プロローグ
美奈と、いつ会ったか、とか、何がきっかけで話すようになったか、とか、そういうことはとっくに忘れて、憶えていない。
憶えているのは、たとえば、鉛筆と消しゴムを貸してあげたときの消え入りそうな「ありがとう」の声、男子と取っ組み合いのケンカになっても一歩も引かなかった後ろ姿、メダカの水槽のガラスに水草と溶け合って映る茶色の髪、などなど。
それも、はっきり憶えているわけじゃなくて……、こんなこともあったよなと、収まる場所のないパズルピースが頭の中をふわふわ漂っている感じ。今更、整理のしようもない。
美奈とは、同い年で、ご近所さんだった。
登校班が一緒だった。
クラスが一緒だった。
係活動も、よく一緒になった。
隣の席になることは、あまりなかった。
気づいたら、幼馴染み。
幼馴染みって、たぶんそういうものなんだろう。
いつ、何をしたからと始まったものでもなく、だけど当たり前に関係が続いている。いつだったか、一緒に帰ったことがあったり、いつだったか、連絡帳を届けてあげたことがあったり、いつだったか、遠足のお弁当をわけてあげたことがあったり。そうした思い出たちが、記憶の海に、孤島のように浮かんでいる。
そんな関係が壊れたのは、小学4年生のとき。
そのときに見聞きした風景だけは、僕はよく憶えている。
ある日。梅雨が明けてプールが開く頃だった。美奈は突然、無断で学校を休んだ。
次の日も、その次の日も美奈は学校に来なかった。
美奈は茶髪だ。生まれつき。それから、つり目というほどではないけど、目つきが鋭い。口数は少なくて、あまりはしゃがない。そのせいか、ちょっとワルっぽい印象を持たれがちだった。
けれど、その実、美奈は真面目な性格をしていた。やんちゃ坊主の僕なんかよりも、ずっと真面目な子だった。だから、どんなときでも学校をサボることはなかったのだ。悠揮君は何か聞いてない? なんて先生に聞かれるのは初めてで、どうしたんだろうと思った。
次の日も、その次の日も。美奈は学校に来なかった。
先生はどうやら、美奈の家まで行ったようだった。家まで行って、下校中に外から様子を見るだけだった僕とは違って、インターフォンを押したらしかった。
何かあったのかと聞くと、先生は、美奈は家庭の事情でお休みしているのだと教えてくれた。それ以上は教えてくれなかった。食い下がってはみたけれど、先生は口を割らなかった。でも、思いがびっくりするほど顔に出ていて……。先生の悲しそうな顔を見て、僕は食い下がるのをやめにした。
もしそれ以上聞いたら、先生が泣いてしまいそうな気がしたからだ。
そのときの僕にはそれが、とても恐ろしいことのように感じられた。
ただ、その、理由はそれだけではなくて……、先生を問い詰めなくとも、家庭の事情とやらを、薄々察していたのもある。
美奈の家が普通じゃないことに、僕は気づいていた。
友達――幼馴染みだから。
給食費未納、育児放棄、児童相談所――。
話には聞いても身近にはないような、そうした言葉たちを、僕はいつの間にかどこからか仕入れてきていて、そうした言葉たちが、美奈の周りをぐるぐると取り囲んでいることを知っていた。
わかるんだ。小学生だって。
いつかこんな日が来るんじゃないかって、横目で見ながら、思っていた。思うだけで、何もしようがなかったけど。
次の日も、そのまた次の日も……美奈は学校に来なかった。
クラスメイトはどれくらい真剣に心配していただろう。今となってはわからない。僕が見たままなら、みんな、まったくいつも通りだった。でも、美奈を本気で心配しているのは教室の中に僕と先生の二人だけだという気すらしていた僕だって、今思えば怪しいものだ。結局、僕もいつも通りに過ごしたのだから。本当の意味で美奈のことを案じることができていたのは、あの広い教室で先生一人だけだったのかもしれない。
そして次の日、美奈は僕の両親に連れられて、僕の家の玄関に現れた。
久しぶりに顔を見た美奈は、笑うでも泣くでも怒るでもなく、表情をなくして俯いていた。
美奈と幼馴染みになった日のことは、とうに忘れてしまったけれど、美奈と家族になった日のことは、はっきりと憶えている。