怪ノ拾「コウキ〜死の淵の中で獲た物〜3」
陽が落ちきった夜半。本来その時間には見ることのないはずの色が、機転の瞳の内を染めていた。陽の落ちかけた夕暮れの色、赤みがかった橙色。
夕暮れ色のソレはまるで人のような形をして、人のような衣を纏い、そして人のような声で、笑っていた。不遜とはこのことを指すのだろう。夕暮れ色のソレ、酒呑童子は何を語るでもなく、余裕たっぷりの笑みを浮かべ転と彼女の隣で座り込んでいる少女、榊美雨を見据えていた。
「おやおや、随分といきなりな登場じゃないかい赤毛の大将。キミほどの大妖怪が、女の子二人のためにこんなところまで来るなんて、一体どういう風の吹き回しだい?」
転は笑みを浮かべながらも、懐の中にいる美雨を庇い酒呑童子への警戒態勢を崩さない。
酒呑童子へ見せる不敵な笑みとは裏腹に、彼女の心情は絶望で覆い尽くされていた。鬼取屋が本来任されていた仕事は酒呑童子復活の阻止だったはずだ。にも関わらず、その妖怪は彼女の目の前に存在し、こちらに笑みまで向けている。
大妖怪、酒呑童子は尚もその不遜な態度を崩さぬまま転達の方へ足を運び近付いてくる。
「いきなりな登場、ねぇ。怪訝しいんじゃあ無えか、俺の調べじゃ赤毛女、手前は先読みが出来るんじゃ無かったのか?
俺が此処に来る事なんざ、手前は知ってて当たり前だと思ってたんだがなあ」
豪快な笑い声を上げながら近づく朱鬼の言葉を、転もまた不敵な笑みを返して答える。
「イヤイヤ、赤毛の大将、いくらボクに先読みが出来ると言っても、何でもかんでも何時でも何処でも視える訳じゃないよ。あんまり近い未来が唐突に変われば、ビックリの一度や二度は当たり前さ」
軽口を叩く転だが、実の所酷く焦っていた。どういった経緯でかは分からないが、既に酒呑童子は預言者たる彼女の能力を把握している。転と朱鬼が出会ったのは、今初めてなのにも関わらず、だ。
出会ったばかりの敵の能力を知ることは、敵の情報を予め調べ上げているか、敵の頭の中を読み取ることが出来るかの二通りしかあり得ない。どちらにしても、それは転の望むところではなかった。
特に後者でであるなら彼女との相性は最悪だだ。未来を見通している彼女の思考を読み取る、それはつまり、相手にも先読み出来る者が増えることになる。
そして転が焦る理由はそれだけではない。先にあった茨木童子との戦闘で能力を殆んど使ってしまい、言霊の使用回数があとギリギリまで来ているのだ。
今、美雨を守りながら闘う気力など、彼女には残されていない。
――参ったな、今のボクじゃ足止めも出来ない。
先程から浮かべている笑顔には、一片の余裕も感じられない。
本来なら、此処は美雨と共に逃走するのが正しい判断だろう、非戦闘員である転が逃げた所で、誰も彼女のことを責めはしないはずだ。然し京介のことを、自身の想い人の身体を此処に置いて逃げることなど、機転にとってあり得ない選択である。ならば――
「闘うしか、ないよねぇ」
誰に言うでもない彼女の独白は、やはり誰にも届かない。転は、一世一代の決意を持って日本史上最強の鬼に立ちはだかる。
「ハハハハ!! 赤毛女、俺の前に立つとは中々肝が座ってるじゃあねえか?」
高らかな笑い声を上げながら、朱鬼もまた転の前に立つ。
「気に入ったぜぇ。どうだ、俺の妾にならねえか?
そうすりゃ、其処の小娘と手前の命位は勘弁してやるぜ」
「いいや赤毛の大将、残念だけどその提案は受け入れられないな。
ボクにはもう、心に決めた人がいるからね。大将がどんなに良い男でも、ボクの心は靡かないよ」
酒呑童子が出した提案を当然のように拒否する転。その答えを聞いた朱鬼は然程気にする様子もなく、一つ笑い、転は後ろの少女を庇いながら白々しい程不敵な笑みを浮かべながら、両者は対峙する。
「ごめんねミサちゃん。本当はボクだって逃げ出したいんだけど、でもやっぱ、京くんを置いては行けないよ。だから君だけは、ボクが命に代えても守りきってみせるから。
君のいない未来なんて視たら、京くんにどやされてしまう」
語り掛ける転の背中は、震えていた。それが恐怖によるものなのか、それとももっと別の理由があるのかは分からない。然し、その背を見た美雨もまた、転の覚悟の大きさを理解していた。その覚悟に応えようと、掠れた声を、必死に捻り出す。
「転さん……無理、しないでくださいね」
「はは、大丈夫だよミサちゃん。命に代えても、とは言ったけど、君に二度も同じ光景を見せるようなマネはしないつもりさ」
少女に背を向け朱鬼の元へ向かっていく預言者。
両者の距離は徐々に近付いていき、二人の間合いに入った所で朱鬼と預言者は睨み合う。
「後悔すんなよ赤毛女。
――先に言っておくが俺ぁ、剛えぞ?」
「そうかい、忠告ありがとう赤毛の大将、でもボクだってなかなかのものを持っているんだよ」
束の間の沈黙、この闇の中に自分達しか存在していない、そう思わせるような静けさが二人を覆う。秋風が頬を撫でる。身体から熱が抜けていく。戦闘前とは思えない程穏やかな気持ちが、転の中で芽生え始める。それで良い。余計な雑念を捨て自身を信じきること、それが言霊使いとして、最高のコンディションなのだから。
「『切り刻め』!」
転の声が撃鉄となり、刃のように鋭さを得た空気が酒呑童子へ襲い掛かる。
先に動いたのは転の方だ。彼女の発した言葉は具現化し、見えない刃で朱鬼の皮膚に幾重も傷を付ける。対する朱鬼は、その攻撃に怯む様子もなく転の元へと走り出す。その手に生える鋭爪を突き立てようと、預言者へ目掛け勢いよく振るう。
朱鬼の一撃を避けるため転は後方へ退き、そして、朱鬼自身に次の命令を下す。
「おっかないねぇ。そんな爪、『剥がれてしまえ』」
追い討ちを掛ける朱鬼から、爪がゆっくりと持ち主の指から離れだす。主人の指示を忠実に守る犬のようなその様子を、酒呑童子は呆然見つめその場で動きを停止させる。その一瞬の隙を、転は見逃さなかった。
「さあさあ大将、まだまだ行くよ『撃ち抜け』」
預言者の声に反応して周囲の空気が弾丸のように、朱鬼向かって放たれる。
その見えない銃撃の雨を防ぐ為に、朱鬼は腕を交差させる構えを取る。
空気の弾丸は丸太のように太い朱鬼の腕に阻まれ、致命傷を与えるまでには至らない。然し転はこの攻撃を止めることはしない。
「こんなもんじゃないだろう赤毛の大将、でもボクもこんなもんじゃ終わらせないよ。
まだまだ……『撃ち抜け』!!」
一層激しくなる弾幕、車輪を回したような音を上げながら撃ち抜かれる言霊の嵐にどうすることも出来ないのか、流石の酒呑童子も守りの構えを崩さず其処で立っているだけだ。
一見すれば転が有利なはずのこの状況、にも関わらず、余裕のない表情を浮かべているのは寧ろ転の方だった。
酒呑童子は欠伸をひとつかくと、ただ一言だけ、呟くような声でこう言った。
「なぁよぉ、もう飽きちまったんだが、そろそろ此方も動いて良いか?」
刹那、一寸先の未来から危険を感じ取った転は、身体を後ろに大きく反らす。先程まで転の頭があったはずの場所に、酒呑童子の鋭い爪が振りきられる。
尋常でない速さのそれは、転の眼に殆んど映っていない。あと一瞬でも未来を視ることが遅れていれば、躱すことなど叶わなかっただろう。そしてその先に待っていたのは、間違いなく死だったはずだ。
「ちっ、惜しかったな」
もう目と鼻の先にいるはずの転には見る気もせず、まるで鈍った身体を解すように首を鳴らしながら、朱鬼は呟いた。
コキコキと場違いな程滑稽な音を鳴らす朱鬼の姿を見て、転は絶望に打ちひしがれていた。この鬼は、何時でも自分を殺せるのだ。自身が楽む為にわざと手を抜いて、相手が有利だと思う環境にしていただけだったのだ。最早これは闘いですらない。赤子の戯れにも等しい、余興の一つに過ぎないのだ。
「中々遣るじゃ無えかよ女ぁ。今のは殺す積りで遣ったんだぜ? 正直躱せるとは思って無かった。其れも先読みの恩恵かあ? 随分便利な能力だなあ」
愉快そうに語りながらに笑い声を上げる酒呑童子、危険過ぎるその笑みに恐怖した転が、距離を取ろうと後ろへ跳び退こうとする。だがその行動よりも先に、朱鬼の腕は彼女の首へと伸ばされる。
「転さん!」
美雨が叫んだ時にはもう遅かった。朱鬼の太い腕は転の首をがっしりと掴み、高々と天に持ち上げていた。
「危うくなったら後ろに跳ぶ。ったく、芸の無え女だな。そんなんじゃ余興にもなりゃあし無え」
呼吸の出来なくなった転は苦痛の表情を見せる。額からは玉のような汗が滲み、バタバタと足を掻き乱していた。然し、それでも朱鬼の腕の力は緩まることなく、彼女の行為は文字通り無駄な足掻きとなっている。寧ろ腕の力は徐々に強くなっていき、このまま彼女の首をへし折ってしまいそうだ。
「転さん!」
転の窮地にいてもたってもいられなくなった美雨が、彼女まで駆け寄ろうと立ち上がる。然し少女の行動は、次の瞬間には既に見ることが叶わなくなる。
朱鬼の眼光が、まるで虫けらを見下すように少女を貫いていたのだ。眼光の裏に見える障気も相俟って、やっとの思いで立ち上がった少女は意図も簡単にその場に経たり込んでしまう。
「邪魔すんなよ小娘、今俺は此の赤毛女と遊んでんだ。手前の相手は其の後なんだよ」
美雨は歯を食い縛り、涙を飲み込むようにその場で俯く。彼処まで馬鹿にされて悔しいはずなのに、それでも動くことの出来ない自分の身体を情けなく思っていた。
悲鳴処か、呻き声さえ上げることの許されない転。彼女の顔は血の気を失い、みるみるうちに蒼白くなっている。
「おいおいおいおい赤毛女ぁ、真逆茨木相手に力を使い過ぎて、俺の時にゃもう精魂尽き果てました、なんて言うんじゃ無えだろうな?
ハッ、俺も嘗められたモンだぜ」
吐き捨てるような口調で言う酒呑童子の言葉にさえ答えることの出来ない転。最早足掻くことも出来ず、辛うじて抵抗と呼べる行為は、口をパクパクと動かしているだけになってしまっている。
「……な、…………せ」
その声も、殆んど聞き取れない程に小さい。
「ああ? なに言ってんだ、聞こえ無えぞ赤毛女ぁ」
……それで十分だった。たったそれだけの抵抗が転にとって、何より酒呑童子にとって最大の抵抗へと豹変する。当然だ。何故なら機転は、言霊の使い手なのだから。
「その手を……『離せ』と言っているんだ」
そのたった一言で、酒呑童子の手は簡単に開かれる。支えを失った転は重力に従い地面へと吸い寄せられ、手を開いた本人であるはずの酒呑童子は驚愕の表情を見せる。
漸く呼吸することを許された転は、咳き込みながらもその場から離れ、朱鬼から距離を取る。然し、身体は既に限界でその場に膝を着き、座り込んでしまった。
「はあ、はあ、やっと離してくれたね大将。正直、今のはかなりやばかった。でも……」
転は力を振り絞るように立ち上がると、朱鬼をジッと睨み付ける。先程まで見せていた不敵な笑顔は消え、氷のような冷たい空気が彼女の周りを包み込む。
然し対峙する朱鬼は、彼女のその迫力に臆することなく、それ処か楽しむような表情で彼女を見遣っていた。
「『でも』何だ? 真逆一度俺から逃げられた位でもう勝った気に為った訳じゃあ無えよなあ!!」
両者の間合いが、一瞬にして詰められる。朱色の鋭爪が先の一撃と同様に、転の首を狙う。狙われている転は、回避行動処かその場から動こうとさえせず、ただ、一言だけ呟いた。
「ボクはまだ、まだ、『闘える』」
蚊の鳴くような小さな声。それを掻き消すように、朱鬼の爪は死神の鎌を連想させる軌道を描き深紅の預言者の首へ振るわれる。
………………然し。
「なん、だと……」
朱鬼の振るった腕の中には、預言者の姿はない。死神の鎌が切り裂いたのは人間の肉体などではなく、感触のない、目にも見えない、ただの空気だった。
酒呑童子は、つい先程まで此処にいたはずの存在を探し、周囲を見回す。
「女ぁ、何処に消えやがった!」
巨大な怒気を孕んだ咆哮が、まるで爆発音のように周囲へ響き渡る。然し其処にいたはずの預言者は、姿処か気配さえも感じさせない。
途端、朱鬼の足場から放射状に亀裂が走り出す。周囲の空気がガタガタと震え始める。それは朱鬼の心の表れ、彼の苛立ちは既に、最高潮まで高められていた。
然し、そんな爆発寸前の時限爆弾のような朱鬼に声が掛けられる。まるで感情の籠っていない、冷たい声が。
「何をそんなに苛立っているんだい、赤毛の大将?」
声のする場所には、炎のように紅い姿で、氷のように冷たい空気を身に纏った女が立っていた。預言者、機転の登場と同時に、先程まで震えていた空気が氷漬けにされたように静けさを取り戻す。転は最初から其処にいたかのようにただただ、その冷たい眼差しを朱鬼へ向けていた。対する朱鬼は、意味が分からないという顔をしたまま、呆然とその場で立ち尽くしているだけだ。
「赤毛女、手前今一体何をしやがった?」
やっとの思いで朱鬼が発した言葉は、まるで頭の悪い人間がするような疑問だった。その姿があまりにも滑稽だったのか、転は朱鬼を鼻で笑う。
「フン、何をした、ねえ。それは余りにも安直な質問じゃないかい赤毛の大将。ボクは言霊の使い手だよ、そんなボクがする事といったら、一つしかないじゃないか」
その言葉を受けた酒呑童子は、ある異変に気が付いたような顔で表情を強張らせる。
先程まで虫の息だったはずの転の霊気が、今は地獄の鬼を凌駕するような量まで膨れ上がっているのだ。その霊気は研ぎ澄まされた刀剣のように朱鬼の肌を撫でる。
「言霊を、自分に使ったのか」
「そうだよ、大将。気を付けるんだね、今のボクは、過去のボクより百倍強い」
朱鬼の口角がヒクヒクと震えながら釣り上がる。わなわなと肩が震える。
「はっ、面白えじゃ無えか! この俺を殺す気で向かって来る奴なんざ、千年以上居なかったからな。良いぜ、手前がその気なら、俺も本気で遣ってやる」
今までで最高の笑い声を上げて、酒呑童子は身体中で喜びの感情を表す。その姿を見遣る転の視線は、未だ、冷たいままだ。