休みは昨日で終わり、今日からは、中学2年生の新学期が始まる。
そんな日の朝。
だというのに、休みの寝坊癖が抜けない僕は、起きたような、起きていないような、中途半端な心地で布団の中に留まっていた。
朝だ。もう始業式の朝だ、早いなあ。春休みが始まったのはついこの前だとすら感じるのに、もう次の学年が始まってしまう。さあ、新しいクラスはどんなクラスだろう。見知った顔はいるだろうか。担任は誰になるんだろう。あれ? そういえば、目覚ましって鳴ったっけ。どうだったっけ。さっき止めたような気もするし、止めていない気もする。夢だったか? まあいいか。まだ鳴っていないことにしておこう。
寝返りを打つ。
うーん、起きたら実はまだ5日だったりしないかな? 学校が嫌いなわけじゃない、学校はとても楽しくて好きだ。年に何度もある定期テストがちょっと面倒だけど、それさえ除けば、この世界の楽しいことを全部詰めたような場所だから、大好きだ。
でも、それはそれとしてまだ休んでいたい。春休み、伸びてくれないかなー。竹のようにぐんぐん伸びて夏休みと繋がってしまえ。
「起きて」
ふと、誰かの声が聞こえた気がした。
気がしたが、僕の頭は聞いていないふりをすることに決めた。
だって、ほら、この声が夢の産物でないとは限らないじゃないか。起きてみて、誰もいない部屋を見回して、もう少し寝ていられたのにと三文損をした気分になるくらいなら、まだ布団の中で、こうして……。
「起きて、悠揮」
また聞こえた。
もしかして、この声は現実なのか? 僕は起きなければいけないのか?
寝ぼけた頭はどちらとも判断できないまま……僕の手だけが勝手に動いて、なんとなく布団を掴む。
「起きろ」
ぐわさっ。
布団が吹っ飛んだ。
正確には、ものすごい力で布団が引っぺがされた。
そういう競技なのかと疑いたくなる勢いだった。布団が宙を舞う音がする。風圧にカーテンがはためく音がする。もしこれがテーブルクロス引きだったら食器が大乱闘していた。そんなイメージが脳裏に浮かぶ。ついさっきまで、肩から爪先までぬくぬくだったはずの僕の全身が、急に涼しさに襲われている。そして布団を掴んでいたはずの僕の手は、情けなく布団を追いかけて宙に取り残されている。
あわれ安息の地は敵の手に落ちた。降参しろ。白旗だ白旗。
眠い目を開けると、既に制服姿――白いブラウスを着た、茶色の髪の特徴的な女の子が、無表情にほんの少し呆れを足した顔をして、布団を大きく振り上げて立っていた。
彼女の名前は古館美奈。
姉ではない。妹でもない。もちろん母親でもない。
小学校の頃からの、僕の幼馴染み。
「……おはよう」
言いながら、しぶしぶ上体を起こす。どうも身体に力が入らない。睡魔が僕を布団に引き倒そうとしているようだ。寝坊した日に、自力でなく誰かに起こされて起きると、こうなる。
のろのろと動いていると、奪われた布団が戻ってきた。勢いよくぶっかけるという形で。ぶっかけぶとんとはこのことか。ああ、埃が立つ。
腕を動かして布団を押し退ける。
一瞬の目くらましの隙に、美奈はもう、部屋を出ていこうとしていた。
「朝ごはん、できてるから」
それだけ言い置いて、姿が消える。階段を降りてゆく足音が聞こえる。
ぼーっと見送った後で、僕は軽く首を回してみた。枕元の時計をよく見ると、目覚ましを仕掛けた時間はとっくに過ぎていた。その上にある窓の、今の布団アクロバットによって僅かに開いたカーテンの隙間から差しこむ朝の光が、クリーニング屋のビニールを被ったままコートハンガーにかかっている制服に当たっている。奇しくも、今日は登校日ですよと太陽が言っているみたいだ。
「……」
羊が一匹。
羊が二匹。
怒濤の羊。
よし、目が冴えてきた。
ベッドを降りると、足の裏にラグのごわごわした感覚。なんだか新鮮に感じられる。窓際に寄って、カーテンを開けると、すっかりいい天気の空が見えた。朝らしく少し色の薄い、澄んだ青い空。ふわふわの白い雲がお隣さんの屋根のずっと上のほうを流れてゆく。始業式日和の、いい空だ。
窓も開け、網戸にする。風と一緒に、朝の街の音が入ってくる。一日の始まる音が聞こえる。
「起きろねぼすけー!」
と、けたたましい声も聞こえる。おや、この声は外じゃないな。家の中からだ。
振り向いて隣の部屋に意識を向けてみれば、壁一枚隔てた向こうが何やら騒がしかった。起きろ起きろと妹の張り切る声と、カンカンと――これは拍子木か? 甲高い音がする。少し遅れて、今度は弟の、眠そうにぶつぶつ文句を垂れる声がする。
弟よ、お前もか。
妹が痺れを切らしているのだろう、カンッ! カンッ! と拍子木の音がテンポを上げてきた。どんどん速くなる。カンカンカンカンカンカン――。あ、聞いたことあるな。なんだこれ。歌舞伎の幕切れかな?
そんな壁越しの目覚ましをBGMに、僕はコートハンガーに手を伸ばした。
リビングに入ると、ちょうど入れ替わりに父さんが出ようとしているところだった。
とうに朝の準備は済ませて、髪もネクタイもばっちり決めて表情はしゃっきりと大人のそれ。社会人ってすごいなあ。父さんはジャケットと鞄を手に、床にほっぽり出されたランドセルをのっしと跨いでやってくる。
「おはよう、行ってらっしゃい」
「おはよう。悠揮寝癖すごいぞ」
「んー」
それは顔を洗ったときに鏡で見たから知っている。僕の寝癖は強いのでちょっとやそっとじゃ直りっこないのも知っている。適当に後ろ髪をがしがしいじっていると、見かねた父さんに「ここだよ」と、ジャケットを持ち替えて空けた手で髪をぐわしぐわしいじられた。
すごく雑。千円カットの床屋より手つきが雑だ。これでは、より悪化したんじゃないだろうか。
「じゃ、行ってくる」
車の鍵を取る音を背中に聞きながら、僕は食卓のほうへ向かった。
リビングダイニングキッチン? っていうの? 僕の家のリビングは、部屋の一番目立つ場所にテーブルが置いてある。
だからだろうか、友達の家に遊びに行ったときなんかも、僕はつい食卓まわりを見てしまう。この空間こそ家族の象徴だと思うからだ。誰に教わったのでもなく……気づけば癖になっていた。この観察は意外と面白くて、頭のいいやつの家だと、テーブルは角があってクロスまでかかっていたり、一人っ子の家だと、なんだか小さなテーブルだったり。
うちの場合は、楕円と長方形の中間の形をした、そこそこ大きなテーブル。このテーブルは、父さんと母さんが結婚して、この家に越してきたときから働いているらしい。最初は二人で使ってたのに、気がつけば六人だものね、なんて、この前母さんが天板を拭きながら言っていた。
長辺のひとつに僕と美奈、その向かいには父さんと妹。美奈と妹の側の、キッチンに近い方の短辺に母さんが、反対側に弟が座る。いつ決まったかは覚えていないけれど、こんな風にそれぞれの席が決まっていた。
今は、座っているのは美奈だけだった。キッチンに立っていた母さんが僕を見る。
「おはよう、悠揮。寝癖すごいことになってるよ。サイヤ人みたい」
「いま言われた」
「今日はご飯とパンどっちにする? お味噌汁と目玉焼きもあるけど」
「パン」
カシャン! その言葉を待ってましたとばかりに、キッチンラックのトースターが、焦げ目のついた食パンをタイミングよく吐き出した。
そのうちの一枚を取り出し、母さんに渡された目玉焼きの皿(レタスとミニトマト付き)と一緒に、席につく。母さんもご飯と味噌汁の椀を持って、自分の席についた。
「あ、ソースないじゃん」
卓上に並んでいた塩や醤油といった調味料の面々を見回し、僕は下ろしかけた腰を再び上げる。
「悠揮だけだもの、目玉焼きにソースなんかかけるの」
「なんかって」
まあ、そうだ。僕だけだ。この家の、目玉焼きにソース派は。
というか、我が家の目玉焼きの味付けの好みは、みんな見事にバラバラ。僕はソース、母さんは醤油。父さんは塩胡椒。弟は塩だけで、妹はケチャップ。美奈は、何もかけない。
冷蔵庫からソースとケチャップを出して戻る。
僕の席の隣で、美奈はプレーンな目玉焼きを食べていた。横に置いてある食パンを見るに、美奈もパンを選んだようだが、それにはまるきり手をつけていない。
「悠揮、顔洗ったの?」
「洗ったよ」
「今度からそのときに寝癖直しときなさいね」
「わかった」
「こないだは結局寝癖直さないで出たでしょう。新学期からクラスの人に笑われるよ」
「わかったって」
どん、とテーブルにソースとケチャップを置く。醤油の横にりんごジャムとブルーベリージャムとピーナッツバターが置いてあるのを見てとって、それから僕は、フォークを走らせては目玉焼きの切れ端を口に運ぶ作業をずっと黙々と繰りかえしている美奈の方を向いた。やっぱりパンにはノータッチのまま、手をつける素振りもない。
「美奈、食パンに何つける?」
「なんでもいい」
「りんごとブルーベリーとピーナッツバターなら、何が好き?」
「……ブルーベリー」
だと思った。僕はブルーベリージャムを取り、蓋を開け、匙ですくって、それを自分の食パンに垂らす。偏らないように塗り広げる。
ちょうどそのあたりで、ドタドタドタッ! と階段を駆け下りるやかましい足音が重なって聞こえてきた。聞こえてきたなーと思ったら、次の瞬間にはもうドアが、バーン! と蝶番を傷めそうな勢いで開いた。ついで、トースターから飛び出る食パンよろしく、リビングに飛びこんでくる二つの影。
「いっちばーん!」
「ちがう! 悠奈が一番!」
飛びこんできた二つの影は、僕の弟と妹。名前をそれぞれ、悠介、悠奈という。悠介はこの春から小学4年生、悠奈はひとつ下の小学3年生だ。
二人はほぼ同時に飛びこんできて、その勢いのままドアのすぐそこに置いてあったお互いのランドセルを思いきり蹴っ飛ばした。
「あーっ!」
「うわーっ!」
衝撃で中身の飛び出たそれぞれのランドセルを、それぞれに拾おうとして、頭と頭がごっつんこ。そしてすってんころりん尻餅どしん。コントか。
「ちょっと! 悠介どいてよ!」
「お前がどけ!」
この二人が揃ってどったんばったん大騒ぎするのは、毎朝の恒例行事というか、そうなるように仕組まれているからくりのようなものだ。僕も美奈も母さんも、少しも動じず、朝食の続きにする。
「悠介、悠奈、ご飯とパンどっちにする?」
母さんに問われて、額を付き合わせて唸る野良猫と化していた悠介と悠奈は、そっくりな動きでパッと立ち上がった。
「パンがいい!」
「今日はパンの気分!」
母さんは味噌汁を持ったまま、トースターの方を振り返った。飛び出し口の片方に、取り残された食パンが一枚見える。
「パンあと一枚しかないの。あれで最後」
「えーっ! やだ!」
「おれパンがいい!」
「悠奈もパンがいい!」
同時に声を上げ、瞬時に顔を見合わせて野良猫に戻る悠介と悠奈。
この二人は、なんというか、なんというかだ。つくづく張り合うのが好きというか、似たもの同士というか。
悠介と悠奈は、何故か好みが被る。双子でもないのに、その日限りのちょっとした好みの変化まで被る。そしてケンカをする。これまでは勝ち負けが五分五分だからまだよかったんだけど、最近、悠介の方が力も口も強くなってきて、どうだかなあという感じ。
さて、ハブとマングースよろしく睨み合う二人に、美奈が動いた。
「これ、あげるから、ケンカしないで」
美奈は皿に手を添え、自分の、手をつけていなかった食パンを差し出した。迷いのない動作だった。
すっ、とテーブルの上を動いた皿に目をとられて、悠介と悠奈のガンの飛ばし合いはすぐに止んだ。
「美奈ちゃん、ありがとう!」
「ありがとー!」
「ごめんね、美奈ちゃん」
悠介と悠奈は、ありがとうと元気よく言う。二人分の目玉焼きを取ってきた母さんは、美奈にありがとうではなくごめんねと声をかける。美奈は目を伏せて一言「いいえ」と呟いた。
礼も謝罪も要らないとばかりに、ちょっとだけ頑なな態度になる美奈を、母さんはちょっとだけ心配そうな顔で見つめている。
僕はブルーベリージャムを塗り終えた食パンを、頭のてっぺんから二つに裂いて、その片方を差し出した。
「はい」
美奈は目を上げず、けれど素直に受けとった。
「……ありがと」
「どういたシマウマ。何か変な形になっちゃったな。失敗した」
「ぶきっちょ」
不揃いに分かたれてしまった食パン。美奈は断面を見ながら、ちょっぴり面白そうにそう言った。
小学生二人の、あれがないこれがない、お母さんどこにあるの、どこやったの、今日持っていかなくてもいいんじゃないのの上を下への大騒ぎをたっぷり経たあとで、僕と美奈と悠介と悠奈は揃って家を出た。
「いってきまーす」
僕と美奈の前を、黒と赤のランドセルがぴょこぴょこと動く。
小学校の新学期初日は、午後に入学式があるために午前中に終わって帰れるそうで、二人のランドセルは見るからに軽そうだ。春休みの前、前年度最後の授業日から帰ってきたときは、サイドに給食袋と体操着袋と白衣の袋をぶら下げて、おまけにカバー下に引き出しを巻き込む形でぎっちぎちになっていたというのに、休みの間にだいぶ減量に成功したらしい。
「あ、タンポポ咲いてる!」
「ホントだ!」
悠介と悠奈が、少し先の路脇に咲く花を見つけて、走ってゆく。
車は来てないようだし、まあいいか。何も言わず、僕と美奈は二人を見守る。
我が家から小学校へ行くのと、中学校へ行くのでは、まるきり道が違う。でも、僕らはいつも小学校の登校班の集合場所まで一緒に行って、つまりそこまで悠介と悠奈を送って、それから中学校に向かうことにしている。集合場所から小学校までは遊歩道をずっと通って行けるものの、そこに行くまでは道路を歩くことになるので、その間で小学生二人にもしものことがないように見ててあげて、と上からのお達しがあったからだ。
心配のしすぎだと思うんだけどね。僕が小学生のときには一人で行っていた時期があるんだし、この辺で事故が起きた例があるわけでもない。それに、本当なら、中学校の方が少しだけ家から近くて、朝学活の始まる時間は中学校の方が遅いので、僕と美奈はもう少し遅く出ても間に合う……。
しかしまあ、そこは色々と込みいった、やむにやまれぬ事情があるわけで。たとえば……たとえばそう、弟と妹の面倒をみるのをサボると査定が下がる。査定が下がるとお小遣いが下がる。
「兄ちゃん!」
「お兄ちゃん!」
さっそく保護対象が戻ってきた。
悠介と悠奈はそれぞれ、手に摘みたてのタンポポを持っていた。競って見つけたかなんかしたんだろう、どちらもなかなか立派に咲いているタンポポだ。
「タンポポとってきた!」
「そう」
「あげる!」
「どうも」
くれるというのでもらう。
もらったところで使い道はわからないけれど。
冠を作るのはシロツメクサだっけ。どのみち二本じゃ作れないか……二本でできる遊びといったら、オオバコ相撲? オオバコが雑草にしては意外とレアだったもので、僕が小学生のときには、代わりにタンポポでやったなあ。
懐かしさを感じながら二本のタンポポを指で回していると、悠介と悠奈が詰め寄ってきた。
「どっちが大きい!?」
「えー……どっちも大きいよ」
「どっちもはナシ!」
「じゃあ……」
後ろ手に二本のタンポポを隠し、適当にシャッフルして一本を前に出した。
「こっちのほうが大きい」
「それどっちが持ってきたの」
「さあ、わかんね。見てみれば」
悠介と悠奈は顔を寄せ合って覗きこみ、返した後は二人であちらこちら眺め回していたが、結局わからなかったらしい。ぶーぶー言いながらまた新しいタンポポを探しに行った。
「後ろ車来たから気をつけろよー」
声をかければ、聞いているんだか聞いていないんだかわからない返事がくる。
今日が新学期初日であるからだろう、悠介と悠奈は下校中の小学生のようにあっちへ行ったりこっちへ行ったり。いやまあ、小学生は小学生なんだけれども。
中学生になってから、小学生の弟妹の様子を見ると、僕って小学生の頃こんなだったんだろうか、もっと落ち着いていたんじゃないかという気分になる。だってそうじゃない? 朝からタンポポ摘むために走り回るエネルギーなんか、今ないよ。そんなことを、この前両親に話したら笑われた。どういうことだ。
視線を感じた気がしてちらと横を見ると、美奈は僕の持つタンポポを見ていた。
「いる?」
「いらない」
ですよね。
「お兄ちゃん、ほら、タンポポあげる!」
また来た。
成し遂げた顔で戻ってくる悠奈は、今度は二本では済まない、ざっと十本弱のタンポポを押しつけてきた。摘み過ぎだ。乱獲だろ。内心マジかよと思いながら受けとった。まっきんきんのタンポポの花束だ。どうしよう、冠が作れちゃいそう。
一方、悠介は戻ってこなかった。どこにいるのかと探したら、向こうにいた。
前のほうに見えてきたのは、遊歩道が膨らんで一本の植木を囲むように石のベンチが置いてあり、道路から遊歩道への入口にもなっている小広場。すなわち登校班の集合場所。悠介はいつの間にそこまでさっさと行ってしまって、先に来た近所の友達と話していた。
まあ……どっちが大きいタンポポを見つけられるかで妹と競っているよりは、よほど、らしい。
さて、目的地が見えてきたので、僕らの役目はここまで。
「じゃあね、お兄ちゃん、美奈ちゃん」
「行ってらっしゃい」
集めたタンポポを配達し終えて満足したのか、僕たちに手を振り、悠奈も小広場目指して走っていく。
悠奈の後ろ姿を見送って……。
まっすぐ行かずに、次の角を曲がった。ここから中学校を目指すには、ぐるりと住宅地の細い道路を縫って進むのが最短ルート。
僕らの住んでいるところは割と高低差のある土地なので、坂が多い。登って降りて曲がって登って降りて曲がってと、改めて思うと人に紹介するには面倒なルートだ。少なくとも自転車乗りには勧めない。
裏を返せば、乗りものがあまり通らない上にスピードも出さないので、通学路にしやすい道ではある。つまり、よそ見をしながら歩くことができる。いつも小屋の中で寝ている犬が日向に出ていたり、寒い時期にはイルミネーションが飾られている家があったり、些細な家並みの変化を楽しみながら歩けることだけは、遠回りの利点かもしれない。
しばらく住宅地を歩くと、またちょっとした上りの坂道があって、これが結構急なんだけども、登りきったその先に中学校まで続く歩道がある。ちらほら同じ学校の生徒を見るようになるのは、この坂道のあたりからだ。今日も遠くに学生服の後ろ姿が見えた。
ところで。
どうするか、このタンポポの花束。
持って歩くのも恥ずかしいな。
隣を歩く美奈を見る。もう一度、訊く。
「……いる?」
返事は早かった。
「いらない」
ですよね。
「……」
でも差し上げる!
僕は持っていたうちの何本かを、まとめて美奈のブレザーの内側に突っこんだ。ぐっと美奈が怯んだ隙に、今度は残りのタンポポ全部を美奈の鞄の外側のポケットにプレゼントした。そして逃げようとした。
「っ」
しかし、反撃も早かった。
美奈は実に器用な動きでタンポポたちを抜き取ると、僕の後ろ襟をつかまえて、背後からギフトを贈り返してきた。
ブレザーの胸ポケットからわんさか顔を覗かせるタンポポの花束。
「卒業生かよ」
「それで教室行けば?」
鞄を持ち直して、ふん、と美奈はそっぽを向く。猫みたいなすましかただ。
「……」
高をくくっていられるのも今のうちだぜ。
「……」
僕は、事は済んだと油断している美奈から目を離さないまま、タンポポを一本、そっと抜き取った。
くるりと指で回して、手に馴染ませる。茎を潰さぬように慎重に、ヒットマンのひとつしか残っていない銃弾のように慎重に。指で回しながら持ち位置を決めて……。
そして、すました表情の美奈の横顔に、狙いを定めて、その無防備に外へ晒している耳に、黄色い花弁のもこもこを――刺す!
「にゃっ!」
今にゃって言った?
美奈は横へ飛ぶようにして僕から離れた。片耳を押さえて、僕を睨む、その頬がだんだん朱に染まる。
腰を落として、空いたほうの手を前に構えて、初代ウルトラマンポーズをとっている美奈に、怒られるとわかっていても、つい言ってしまう。
「ダンデライオンだけに猫」
「殴るよ」
言うが早いか美奈は肩にかけた鞄をガッと背中に回して臨戦態勢に入った。ひとつしか残っていない銃弾(用済み)を放りだして逃げだした僕を、美奈も走って追ってくる。
逃げる僕。追う美奈。
走りながら僕は、まるでトムとジェリーみたいだと、前にこの様子を見た誰かに評されたことを思い出していた。そのときはトムとジェリーが何なのか知らなかったので聞き流していたけど、今改めて考えると、うん、そう言われても仕方ないことをやっていると思う。
ただし違う点がひとつあって、それは、美奈は僕より足が速いということだ。
今日は坂の途中くらいで追いつかれそうだ。……よし。
「待って、残りのタンポポ全部あげるから」
「いらない!」
懐柔策、あえなく。
タンポポの花束を片手に追いかけっこ。
父さんと母さんに笑われるわけである。
結局、僕と美奈は、遅刻しそうな時間でもないのに校門まで全力疾走してしまった。