1話 アコガレとゲンジツ
かつて、英雄と崇められた男がいた。
その男は未知の能力で争いの場を掌握し、沈静化させて回る正義感の強い男だった。
しかしその正義感故か、彼はやりすぎてしまった。
かくして後に語られる彼の名は英雄にあらず。
その名はフェイカーとして刻まれるのだった。
だがしかし、彼は生き存えていた。汚名をそのままに、あえて訂正するでもなく「そのとおりだ」と微笑むその姿に皆が心酔する。
最高の愚ともされた彼は、やはりある意味では英雄だったのだ。その背中は、今なお輝いて見えるのだから。
何度も読み返した童話の続きを、俺は夢に見る。毎夜毎晩描き続けるそれは、まさしく絵空事でニセモノの代物。でも、それでも俺はその幻想を追い求め続ける。だってそれは……
「どうして」
…っっ!!
その声がして俺は、反射的に身を起こす。
次の瞬間には言葉通りで文字通りの泡沫の夢と知るとしても。
そうせずにはいられないのは果たして、俺の悔恨故か、それとも。
もはや珍しくもなくなった朝の肺を刺すような冷たい風で夢の余熱を冷ましながら、段々とはっきりしてくる現実の輪郭にため息を一つ。
夢の中での俺は、何者かであったんだ。
その「何者か」が伝承を継承するために読み聞かせる語り部だったのか、はたまた民がために平和に尽力する英雄そのものだったのか。そういうところは深く考えたことはないけど。
それでも俺が何者かになれているのは事実だった。
まあ、夢の中での出来事を事実とするのはどうなのかと思わなくもないが。その場合は夢実とでも言うのだろうか。いや、これは響きが良くないからやめておこう。事実と言おうが夢実と言おうが、結局はただの独り言。指摘する人は居ないんだからどちらでもいいじゃないかと開き直るまでに、たいした時間は要らなかった。
愚考の領域から脱出して、冷めきった瞳で直視する現実の自分。
家族はなく、友達もない。顔立ちも不可とは言わずとも良くはなく、勉学も高校止まり。あるものといえば伸びっぱなしになっている髪の毛と、幼子のような憧れだけ。その憧れだって、それに近付くためになにをしてるでもないんだから話にならない。
夢の中での自分とは打って変わった何者でもない自分。それを目の当たりにする時の心境と言ったら、それはもう酷いものだった。
「俺が彼だったらな……」
現実に耐えかねてか、いつからか口癖になってしまった台詞を薄いベニヤ板に吐き捨てながら、どうしようもない気持ちを心の奥に押しやってキッチンへと足を向ける。
向かったところで、できることは無いと知りながら。
昔はそう、母親の真似なんかしてキッチンに立つことも珍しくはなかった。包丁は子供用の小さい果物ナイフで、作っていたのはサラダとかばかりだったけど。
だが、今やキッチンはただの物置きと化してしまった。それもここ最近の話ではなく、もっと昔…独りになった年の夏くらいからか。だからもう、どんな道具があってどう使うかなんてことも忘れてしまった。キッチンにあるもので今もちゃんと使えるものは、冷蔵庫と電子レンジくらい。それらを駆使して、何かしらをパンに乗せて食べるのが常だ。
今日も別段変わったこともないのでそうしようと思い、最近ガタついてきて開きの悪い扉を開ける。ミシミシなんて音をたてながらゆっくりと開いたその扉の先には、だが残念ながら卵一つすらありはしなかった。どうやら、前回食べた明太子が最後だったらしい。
そんな空っぽな冷蔵庫が自分に似てるだなんて野暮ったいことを考えながら扉を閉める。
その扉は、開いたときよりも更にゆっくりと閉まっていった。キィイという古風館の重扉のような音をたてながら。
「……暑っ。」
前回食料買い出しに行ってからまだ一週間やそこらなはずの外出だったのだが、外は驚きのあまり独り言がこぼれるくらいに暑かった。
ちなみに、まだ5月も頭である。
普段は人通りもなく寂しい印象のこの街だが、今日は子連れから老夫婦までありとあらゆる人が往来している。この暑さはそのせいでもあるのかもしれないと思えるほどに。
こんなに賑わうのはなんでなのか、最初は俺も見当がつかなかったが、歩いていくうちに答えが見えてきた。店のノボリに書いてあるのは、GとWの文字。つまるところ、ゴールデンウィークだ。やれ鯉のぼりだのやれしょうぶ湯だのと、普段並べることがないような商品を並べているあれは、アルバイトだろうか。手ぎわが悪すぎて、見せ物みたく人が集まっている。買う人以外は立ち止まらないようにと必死に声を上げるアルバイトだが、誰が聞く様子もない。そればかりか声を上げたことで人はさらに増え、中にはスマホを取り出して撮影をし始める輩もいる始末だ。
かわいそうだけど、俺にしてやれることはないな。
流石に人混みを割っていって助けるわけにもいかないだろう。俺と彼は、そんな仲にはないのだから。彼はそこのお店で雇われたアルバイトで、俺はただ通りかかっただけの一般人。立場がまるで違う。無論彼だって、俺の助けは期待していないだろう。
そうやって俺は俺を正当化して、少しでも手際が良くなるようにと願いながらその場を去るのだった。「彼なら」という心の声をなんとか無視して。
「結構買ったな……」
行きつけのスーパーから出てきた俺は、両手にぶら下げたビニール袋を交互に見てぽつり。
およそ一人暮らしの購入量ではないそれは、ずっしりとしたその図体を堂々と晒しながら俺の腿を左右からぶっ叩く。早く進めと言わんばかりに。おそらく指揮官は、冷凍食品のたこ焼きか唐揚げあたりだろう。
「へいへい急ぎますよっと。」
そう言って歩みを少し速めた俺はしかし、件の店の前で足を止める。
そこには行きにあった人だかりはなく、一人の店員がテキパキと動く姿だけがあった。
さすがに担当を変えられて下げられちゃったかなと思い、目線を戻して再び歩きだそうとするが……
「いらっしゃいませー」
その声に、彼から外れかけた視線が一気に引き戻される。
それは確かにアルバイトの彼の声だった。
だがその声を発したのは、テキパキと動く店員で……
本当に冗談ではなく、彼と目の前の店員が同一人物だなんて信じられないことだった。それくらい、動きのレベルが違った。色々買ったと言っても、経っててもせいぜい一時間だぞ。そんな短時間でここまで変わるのか。
なんだか可能性を見せつけられた気がして、嬉しいような悲しいような。言い表すのが難しいクソデカ感情に苛まれ、俺は逃げるようにしてその場をあとにした。
家に帰ってきても、買ってきたものをしまっていても、遅すぎる朝食を食べているときも。
もう暮れかかっている空のオレンジを眺めている時ですら、彼のことが頭から離れなかった。
俺はれっきとした異性愛者なのでそういう感情ではないのは確か…いや、あれで目覚めたということもあり得なくはないが……ないな。この感情は抱きたい抱かれたいや一緒にいたいみたいなことではない。それはわかるんだけど……その先がどうしても出てこない。
理不尽な檻の中を、デタラメな言葉の羅列だけで生き抜いてきたはずなのに。その言葉ですら、この体たらくか。なんとも無力だ。
ーーああ、そうか。
彼に何を思ったのか、それはまだ分からない。でも、なんでこんなにも焼きついて離れないのかは分かった。
それは、自分の無力が浮き彫りになるからだ。彼はあんな状態から変わってみせた。劇的に。
俺が助けようなんて、出すぎた話だったのだ。
まあ実際にもう過ぎた話だからどうこうすることもできないが、つまりそういうことなのだ。変われる奴は、誰の手がなくても勝手に変わっていく。変わっていける。そうでない者をそこに残して。
「やってられねえな。」
考えることをやめて呟くと、すっかり暗くなってしまった空が生ぬるい風で嬲ってくるのが分かった。その空には分厚い雲が横たわり、月明かりの一つもない。
「お先真っ暗ってか。くそ。」
まだ昼飯も夕飯も食べてはいないが、今はどうも動く気分にはなれなかった。今日は朝飯が致命的に遅かったし、別に食べなくても死ぬわけじゃない。食べるのは明日でもいいだろう。それが、俺の出した結論だった。
そうして今日の食事を諦めた俺は床につく。
三つ折りになって置いてあった布団に手を伸ばして、バサバサと振るようにして広げる。少し振るだけで広がる薄っぺらい布団は、敷いてある意味があるかすら微妙なくらいで、掛け布団も大半の綿が抜けて薄っぺらくなっているが、どうでもいい。むしろ丁度いいのかもしれない。ほら、言うだろう?大は小を兼ねる…これは違うか。逆か?とにかく、中が小さいなら外も小さくしろよ的な…ハンバーガーも具が薄いのにバンズだけ厚いとムカつくだろ?そういう感じ。
見てわかる通りこのときの俺は、だいぶおかしかった。テンションからなにから、全てのたかが外れたような状態だった。だからだろうか。こんなことになってしまったのは。
いつもと同じ夢を見る。童話のその先、フェイカーと呼ばれた彼をもう一度英雄と呼ぶに足るような物語を。
彼はどう呼ばれても笑っていた。どう呼ばれても、どんなに拒絶されても、困っている人があれば助けた。それを皆は非難し、醜く飾る名がつけられるわけだが。俺にはその行いが悪いようにはどうしても思えないんだ。自己犠牲の精神だから、ではない。自分にはできないから。それはあるかもしれない。でも、根っこのところは違う。
俺は憧れてしまったのだ。正義の味方に。英雄に。彼のその姿は、俺の憧れそのものだった。
彼になることを夢見て、がむしゃらに走ったっけな。あの頃は良かった。まだこの世界のひとかけらくらいしか知らなかった俺は、本気で夢を見れてた。本当に、良い時間だった。願わくば、願わくばーー
「ーーーー!!」
ふと夢の中にある本の中、ただの一度も振り返ることのなかった英雄が俺の方を振り向く。
その顔は天上からさす光でよく見えないが、辛うじて見える口元が、なにか言葉を紡ぐ。
「ーーーー。ーーー。」
紡がれた声は聞こえない。俺と彼では、距離がありすぎる。夢の中のさらに中。創られた本の、さらに延長上の、俺だけの本の中。
届きようがない、とてつもない距離だ。聞こえなくて当然。当然、だけど。
「ーーっ!!くそっ!破れろっ!!っ!!」
諦められるわけがない。明らかに俺に向けて発せられた言葉を、確認もしないで目をつむるなんてできない。
段々と、景色が白んでいく。いけない。夢が終わる。向こうの彼も景色と一緒に薄くなっていく。
「くそっ!!くそっっ!!」
向こうとこちらを隔てる透明な壁を、力の限り叩く。彼が薄くなっていても構わない。全部はもう聞けないとしても。一言。たった一言だけでも、どうにか。その一心で叩き続ける。
破れろ!破れろ!!破れろぉぉ!!
渾身の一撃が壁を叩くと同時、壁が消えた。
まるでそこには元から何もなかったかのように、俺の拳が確かにあった手応えだけを覚えたままストンと落ちる。その手を視界に入れた俺は、だが正面を確認しようとはしない。力いっぱい叩いてるうちに下がっていった目線を上げることなく、ただうなだれたように座り込む。
だってこの感触は、夢の終わりそのものだ。
壁は割れたのではなく消えた。突破できたのではなく、時間切れだったのだから。ならば彼も、当然ーー
「頼んだぞ」
夜は明け、夢は終わった。
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