6話
――負けちゃった……こんな風に負けたのは初めて……。
セリアは無重力体験室でその身体を浮かせ、宇宙空間をじっと見つめていた。
無重力体験室は全面透過セラミック素材でできていて、三六〇度の宇宙を見ることができる。屋内で最も宇宙を肌で感じることができるこの無重力体験室は、月面カレッジの中でセリアの一番のお気に入りだった。
セリアは暇さえあればここで浮いて、脳内でテキストの暗唱を繰り返していた。本当にぼんやりできたら一番幸せだが、このカレッジでそんな悠長な暇は存在しない。
だがただ浮いて、微動だにしないセリアを他人は理解できず、哲学者と呼ぶようになる。
「うお~哲学者だ。やっぱり見た目は美少女だよな~」
無重力体験室の前を通りがかった男子生徒が、目立つ銀髪に足を止めた。
人形のように美しい横顔に、思わず見入ってしまう。
「でもさ、美人ランキングに入っても彼女にしたいランキングには入らないアレだろ、電波だろ。あいっかわらずなにを考えてるかわかんねぇ」
「電波っても哲学者はディベート部のエースだぜ。あのぼんやりした普段の話し方とは全く別人になるから初めはすごく驚いた」
いつもああだとモテるのにな~と結論づけた男子生徒達は、さあ行こうぜと歩き出す。
だが冷たい声に呼び止められ、振り向くことになった。
「ねぇ、ちょっと、そこにセリアいる?」
月面カレッジの非公式ミスコンで一位を取ったユーファ・シュウが仁王立ちしている。思わず『イエス! マム!』と言いたくなるのを堪えて、男子生徒はいますいますと首を縦に振り、慌てて走っていった。
「……セリア、そろそろ哲学の時間は終わりにしなさい。いつまで浮いてるつもり?」
無重力体験室の入り口に立ったユーファは、逆さになって浮いているセリアへ声をかけた。一度だけでは反応しなかったので、今度は大きな声で戻ってきなさいと呼ぶ。
「……ユーファ?」
「哲学の時間は終わり。ついてらっしゃい、お茶の一杯ぐらいは出すわ」
セリアはユーファと共に無重力体験室を出て、夜のカレッジ内を歩く。
学生と、講師、そしてその関係者しかいない月面カレッジは治安がすこぶる良い。真夜中に女一人でふらふら出歩いても問題なかった。
「今日、船外活動士課程のAランクは現役の船外活動士と対戦したんですってね」
「はい……」
「授業中、ケイが端末で映像を覗き見してたわ。見つかったら退学ものよ。あの子、本当に馬鹿ね」
「このカレッジの回線でケイが入れないところはないみたいですだから……」
ケイは宇宙整備士のAランク修得者、つまりシングルエーだ。元々情報関係に強く、カレッジ入学の三カ月後に宇宙整備士のAランクをスキップで習得した天才である。三カ月というのは、実は実習単位をとるために必要な最短の時間だ。入学前にAランクの実力を持っていたケイは、密かに『Already A』と呼ばれている。
「座って、茉莉花茶。多分口には合わないけど、気にせず飲みなさい」
セリアはユーファの部屋に招かれたあと、椅子に座って出されたお茶を口元へ運ぶ。
不思議な、でも嫌な感じではないお茶の香りがふわりと立ち上った。ふーふーと冷ましながら一口飲んでみる。
「不思議な味です」
「私もそう思うわ。一応国産らしいけど、私に飲む習慣はないから」
ユーファは美味しくなさそうに口をつけて、すぐにカップをソーサーに戻した。
それから自分の端末を持ち上げ、部屋に備え付けてある大きなモニターを操作し、起動させる。そしてケイから流してもらったAランクと現役船外活動士との1to1の映像を再生した。
「全員惨敗したんですって?」
「……うん、どうして勝てなかったのかなって、ずっと思ってたんです」
「敗因がわからないの?」
「もしかしたら敗因が多すぎてわからなくなってるのかもって思いました。初めての敗因が多くて、処理しきれなかったのかもって」
ユーファはセリアの言いたいことがなんとなくわかって、そう、とだけ言う。
「ディックも勿論強いなって感じたんですけど、あとツァーリも。でも、自分がなにしても敵わないって思うのは初めてで……」
「私はよくあるわよ」
例えば目の前にいるセリア、そしてツァーリ、この二人には何しても敵わないとユーファは毎日思い知らされている。それはユーファだけでない。このカレッジの生徒なら殆どの者が、羨望と諦めを交えて思うことだ。
「……よく、あるんですか」
「普通はあるわ。――でも、そうね、このカレッジにいる限りAAAの貴女は『以下』の相手しかいないわね」
「以下……」
月面カレッジの授業はどの課程も実力に応じてのクラス分になっており、BランクがCランクやAランクと同じ授業を受けることはない。
セリアはAランクをとってからは、ユーファが言ったように『同じレベル』はいても『自分より上のレベル』との対戦はなくなっていた。
その瞬間、セリアの頭の中で、気泡が弾ける音がした。疑問という名の気泡は、細かい泡となって静かに脳内へ沈んでいく。
「――分かりました! そっか、わたしプールでしか泳いだことないんだ! ユーファありがとう! わたしがんばりますね!」
突然叫んだセリアは、また明日とユーファの部屋を飛び出す。
セリアは自分の部屋へは戻らず、今気づいたことをカレッジに戻って実践することにした。一秒すらも惜しい、全力で走り続ける。
「……何やってるんだろう私……こんなことをしてる余裕なんてないのに」
残されたユーファは、苛立ちに任せてテーブルを強く叩く。カップが揺れ、ジャスミンティーがこぼれた。