人を見た目で判断することなかれ
電車で隣の席に座っている人物を見ると例の男だった。男は黙って自分の席へ戻ろうとしていた。その時初めて気がついたのだが、この男の穿いているズボンというやつは、どう見ても女物だ。しかもかなり古いものだ。その古さがまた一層女の服装らしく見せる。僕はちょっと変な気がしたけれども、別に何とも思わなかった。ただ寒いだけだ。しかし男は急に立ちどまって、じっとこっちを見ている。そうして何か言いたそうな顔をしている。だが何も言わない。やがて又歩き出したかと思うと、今度は向い側の椅子の端まで来て腰をかけたなり動こうとしなくなった。――これが最初の出会いである。それから間もなく男が向う側でもぞもぞし出す気配なので、よく見ようとするうちに、いつの間にか眠り込んでしまったらしい。次に眼を開いた時は全く見知らぬ所であった。どこへ行くのか知らぬ間に汽車は停った。降りる時に振り返るともう乗っている乗客はなかった。空車ばかり五六輛ある中にたった一人ぽつねんとして立っている自分がいた。それが今の自分だと悟るまでにしばらくかかった。降りてから右を見て左を見た時は、まだ夢の中にいるような心持がするくらい驚いた。そこはさっきの上野駅ではない。全く異質の町の中に立っていなければならないのだ。
「ここはどこか」
と思いながら歩いているうちにある事を発見した。それは靴の底を通して地面が固い土だという事がわかると同時に、今自分は裸足であるという事に思い当るだけの簡単な発見であったが、それだけでは十分でない。もっと詳しく言えば、これは東京の地平線の上ではなくて、東京の地下の中に立っておるという事を発見するまでの単純な事実の発見に過ぎなかった。同時にここが自分の知っている土地柄とはまるで違ってしまっているのだという事も知った。もっともこの時はそんな事は考えずに、単に驚いて呆然としてしまっただけに過ぎない。
とにかくこんな具合にして、僕は知らない町角に立ったまま途方に暮れてしまったわけであるが、幸いにも親切なお婆さんに助けられたので、やっとの事無事に家に帰ることができた。ところが帰ってみると、父は病気で寝ていて母はまだ帰らない。妹たちは学校にいる。姉だけは留守居をしていた。そこで取りあえず父の様子を看に行ったあと、母の帰りを待つために茶の間へ坐り込んだら、そこへ先刻会ったあの男が訪ねて来たのだ。彼は父の知り合いの医者とかいう事でやって来たのだが、僕を見るとびっくりして、すぐ帰ると言い張った。それで父が引き留めたものだから、とうとうそのまま残ってしまった。そのうち母はようやく帰ったようだから、そろそろ暇乞いをすると言って出て行ったきり戻って来なかった。その後一週間ほど経ってから、もう一度彼が来た時には、すでに父と話を済ましていて、僕たち兄妹に対しても非常に丁寧に挨拶をして立ち去ったそうだ。
……これで僕の話は終るが、実はこの間中ずっと彼の事を考えてみた。すると不思議な事があることに気がつく。というのは、彼と最初に出会った時の印象を辿って行くと、どうしても女のような男という感じが一番先に起ってくるからだ。いくら古いズボンを履いていても、その下に見える腿や脛といったものは確かに男のものであった。それなのになぜあんな風に思ったかというと、第一に顔つきが非常に女っぽいところにあったのではないかと思われる。つまり眉毛の形などもやや細過ぎるように思われたし、鼻筋が通っている割には唇の線が妙にしなびているように見えたせいかも知れない。それに眼尻がやや下っていたこともその原因の一つであろう。そのほかいろいろ考えた末、やはり一番大きな原因はその服装だと断定した。洋服というものを着たことのない時代だったから、ズボンといってもズボンという言葉だけで、どんなものか想像することもできなかったけれども、要するにズボンという以上は裾の長いもので、しかも女の履くようなものに違いないと勝手に解釈した。そうしてそのズボンの下に見えた脚もやっぱり女のものだった。――以上の通り観察した結果から見ると、どう見てもあの男は女の服装をした男以外の何者でもない。従って、もしあれが本当に女の服装だったとすれば、その男は女の服装をしているばかりでなく、女の服装が似合う性質の男であるということになる。そうしてその男は女の服装が好きなばかりか、女の服装をしていれば安心だというような心理状態に陥っている人間に違いないと考えられる。――以上が私の結論である。しかし私はここで改めて断わっておきたいことがある。それは私が女の服装について抱いている感想は、決して男女間の恋愛感情から出たものではなく、むしろ一種の好奇心に近いものである。したがって私自身としては、女の服を着てみたいなどと考えたことはただの一遍もない。ただそういうものがどういうものか、一度見てみたかったというだけの興味にすぎないのだ。しかし世間一般では、こういうものを女の服装に対する偏見と呼ぶらしい。そうしてその偏見がだんだん強くなって来ると、しまいには、それが社会一般の通念になって、ついには法律にまで影響を及ぼすに至ったらしい。――