怪ノ壱「榊美雨〜視える少女〜3」
高坂由女。最初に言っておくけど、あたしはこの名前が嫌い。
「自由に生きる女性」って意味と、夢って意味とを掛け合わせたらしい。
でもあたしには、名前に「女」って入ってなくちゃ女だって思われないからじゃないかって思ってる。
そんなことはどうでも良い。 今日は担任の鬼丸が何かイベントをやるらしい。本当はこれっぽっちも行きたくないけど、アイツの所の数学の成績がマジでヤバイからあたしは行くことにした。
序に、一人は御免だったから行きたがらなかったミサメやミキも一緒に誘った。
ミサメは今でも行くのには反対で、更にはあたしまで行かないように説得してくる。ミキもミキで、「こういう時のミサの予感は絶対当たる」って言ってミサメの方を持つ。あたしの数学の成績を知らないで何を暢気な事を。
そう言って一人で学校に向かおうとしたら、それは駄目だって結局二人共ついて来た。訳が分からない。特にミサメ、あの娘は何が言いたいのかはっきりしない。
学校に着いて教室へ向かう途中、あたしはミサメと一緒にトイレに寄った。
ミキはどうやら先に一人で行ってしまったようだ。
あたし達はそれを追う形で教室へ向かう。
――――教室へ入ったあたしは、愕然とした。
何故って、だって、やっぱりミサの悪い予感は当たったのだから。
教室で広がっていた光景は、まるで地獄だった。
血塗れになった教室の壁、机、椅子………
そして、もう人とは呼べないほどにグチャグチャになったクラスメイト。ミキが、あたし達の友人達が、昨日まであたし達が親しげに先生と呼んでいた物に悲鳴も上げずムシャムシャと食べられている。
何が、何が起きてるっていうの?呆然と立ち尽くすあたしに正気を取り戻させたのは、おそらく、だいぶ時間が経ってから。
「イヤァアア!!!」
堪らなくなって悲鳴を上げるミサメ。
あたしは、この光景を信じられなくて声すらでなかった。
あたし達二人は何も出来ないまま、その場に立ち尽くしている。ただただ、皆が食されるのを見つめているしか、それだけしかできなかった。
あたし達が先生だと思っていたそれは、今はもう人の姿さえしていない、鬼丸の姿は、まるで両生類みたいにヌメヌメしていて、青色に染まっていた。
それだけじゃない、その頭には髪の毛は一本も生えていなく、代わりに2本の角を生やしていた。信じられない。だけど、その姿は昔話に出てくるような鬼の姿がぴったりと嵌る姿。
ムシャムシャと生々しい音を立てているソイツは、とうとうあたし達に気付き、こっちを見る。
……その顔は、本当に不気味に嗤っていた。
やっとあたしは正気に返る。いけない、逃げなくちゃ。このままじゃ殺される。どうしてコイツが気づく前に逃げなかったのだろう。あたしは放心状態になっているミサメの手を引き、階段に向かって走り出す。
だけどパニックになっていたあたしに、まともな判断が出来る訳がない。あろうことか階段をそのまま上がって3階へ向かってしまったのだ。
何故その時、学校の外に出なかったのか、そうしていれば助かったかもしれないのに……。あたしたちは後悔さえしないまま、あの青い悪魔から逃げていた。
……夜の学校は嫌いだ。あの日のことを思い出させる。俺の唯一無二の、最低最悪の思い出。
果たして彼奴は、俺の事を覚えているだろうか?それとも、忘れているだろうか?
ま、そんな事はどうでも良い。彼奴に覚えてもらっていた所で、気持ち悪いだけだ。吐き気がするだけだ。だったら、いっそ忘れて貰っている方が数倍良い。
数倍? そんな表現は可笑しいか、零はいくら掛けても、それより大きくなんてならないんだから。
待ってろ、其処で待ってろ、あの日の事、お前があの日やった罪は、俺が償わせてやる。
俺は、校舎に向かって足を進める。
息を潜めながら、部屋の中を見渡す。動物達の薬品漬けや剥製が棚の上にずらりと並んでいる。ここは生物準備室。普通だったらこんな所、気味が悪くて絶対に入らない。だけど今の状況を考えたら、ここから出ることの方がよっぽど恐ろしい。
ふと、あたしは一緒に逃げてきたミサメに話し掛けた。今までずっとそんな余裕がなかったからか、あたしの声は少し裏返ったようになっている。
「ミサ、大丈夫?」
ミサメは何も言わず、小さく縦に首を振る。かなりのショックを受けたみたいだけど、なんとかあたしの声に反応するくらいは出来るみたい。
それからあたし達は二人、他愛のない会話を、この緊迫した状況の中楽しんだ。つかの間の、偽りの安息。その中でミサメが何で今日、このイベントに来たがらなかったのかを話してくれた。
鬼丸の後ろにいた幽霊、その幽霊がミサメに向かって首を振っていた事、それをミサメは来てはいけないという警告にとったのだそうだ。
そんな話、今までのあたしだったら絶対に信じないだろう。そんな冗談が嫌いなだけに、ミサメを叱り飛ばしたに違いない。
でも今の状況を見れば、この娘の言っていた事が真実だということが分かる。あの時この娘の言う事を聴いていれば……、そんな意味のない後悔が、あたしに付きまとう。
でも、お陰で踏ん切りがついた。
この娘だけでも、逃がさなくちゃ、この娘だけは、殺してはいけない。
例えあたしの命に代えてでも……
あたしはそう決心し、立ち上がってミサメに言った。
「良い、ミサ、あたしはこれから外を見てくるから、貴方はココにいなさい。
もし5分経っても私が還ってこなかったら、この学校の外へ逃げなさい。
分かった?」
でもミサメは頷かなかった。
「イヤ、一緒にいよう。
その方が良いよ。もしユメちゃんが見付かったらどうするの?
見付かったら殺されるんだよ? だから――」
あたしはその言葉の続きを、そっとミサメの唇に指を乗せて止めた。
……ごめんね、ミサ。その話の続きを言わないで。さっきまでしていた覚悟が揺らいじゃうから、さっきまで怖くなかった事が、急に怖くなるから。
もう、決めた事だから。言葉は、もう要らない。何も言う事はない。後は行動するだけなんだ。
あたしは最後に、ミサメに向かって微笑み、生物準備室を後にした。そして同時に、彼女の声が聞こえなくなるのを感じた。
あたしは小声で、彼女に聞こえないほど小声で、「さよなら」と言った。