怪ノ伍「矢木文一〜歪な異性の愛し方〜8」
声ではなく血飛沫を上げて消えていく影、妖怪『文車妖妃』。その影とほぼ同時に、何もない空間も黒装束に包まれた切丸の姿も、元の状態に戻り始める。
顕れたのは、一人で暮らすには広すぎる部屋。その隅で榊美雨と矢木文一の二人は蹲っていた。
「切丸さん…………」
力のない声で彼の名を呼んだのは、霊の視える少女。
切丸は二人の方向を見て、いつもの陽気で暢気な柔らかい笑顔を見せて言った。
「僕、強いやろ?」
彼はあの凄惨な戦場を見ていない二人に対して、その言葉だけで己が勝利を報じることにした。
…………全てを語るには、余りにも惨すぎたから。
そんなこととは知らずに安堵の表情を見せる二人。切丸は二人には聴こえないような小声で、まるで一人言のように呟く。
「……でも寧ろ、大変なのはこれからやけどな」
カタカタと音を響かせながら、二台のパソコンが何かを調べている。
静寂な部屋の中の空気にはその音しかなく、それを操っている二人の人間も声を出すことなく仕事に没頭している様子だ。
すると不意に、応接室のテーブルでノートパソコンを開いていた少女がもう一人の青年に向かって話し掛ける。
「お兄さん」
「…………どうした? 舞」
兄と呼ばれた青年は、舞と呼ぶ少女の顔を見ることもなく一言だけ返事をする。その間、仕事の手を休めることはしない。
舞は兄、鬼丸京介の反応を窺いながら、ゆっくりと話し出す。
「どうして切丸さんの元へ美雨さんを送ってしまったんですか?
やっぱり切丸さんの言うように危険な事ばかりだと思うんです。美雨さんはお兄さんや切丸さんと違って、霊や妖怪から身を守る術を持っていません。
だったらやっぱり、此方に置いておいた方が安全なんじゃ…………」
其処まで聴いてから、京介は舞の言葉を遮る。
そして、舞の疑問に答えるように話し出す。
「最初から言ってるだろ。切丸はそんなに弱くない。彼奴はただサボっているだけだよ」
やる気も力もないその声が不満なのか、舞は反論するように言葉を発する。
「そんな…………、それだけの理由で美雨さんをあんな危険な処に送ったっていうんですか?
……バカげてる。酷すぎますよお兄さん!」
声を荒げて言う舞の言葉が届いていないのか、京介はやはりやる気のない声色で応える。
「はぁ、お前も切丸も、頭が堅いなぁ。
そんな事だけの為に、俺が関係無い奴を捲き込むと思ってんのかよ?」
「だって、自分でそう言ったじゃないですか? 今さっき」
不満が頂点に達したのか、京介の話し方が気に入らないのか、何方にしても舞は苛立って答える。
そんな舞の気持ちなど察そうともせず、京介は未だ淡々と話す。
「俺も切丸も、はっきり言って人間じゃねえ。それは変え難い事実だ。
舞、お前だってそうだ。お前もこの世界に長く浸かり過ぎた」
「だからって、それが今の話とどう関係あるの?」
本当に分からないと言わんばかりに、口調を崩して舞は言う。
その反応に京介は、やれやれと半ば呆れ気味に言葉を繋いだ。
「話は最後まで聴け。
俺もお前も切丸も、こんな暗い世界に長い間ずっといたんだ。人間を襲う妖怪なんて、理由がどうであれ、例え譲歩出来る事があった処で関係無く葬るだろう。それがこの世界の常識だからな。
だが彼奴は、美雨は違う。彼奴はずっと人間の綺麗な部分だけを見てきた。彼奴にとってこの世全ては善なんだ。それが彼奴の常識だから。
だから、俺達からすれば殺す対象、消し去る対象であるはずの何物でもない妖怪にも、別の方法で解決しようする。そして、本当にやってのけちまうんだよ」
「…………でも、でもこの前の狂骨の件では実際に危険に曝されたじゃない。
やっぱり危険な事には変わらないじゃないですか。」
京介の説明に、反論を述べる舞。
その舞の言葉に、「確かにな」と言いながら京介は話を続ける。
「だけどなぁ舞、美雨がいなきゃ、俺は依頼人である中井深雪を殺してたよ。
それが彼女にとっても幸せだと思ったからな。
だけど美雨はそれを許さなかった。生きる事が償いだと彼奴は言ったろ?
たった一言、その一言で中井深雪は変わったよ。
最後に美雨を殺そうともしたが、その言葉の後に彼女は自害する事も廃人になる事もなかったしな。
宇田川朱美の死を背負って、今もしっかり生きている。
それが、その結果が、俺が美雨を彼処に行かせた理由なんだ」
――――最も、今回ばかりはかなり考えたよ俺も。
最後にそう付け足すように言って、京介は言葉を切った。
舞は未だに納得していないのか、少し膨れてパソコンの方に目をやる。もう反論する気もないのだろう。
それを確認すると京介は自分のパソコンの電源を落とし、立ち上がって身支度を始める。
「…………結局、行くんですね?」
皮肉がたっぷり入った口調で、舞はそう言った。
そんな舞の声を聞いて京介は、苦笑いを浮かべながらも優しく彼女に言う。
「俺が切丸に任せた仕事は妖怪退治までだからな。
それから先は、俺の仕事だ」
舞の頭を撫でて、出て行こうとする京介を、舞は最後に呼び止めた。
「解りました。私も行きます。
…………お兄さん一人じゃ、切丸さんの結界に入れないでしょう?」
可愛いげなく言う妹を、兄は何も言わずに同行させ、事務所を後にした。
――――最後の仕上げをするために。
――――ピンポーンと、少し古くさいインターホンの音が部屋の中を包む。
その音に気付いた切丸は真っ直ぐに玄関まで行き、鍵を開ける。と同時に、ガチャリとノブが回り、ゆっくりと扉が開く。
其処にいたのは、鬼丸京介と鬼丸舞の兄妹だった。
「いらっしゃい。思うてたよりも早かったな」
「あのな、別にお前の家じゃないだろ此処は」
笑顔で迎える切丸に、京介はただ素っ気なくそんな返事をする。
肩透かしをくらった切丸の笑みは苦笑いに変わり、その横を二人は通り過ぎる。
夜ももう深くなった頃、部屋の中にいた美雨と文一の二人は疲れきった表情をしていた。
そんな二人に京介はゆっくりと口を開き、そして語り掛ける。
「よう、無事だったか」
まるで危機感のない声で言う京介、そんな京介に、美雨は俯きながらゆっくりと口を開き、そして答えた。
「……京介さん、一体今まで何をやってたんですか?
『よう、無事だったか。』じゃないですよ!
私、超が付く程怖い思いしたんですよ!!」
涙目になりながら詰め寄る美雨、そんな彼女の迫力に負けてか、京介は二、三歩後退しながら言う。
「ああ、悪りぃ。まあほらあれだ、皆無事だったんだから良いだろ」
「良くないですよ! たまたま偶然にも予想外に切丸さんが使えたから良かったものの、切丸さんが役立たずだったら全滅ですよ? ぜ・ん・め・つ!
大体、なんで今さら来たんですか? もう倒しちゃったらしいですよ、妖怪『ふぐるまようひ』」
眉を釣り上げて、いかにも怒ってますよと言わんばかりの表情の美雨は、京介にそう言った。
それを面倒くさそうに京介は答える。
「……煩ぇな、切丸が使える事ぐらい前々から知ってるわ! 何年一緒に仕事してると思ってんだ?
それに何言ってんだお前、俺が今此処にいるんだ。その俺が来たって事は、まだ終わってないんだよ」
「京さん、ちゃんと説明してあげへんんと分からんやろ。
見てみ、皆困ってる顔してるやん。」
突拍子もない言葉に反応したのは、美雨ではなく後ろから入ってきた切丸だった。
苦笑いを浮かべながら言う切丸のその言葉を、京介は何の返答もせず文一の前までツカツカと歩いていく。
そして彼の前に来たかと思うと、やっと口を開き言葉を発する。
「終わってない、終わってないんだよ。その意味、お前が一番よく解ってんじゃねぇのか? 矢木」
不意に声を掛けられた文一は、まるで今までの話を理解していないというような顔で京介の眼を覗く。
「お、オレが……、分かってるって? 何言ってんだよ! 訳分かんねえよ!」
完全に取り乱している文一に、京介は確信に満ちた声で答えを返す。
「解らない、とは言わせられねぇな。何せ切丸が倒したあの妖怪は、お前が作り出したモノなんだから」
「――――それ、って、式神の暴走ですか?」
今度京介の言葉に反応したのは美雨、然し京介はゆっくり首を横に振り、美雨の意見を否定する仕種を見せる。
そしてまた、語り出す。
「此奴は間違いなくこの事件の被害者だよ。
だけど、結局文車妖妃を作り出したのは、此奴の心さ。
大好きな大好きな彼女を失った、此奴のな」
言葉の意味を理解しかねている美雨とは全くの対を成して、文一は急に何かを思い出したように奇声を上げ始める。
「ああ………………、アアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
頭を抱え、まるで最初に鬼取屋へ助けを求めてきた時のような姿勢で蹲る文一。
その被害者を余所に、語り始めたのは京介の妹、舞だった。
「そもそも文車妖妃というのは、手紙を収納しておく文車という物に意識が宿った付喪神の一種です。今回、その文車の役割を果たしたのは矢木文一さんのその携帯電話ですね。もっと詳しく言うなら、その中のメール機能。
ですが、物に意識が宿るというのは簡単な事ではありません。付喪神の付喪は、『九十九』とも書きます。つまりは九十九年の時を経て、付喪神になる事が出来るのです」
解説する舞の話に、美雨は横槍を入れるように口を開く。
「ちょっと待って!
九十九年って…………でも、文一さんの携帯は……。」
美雨の疑問に頷き、舞はまた解説を続ける。
「勿論、文一さんの携帯は九十九年時間が経ったものではありません。
なら何故、あの妖怪が文一さんの前に現れたのか? それは――――」
するとそこで舞は一度言葉を切り、 京介と目を合わせる。
京介は舞のその動作を見るなり、後は引き受けたと言わんばかりに語り出す。
「――――それは、どっかの誰かが大好きな彼女の手紙にご執心だったからさ」
――――静かに語る京介の表情は、何処か哀しいものだった。