怪ノ玖「鈍角・駿角〜地獄で嗤う鬼畜の門番〜3」
季節は秋も真っ只中、そんな夜空の下、榊美雨は何処かも分からない道を逃げ走っていた。彼女の連れはたった一人、未来を視ることが出来るという女性、機転。
二人が逃走を始めて約数十分、互いに会話のないまま美雨は転に付き従っていた。然し此処まで殆んど休みなしで動き続けていた所為か、美雨は堪らず転へ声を掛けた。
「く、転さん、少しだけ休みませんか? 私、もうダメです」
べったりとだらしなく、膝から下を地面に着けながら動かない美雨を見て、転は一つ溜息を吐きながら頷いた。
「そうだね、少し急ぎすぎたようだ。
別にまだこの先何かあるわけでもないし、ちょっと休憩しようか」
転は美雨の方へ歩み寄るといつの間に用意したのだろう、まだ温かい缶コーヒーを彼女に差し出す。
美雨は戸惑いながらもそれを受け取り、ゆっくりとコーヒーを口の中へ含む。正直甘いものの方が好きな美雨は、コーヒーのあまりの苦さに顔を歪める。
だがこの寒さの所為で冷えきった身体には、その温かさはとても助けられる。
美雨は暫くそうして休みながら空を見上げていた。夜空に浮かぶ星々は雲に隠れて見ることが出来ない。そんな空が美雨にとって、何処か嫌な事態を予期しているのではないかと思えて仕方がない。
「あの……転さん?」
不安が募り過ぎたのか、美雨は転に向かって不安を口にする。転は別段驚いた素振りも見せず、そうなることを最初から分かっていたかのように、予期していたかのように美雨の方を向き言葉を返す。
「なんだいミサちゃん、コーヒーはお気に召さなかったのかな?」
「あ、いや、そうじゃなくて。なんていうかその…………京介さん、大丈夫かなと思って。
転さんって、未来が視えるんですよね? 京介さんがこの先どうなっちゃうのか、視えるんですよね? なら、私に教えてほしいと思って」
その言葉を聞くと転は意地悪く微笑み、美雨を見つめた。目を合わせた美雨は少し困惑するも、転から目を逸らそうとはしない。
そんな美雨に、転はその表情通りの意地悪な質問を言う。
「ミサちゃんは京くんが心配なのかい?」
「そ、それはそうですよ。やっぱりいつもお世話になってる人ですし、あの人がいなくなっちゃうと私もなにかと困りますし……」
流石の美雨も、転のその言葉に視線を外し、口調も辿々しくなる。心なしか、顔も紅潮している。転はその反応を見ると、益々美雨に対して意地悪い質問を投げ掛ける。
「へぇ〜、で、それだけなのかい? 本当にそれだけの理由で、そんなに心配するものかな?
別にボクの事を気遣っているのならそんなの必要ないよミサちゃん、ボクはライバルがいる方が燃える女の子だからね」
美雨は本格的に顔を真っ赤にさせ、自身の前でバタバタと両手を振り否定の構えを取って、早口で捲し立てる。
「ち、違いますよ!
そういう意味なんかまるでなくってこれっぽっちもなくってただ単に私を養ってくれる保護者がまたひとりいなくなってしまうのはなんだか心苦しいなぁと思って聞いてみただけなんですから!」
「……ミサちゃん、その話だけ聞くと、君は単なるヒモに成り下がっているよ」
言葉では呆れつつも、必死で否定している美雨を転は優しく見つめていた。そして、何かを決心したかのようにゆっくりと、その口を開く。本来なら彼女には黙っているつもりだった、これから先の未来を、自分にだけ視えた、少し残酷な未来を、訥々と語り出す。
「――実はねミサちゃん、ボクの視た未来では京くんは今日、死ぬ事になっているんだ」
――美雨の中で、一瞬だけ時間が止まった。温まるために握っていた、もう温くなってしまった飲みかけの缶コーヒーが、彼女の足元に音を立てて転がった。
黒く澱んだ液体が彼女の靴に染みを作っても、彼女は動かず、黙って転を見つめていた。
紅く、禍々しく、煌々とうねりを上げる妖気を纏って、鬼丸京介はその足を前へ前へと押しやっていた。
先ほどまで止めどなく滴れていた彼の血液は、熱を帯びたその紅い妖気の所為で蒸発し、紅い煙をとなりながら消えていく。それが紅い妖気と混ざり合い、一層その禍々しさを引き立てている。
そんな彼の姿を、二体の大鬼は嬉々とした表情で見据えていた。
「モホホホ! なんだか知らないがキサマ、いきなり旨そうになったな?
いいぞいいぞ、もっともっとオイラを楽しませろ」
鈍角はたった一言そう口にすると、京介に向かってまさしく猛牛の如く突進する。紅鬼の鎧さえ紙切れのように打ち砕く死の一撃が、一歩、また一歩と近付いていく。にも拘らず紅鬼、鬼丸京介はその場から動こうとはしなかった。何かをぶつぶつと呟きながら、近付いてくる猛牛の姿をひたすらに睨み付けているだけだ。
鈍角が紅鬼まで接触するまで、文字通りあと一歩という距離まで近付いた時、紅鬼の姿は消えていた。いや、消える、というのは些か間違っていた。紅鬼は確かに、鈍角のすぐ懐まで接近していたのだから。
「モゥ?」
間抜けな声を出して立ち止まる鈍角、然し立ち止まった処で、紅鬼の一撃を躱すことなど、この鈍牛に出来る訳もない。
紅鬼の紅い妖気は彼の右腕に集中し、砕けた鬼鉄の代わりに彼の籠手となる。そしてその右腕は、真紅の軌道を描き鈍角の脇腹を容赦なく抉る。
「ンモゥオオオオオ!」
紅鬼が放った真紅の一撃は螺旋を描きながら、鈍角を後方へ押しやる。その一撃は、間違いなく今までで最強のものとなっただろう。鈍角は紅い衝撃を受け流すことも出来ず、そのまま仰向けに倒された体勢で吹き飛んだ。
その様を京介は見ることなく、自身の右腕をジッと見つめていた。時折その掌を開いたり閉じたりしながら、まるで体調を気にするかのように、まだ何か独り言のようなことを言っている。
「……違う、まだだ。……まだまだ全然足りねぇ……もっと、もっと集めなきゃ、撃てねえ……」
京介は先程からずっとそんなことを口にしていた。然し一度聞いただけでは、一体どういう意味で言っているのかなど全く分からない。
攻撃を受けた鈍角は立ち上がると、あの空気さえも砕くのではないかという重低音で雄叫びを嘶かせた。
「モホホホホホホホホホ! キサマァアア、なんださっきのばか力は?!
びっくりしてひっくり返っちまったぞ。
……良いだろう、遊ぶのはヤメだ。キサマはこの場でぐちゃぐちゃに抹殺してやる」
そう言うと徐に、自身の逞しい右腕を己の口の中に突っ込む鈍角、嗚咽の声と共にゆっくりと引き抜いたのは、その身体にどうやって納めていたのか分からない程巨大な金棒だった。
金棒は持ち主である鈍角の唾液に濡れキラキラと輝いてはいたものの、その鬼の示す名の通り光沢のない鈍色をしている。
鈍角が誇らしげに金棒を振るうと、その勢いで金棒に付着した唾液が辺りに飛び散る。
その一部始終を見ていた牛頭鬼の隣に立つもう一体の鬼、馬頭鬼の駿角は不機嫌な顔付きで鈍角に対し口を開く。
「鈍角、もう少し上品な物を使ったらどうです?
見なさい、アナタのその汚らわしい棒の所為で、辺り一面が汚れてしまったではありませんか?」
然し当の鈍角はそんな非難など気にも止めていない様子で、ゲラゲラと嗤いながら鈍色の金棒を肩へと乗せる。その表情は変わらず、最初の頃に見せていた余裕そのものだ。
余程自分の持つ得物に自信を持っているのだろう。然しそれも当然と言えば当然だ、生身の腕でさえ紅鬼が持つ堅牢強固の鬼鉄の鎧を粉砕する怪力を有している上に、自身も鬼鉄で出来た金棒を携えたのだ。文字通り鬼に金棒の状態。誰が見ようと追い込まれた状況にあるのは、京介の側だ。
二体の大鬼、牛頭鬼と馬頭鬼、鈍角と駿角は、片や一切の光を吸収したような鈍色の金棒を、もう片や黒く光る漆黒の大剣を構え、眼前に辛うじて立っている紅鬼を見つめている。紅鬼の身体の周囲にはやはり、先程の紅い妖気が熱を帯びてうねっている。
二頭の鬼畜は歓喜していた。つい先まではまるで取るに足りない、雑魚同然の子供が、いきなりその牙を剥いてきたのだ。敵が何をするかなど、今はどうでも良い。
さあ、どう料理してやろうか?
さあ、どう叩き潰してやろうか?
さあ、どう切り刻んでやろうか?
――――さあ、どう殺してやろうか?
二頭が二頭とも、頭の中には己の手で打ち拉がれる紅鬼の姿しか想像していない。自身らが強者だからこそ、その想像を信じて止まなかった。
その想像を、一刻も早く実現したい。そんな歪んだ思いがとうとう堰を切ったかのように、二頭の鬼畜は同時に京介目掛けて飛び掛かってきた。
競い合うように突撃する二頭の内、先に京介の元へ辿り着いたのは駿角だ。駿角は両腕に握った漆黒の大剣を大きく振り被ると、渾身の力を込めて大地に叩き付けた。
その動作に剣を振るう技術はない。ただ力任せに、乱暴に、有り余る己の馬力に頼りきったごく単純な一撃。然しその速さと破壊力は、躱すことも防ぐことも許さぬ程強大なものだ。
京介はその一撃を躱すことも防ぐこともせず、ただただ無力な虫けらのように真っ向から直撃した。
躱せないのだ、防げないのだ。もうそんな動作に移るだけの体力は、彼の身体には最早残されていないのだから。
駿角の一撃を直撃という形でその身に刻んだ京介、然し彼への暴力はそれだけで勿論終わるはずもない。
「モホホホ!! まだまだこれでオワリじゃないぞぉお!!!」
もぐら叩きの要領で鈍角は紅鬼を何度も何度も地面に打ち込む。彼の鎧がサラサラの紅い砂に変わるまで、彼の身体がぐしゃぐしゃに捻じ曲がるまで、重低音の嗤い声と共に何度も何度も打ち付けた。
それでもまだ、鬼畜達による惨劇は終わらない。鈍角の金棒の動きと交互になる形で、駿角が自身の前足で紅鬼を踏みつけ始める。何十トンという重さの蹄鉄が、紅鬼の全身をバキバキに砕こうとしているのだ。
今この場に美雨がいたのなら、そのあまりの凄惨さに耐えきれずに泣き喚いていたことだろう。いや、美雨でなくともこの光景を目の当たりにした人間がいたならば、目を逸らし、耳を覆い、あの鬼畜の知らぬ所でガタガタと震えていたことだろう。
その所業はまさに、地獄そのものだったのだから。
……二頭の鬼畜の動きが一瞬だけ止んだ。
止めを刺す気なのだ。牛頭鬼の金棒が最後の最後、最も巨大な一撃を放つ為に上空で停滞する。
その瞬間を、そのたった一瞬の時間を、鬼丸京介は見逃さなかった。
今の今まで、溜めに溜めた、集めに集めた怒気を、憎悪を、殺意を、その全てを今、この一瞬の為に炸裂させるべく血塗れの右手を鈍角の金棒に向かって掲げる。そして、京介は呟く。
「――喰らえ…………」
煌々と燃える真紅の炎弾が鬼の貌を象り、鈍角の片腕を金棒諸とも食い千切った。
――その炎はまるで、紅鬼の中にある残りの命全てを焼き尽くすかのように荒々しく、雄々しく、そしてどこか哀しげに輝いていた。