払われた闇
10.
落ちていく感覚だけがあった。
深く、更に深く落ちていく。
どこまでも続く暗く深い闇。
そのなかをただただ落ちていく。
落ちながら大切な何かが削り取られ、吸われ、絞り出されていく。
永遠に続く終わりの無い闇の中で、もうすぐ自分だけが終わってしまうのだろう。
突然落下が止まった。底に着いたわけではないようだ。
闇の中で、見えない何かが、必死に自分を繋ぎ止めようとしているのが分かる。
不意に温かく柔らかなものが覆い被さってくる感覚。
経験したことのない快感が生まれ、そして、空っぽになりかけた自分の中に、次々と何かが注ぎ込まれてくる。
強烈で、熱をもった、生命そのものといえる力の奔流が身体の中を駆け巡る。
自分という器が満たされていくにつれて、周囲の闇の中に変化が起きた。
無限に続く暗闇の中、遥か彼方の視線の先に一点の小さな小さな光が生まれたのだ。
その光が少しずつ輝きと大きさを増して近づいて来る。
気が付くと、すべての闇が払拭され、辺りが眩い光に包まれた。
11.
目が開いていた。開いているだけで、視覚として脳に伝えられた情報を完全に処理できない。
しばらく混乱した状態が続いたが、次第に周囲の状況を確認できるようになってきた。
どうやら自分はベッドの上に横になっているようだ。
知らない天井。
身体中に鉛でも詰め込まれたかのように、酷く重い倦怠感が太郎を支配していた。
声をあげようとするが、掠れた小さなうめき声をあげただけだった。
果たしてまた自分は病院に運ばれたのだろうか、と太郎が考えていると、髪の長い女性が太郎を覗き込んできた。
「目が覚めたようだな少年。」
何処かで見覚えのある女性だったが、はっきりと思い出すことができない。
何とかベッドの柵を掴み、起き上がろうとしたが上手くいかない。
かけられたシーツを剥がれてしまい、太郎は自分が裸であることに気がついた。
「無理しない方がいい。回復したとはいえ、先ほどまで死にかけていた身だからな。」と女性が笑いながら軽々と太郎の上半身を起こすのを助け、シーツを太郎にかけてくれた。
「ええと、ありがとうございます。死にかけ?でも、何が何だか。あなたは…」と太郎が掠れた声でまごついていると。
「身体は完全に元通りに修復したはずだが、まだ頭がはっきりしないか。君はアレとも私とも初対面ではないのだが。」と言いながら、女性はベッド脇のパイプ椅子に腰を掛け、脚を組んだ。
デニム生地のホットパンツから艶かしい大腿部が覗いている。
「あ、あの時のセクシーさん!」と太郎は叫んだ。
「おいおい。どこを見ながら、しかも何だその『セクシーさん』というのは。」と呆れた顔で、胸の前で腕を組みながらセクシーさんはぼやいた。
「あ、いえ、そのうっかり…。いや、そんなことより…」と太郎が言うと、
「『そんなこと』では済ませておけない呼称だな、それは。」組んでいる腕には、確かな質量をもつ一対の魅惑の物体が乗っているのが分かる。
「レイとよんでくれ。改めて初めましてだ、田中太郎君。」と、レイと名乗る女性は右手を差し出してきた。
「レイ、さんですか。…あれ?俺の名前…。」と太郎が同じく右手を差し出しながら不思議な顔をすると。
「タツキ病院での怪異が起きたのを把握してから、私たちは、あの時病院にいた関係者全ての情報を洗ったからな。」と言いながらレイは笑みを浮かべた。その笑みが堪らなく蠱惑的に見えて、思わず太郎は目をそらした。
「タツキ病院の…怪異!?何のことを…」と太郎が驚愕していると。
「何を言っている。君は見たんだろう。あの日出勤していて、君を担当していた病棟看護師の平岸直美の最期を。」
頭の中で女性看護師が殺戮された映像がフラッシュバックする。
「そうだ。アレは現実に起こったことだ。現実と言っても、君や私といった一部の人間にしか認識できない特殊な空間での出来事なんだがな。」
レイの言っていることが全く理解できずに放心するしかない太郎。
「私も最初はそうだった。誰にも信じてもらえず、気が狂ったのかと思い、塞ぎこんだものだ。気が狂っている方がよっぽどマシに思えることが何度も続いて、私と同じ経験をした奴らと出会って、初めて現実だということを理解したよ。」とレイは肩をすくめてみせた。
「君にはなかったか?普通に生活しているつもりでも、時々感じる首をかしげたくなるような違和感を。物心ついた時からあった、その感覚に慣れ始めた頃、アレを見た。突如として現れ、街行く人に襲いかかるアレをな。アレから襲われている女性は、大量の血飛沫を撒き散らし、ちぎれんばかりの悲鳴をあげている筈なのに、誰も気付かない。何に襲われているのか理解できないまま、意味不明な痛みに襲われながら、抵抗もできず彼女は喰われていったよ。」と淡々と語るレイ。
「次に現れたのは中学三年の時だ。夏休み明けの全校集会の時だった。隣のクラスの男子生徒が突然現れたアレに襲われた。結果は同じだ。誰もその惨劇に気付かない。何事もなかったかのように全校集会は終わったよ。そして、それからクラスに戻った時だ。殺された男子生徒の事を誰も覚えていなかったんだ。クラスメイトも担任も他の教師も、彼の家族すら彼の事を覚えていないんだ。不思議だろう?アレに喰われた人間は、この世界に存在していたという事実まで消えてしまうんだ。アレに殺された人間は、存在していたことそのものがエラーだったかのように修正され、そもそも存在なんてしていなかったこととして世界は続いていく。どうやらあの違和感ってやつは、エラーの修正時に感じるものらしい。君や私みたいな限られたごく少数の人間だけが、何故かアレやアレから殺された人達の存在を知覚することができるんだ。」
頭のおかしいイカれた内容の言葉の羅列を、どうしても太郎は否定することができない。否定したくても、アレの存在が現実のものだと身をもって…そこまで考えて太郎は舞の事を思い出した。
「舞は!そうだ、何やってんだ!舞はどこに!?」と太郎は大声をあげた。
「落ち着けよ。君のガールフレンドは無事だよ。君の回復が最優先だったから後回しになったが、今診てもらってるよ。まあ、驚いたことに彼女もこっち側の人間だったんだが。」とレイは、やれやれといった調子で太郎を落ち着かせる。
「よかった。無事なんですね。というか、あいつはただの幼なじみ…て、えっ、舞がこっち側の人間!?」
「ああ、どうやら彼女は、アレから襲われている間の事が全て見えていたようだ。アレを見たのは初めてだったみたいだな。どんな力をもっているのかは調べてみないと分からないが、彼女も確実にこっち側だ。」
「どんな力をもってるって、アレが視える以外にもなにかあるんですか?」
「覚えていないのか?彼女いわく、君が何事か叫んだ後、アレを触れること無く吹き飛ばしたと言っていたぞ。」
そんなことがあったかどうか全く覚えていない。
「理由は分からないが、私たちにはアレの存在やエラーが修正されたことを認識するだけでなく、何かしらの奇跡と呼べる代物が備わっている。鍛えないことには、ものの役にも立たないがな。人間の数だけ個性があるように、ソレも各人によって違うものが発現するらしい。君の場合は…まあいい。因みに、死にかけていた君を回復させたのも私のもつ力だ。流石に死んだ人間を蘇生することは出来ないがね。君の場合、本当に消えてしまう寸前だったから正直焦ったよ。悪いとは思ったが、倫理的配慮を考慮する時間がなくて、かなり特殊な方法を要したがね。」とニヤリと笑うレイ。
「これからの身の振り方はおいおい考えていくといい。まあ、あまり選択肢はないと思うが。これ以上の事を知りたいと思うなら、君はもう一歩こちら側に踏みこむ必要がある。踏み込んだらどれだけ後悔しても、それこそ死んでも戻れない。戻れない理由があるんだ。」
部屋の扉が開いた。そこには驚いた表情の舞と、担任の鈴木京子がたっていた。
「太郎!」と舞が太郎の方へ飛び込んでくる。
太郎の胸で涙を流す舞。
舞の無事な姿に太郎も涙ぐむ。
すると、何事かに気付いた舞が、はっと太郎の顔を見て。
「あんた裸じゃないの!」といきなり太郎の顔を拳で殴り付けた。
「いやいやいや、君を庇ってさっきまで死にかけていたんですけど…。トドメを差す気?」
「まあ、なんだ。助かったとはいえ、あまりムチャはしないようにな。」といきなり殴り付けた舞を見て、流石に驚いている様子のレイ。
「そうよ、太郎君はしばらく安静にしてなきゃ。」
突然扉から顔を出した女性に太郎は凍りつく。
「鈴木…先生は何故ここに?」目が覚めてからの展開の早さに頭が追い付かない太郎。
「私もレイと一緒で『視る者』の一員だからよ。田中太郎君。」と両手の人差し指を使い自分の目をツリ目にして見せる京子。
「舞さんには京子から説明があったと思うが、君達のクラス担任だった涼成京香は、通学路でアレに襲われて殺されている。世界がエラーを修正して新たな人間を担任として送り込んでいたが、ちょっとした裏技を使って、我々も京子を君達の担任として送り込んだんだ。」
鈴成先生がアレに殺されていたという事実は太郎の思考を氷つかせた。
無意識の中で、何となく想像はしていたのかもしれない。
いきなりクラス担任が違う女性に入れ替わるなんてこと自体が異常だった。
しかし、その異常な出来事はがこれからは日常になってしまうらしい。
しかも、自分や近しい人間が襲われることだって終わった訳じゃない。
そもそも何も分かっていないし、何も解決なんてしていない。
謎が増えただけだ。
身の振り方なんて…選択肢なんて最初から無かったんじゃないか?
「…身の振り方、決めました。おいおいなんて言ってられない。一緒に行かせて下さい。」
「太郎!?」と舞が叫んだ。レイはそんな舞を制止して、
「いいのか?さっきも言ったが、決めたらもう抜け出せないぞ?」と太郎をじろりと覗き込む。
「アレの存在を知って、自分の周りの人間が襲われて、自分も殺されかけて『はい、あとは知りません。』って言えるほど根性座ってませんよ。知らないふりして日常に戻っても、いつまた俺や周りの人間がアレに襲われるか分かったものじゃない。その時ただ意味もなく死ぬなんてだまらない。なら、仲間と情報を得て戦える力をつけたほうがいいでしょ。」と吐き出すように言う太郎。
「なるほどねぇ、さすが幼なじみね。似た者同士。」と京子が太郎と舞を見ながら微笑む。
「決めるのは誰でもない、あなた達自身よ。正直、私達はしっかりとした組織といえるほど人員も、力も、情報も十分とは言えない状況なの。皆をアレから守れるなんて確証も持てない小さな組織よ。しかし、あなが言うように戦える力はある。」と京子。
「只黙って殺されるのなんてまっぴらだ。手足が折れて捥がれても、奴らの首筋を噛切って死んでやる。そんなバカ共の集まりへようこそ。二人を歓迎するよ。」とレイが大仰に両手を広げて、芝居がかった歓迎の言葉を二人に送った。