現象論的神証明の着想
存在に先立つのは目的であり、目的に先立つのは存在である。目的はあらゆる生命から自発するが、高度な動物においては養育され群れに参加する事で肉体的な成長かつ技能の習得、そして目的を継承する。最大の目的は生存であるが、この目的は自然及び肉体の断続的な変調・劣化・事故により常に脅かされるが肉体を契機として目的に影響を及ぼす機序は間接的と言える。しかし特異な状況においては肉体を契機とせず直接に目的が脅かされる。社会的動物においては群れからの排除であり、自然において観察される。また、社会的動物は集団で目的を共有する。
人間においては、共同体は文物や文化によって世代を超えて継承され、社会を根源とする目的もまた世代を超える。人間は他の高等動物と同様に養育と共に共同体から目的を継承し内側と外側の目的を止揚・融合し己の目的とする。仏教で言う所の生老病死により自己が揺らぎ究極には生命の喪失と共に目的も消滅する。しかし共同体において人は普通地位を占め、共同体の機能と目的を構成しながら維持している。一人の目的も共同体の目的の構成要素であって、いずれ疾病負傷により弱り精神も退行し究極的に死ぬ人間に共同体の目的を依存するのは未来における破綻を宿命的に含んでいる。そうして次の世代に目的が引き継がれたとしても、世代の経過による状況の変化に目的が沿わなくなればいずれ忘却される。そこで死を超越し目的を担う神の存在が措定され、共同体に目的を供給し続ける。この連続が歴史概念の原始的な形態となる。
現代において、民主主義の隆盛により宗教の本来的意義は忘却の波に晒され続けているが、民主主義とは政治の形式であり古来の封建制や君主制が宗教に目的の根拠を求めていた構造を明確に克服したわけではない。万人の平等と人権観念と自然科学および人文科学・社会科学に象徴される近代的学問が宗教にとってかわったように見えても、人権観念と学問はそれぞれ政治の形式であり方法論と集合知の体系であるから、必ずしも歴史的な目的の共有の為に機能するとは限らず、またその成り立ちにおいて暗黙の裡に宗教の貢献に依存し、またその遺産を擦り減らし続けている。宗教とはあらゆる状況にあっても正しい目的を維持する方法の体系であり、人権観念はキリスト教の神の下の平等の観念を言葉だけ変えて取り入れたのであって宗教の担った無条件性を人文学的に根拠付けられているわけではない。近代以降の人類社会は工業化とエネルギー革命による事実上無限の生産によってかろうじて人権思想を実現しているのであって、エネルギーの供給に大きな支障が生じれば元々明確な根拠を欠いている人権思想の供給する目的は早晩に支持を失い破綻する。ただ単に、生きるのに困らないからなんとなく綺麗事を支持してもいいという程度の薄い支持に支えられた目的であるから宿命的に脆弱であるし、社会の現実の局面では往々にして破棄されて断続的な自然状態を社会にもたらしている。ここにおいて、神とは無条件な目的を継承するための概念であり、その実体は説明不可能でありながら社会のあらゆる場所で繰り返し再現される状況であり、虚しさそのものであるがこの克服を無条件の目的とした場合には虚しいと理解しているか否かに関わらず虚しさ-虚無を存在者として直面し認識せざるを得ない、この虚無存在に目的を認め存在するとしなければ、共同体ないし社会の世代を超えた目的の共有は実現し得ない。つまり、神は虚無であり、虚無は永遠に普遍に存在する一者である所から、神は永遠に普遍の存在する一者であるとしなければならないのである。神が存在しないとするならば、人類は自然の中であれ文明の中であれ目的も無く存在も無い生々しい虚無に直面し続け対峙しなければならないのであり、この克服に必要な無条件な目的も到底維持できないのだ。そして、哲学は神の代わりにならない。哲学は抽象的な思索と具体的な実践および総合と観察によって成り立つ学問であり、その習熟に長い期間がかかるのは当然として、長い期間の間に社会の状態に大きく影響を受けるのであるから、社会が虚無状態であって自然と対峙する目的もそもそも備えない状態で到底に訓練が続く訳も無く、また獲得に成功したとしてもその経験知識は全く属人的であり伝搬と継承に当たっても訓練を必要とし、また習熟してもいずれ衰え死ぬのであるから、その維持は極めて困難であり破綻する。哲学も所詮は無条件の目的に基礎をおかざるを得ない営みであり、かつ全く属人的かつ一回性の旅程が生きる時代の違う多くの人間によって各々行われているのが連続的に見えているに過ぎない。故に、人間は人間としての存在に先立つ存在としての神がおらなければならず、この神の存在の無条件性を否定する事は出来ない、鬱陶しい事にQED_(:3」∠)_20220527.0055