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月面のジーニアス  作者: 石田リンネ
第四章 Glory to コギト・エルゴ・スム!
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28話

 対抗戦当日のタイムスケジュール、来賓用のID発行準備やパンフレット、メディアの立ち入り可能範囲の設定、講堂での中継の手配等、まだまだやるべきことはある。

 夕飯を食べてから、もう一度セリアはドッグへ向かった。

 『最後の切り札』についての練習をするためだ。

 これは体力を使うような練習ではないため、一日の終わりに行っていた。


「……駄目ですね。これではまだ使いものになりません」


 切り替えまでの時間がかかっている。そしてその後の再発進までの手順にも。

 理論上では、三秒でできるとツァーリは言っていた。ならば理論を越えた数値を出したい。AAA(トリプルエー)ならばそこを目指したい。


「今日はこれでお終いにしましょう」


 理屈ではきちんと休まなければとわかっている。

 けれど心が上手く納得してくれない。


 ――走りたいと足がうずうずしている。妙な感覚がいつも付きまとう。


 焦っているのだろうとセリアは自己分析して、寝ないとだめだめと己に言い聞かせて、ドッグを出た。

 そのまま女性寮に戻るつもりだったのだが、ふと思いついて無重力体験室に向かう。

 少しだけリラックスも兼ねて、宙に浮いていこう。

 今日は色々あったから、頭の中の整理をしたい。


(昼間にツァーリが始めた大乱闘、それから授業後には初めての宇宙演習、それに……新しい実行委員の加入……)


 目まぐるしい日々だったなと思いながら無重力体験室に入れば、そこには先客が一人いた。


「……ケイ?」

「やぁ、セリア。ちょっと宇宙を感じたくてね」

「身体の調子はどうですか?」

「もう平気」


 セリアは軽く床を蹴り、ケイの近くの壁に手をついて身体を止める。

 実は、無重力において特定の場所で静止するのは難しいのだが、この無重力体験室の常連であるセリアはいとも簡単にやってのけた。


「珍しいですね、ケイがここにいるなんて」

「うん。多分、浮かれてるから」

「……あっ」


 マーガレットともしかしていい感じになったのではとセリアは気づく。

 青春がここに、と思っていたら、顔に出たのか違うよと笑われてしまった。


「セリアには親と上手くいっていない話をしたよね」

「はい」

「実は、僕の将来の選択肢の中に、月面カレッジってなかったんだ。遠い世界のことで、入ろうとも思わなかった。でも色々あって、なんだろうね……逃げたんだと思う」


 月面カレッジは、逃げこめるようなところではない。

 セリアはそれだけの努力を、ケイはしたのだろうと断言できる。でもおそらくケイの心情的には、親から離れたことを『逃げた』と感じているのだろう。


「そのときは精神的に荒れてて、この月面カレッジのみんなの個人主義に助けられた。誰とも話したくなかったし、話しかけられたくもなかった。でもね、まあ二年半ここで過ごしたら多少はましになったのかな」


 ケイは天井を軽く押して体勢を変え、窓から見える宇宙を見る。


「個人主義に助けられたのに、時々あのまま地球にいたらってことを思うんだ。普通の公立高校に行って、スポーツ大会を楽しんで定期テストにひやひやして、部活動で汗を流して、学校祭に全力で取り組んで……僕もそういうことをしたんだろうなって」


 ケイが発する英単語は、ところどころセリアにとって馴染みのないものだった。

 でも、なんとなくわかる。普通の学校なら、普通にあることなのだろう。


「僕は〝青春〟を捨ててしまったことを、少しだけ残念に感じるようになった」


 それは元気が出たってことでもあるんだけれど、とケイは苦笑する。


「だからね、僕は今、とても楽しい」

「楽しい?」

「そう、捨てたはずの青春を、ここで体験できるなんて思わなかった。みんなで一致団結して、ライバルに勝とうって日に日に盛り上がって、チームワークを大切にして……そういうこと、僕は憧れてたんだ」


 セリアも憧れていた。普通の学生なら、普通に味わえることを。

 そういえば、対抗戦をやりたいと言い出したとき、真っ先に賛成してくれたのはケイだったと思い出す。


「だから浮かれてる。毎日、そわそわする。走り出したい気持ちになる」


 同じようなことを、セリアは感じていた。

 もしかして……と己に問う。


 ――対抗戦まで日がないことに焦っていたのではなく、自分も……。


「ありがとう、セリア。僕はとても今が楽しい」

「っいえ! お礼を言うのはわたしの方です!」


 慌ててセリアは首を横に振る。ケイにはいつも助けられている。ケイがいなければ、ここまで盛り上がってくれなかっただろう。

 

「ね、セリアはどう? 楽しい?」


 ケイに尋ねられ、セリアはゆっくり瞬きをした。






 無重力体験室を出て、セリアは女子寮に向かう。その途中にあるライブラリーから、ディックが出てきた。


「ドック帰りか? お疲れさん」

「ディックもお疲れ様です。こんな時間に、どうしたんですか?」

「ライバルの調査だよ。飛び方の癖って変わらないだろうし、向こうの船外活動士(パイロット)のデータを今のうちにまとめておこうってな」


 ツァーリに言われて、とディックは言う。

 明日にはツァーリがみんなに流すんじゃねぇ? と言いながら、じゃあなと軽く手を挙げて男子寮へと歩き出した。

 セリアはおやすみなさいとは言わず、呼びとめる言葉を口にする。


「ディック! 待ってください!」


 お? と振り返ったディックに、セリアは胸を押さえながら問いかける。


「ディックは、今、楽しいですか?」


 対抗戦の船外活動士(パイロット)のリーダーとして、ディックはいつもセリアを助けてくれる。

 誰よりも速くゴールして、ツァーリからも一位を取れと言われて、その期待に応えようといつもみんなに頼もしい背中を見せている。

 今、どんなことを感じているのか、知りたかった。


「すっげー楽しい。対抗戦、やってくれてありがとな」


 また明日とディックはにやりと笑う。

 セリアは慌てておやすみなさいとだけ言って、そわそわしだした足を動かした。


 ――会いたい、あの人に、会いたい。

   今、どんなことを想っているのか、聞かせてほしい。


 でもすでに夜遅い。もしかしたら、寝ているかもしれない時間だ。

 けれど、けれど、とセリアが思っていると、ライブラリーの扉が開いた。

 まさかと振り返る。

 ディックはなんと言っていたか。ライブラリーでライバルのかつてのデータを見ていたのは、ツァーリの指示だと言った。ならそのツァーリが一緒にいても……。



「ツァーリ!」



 セリアは幼なじみの名を呼べば、彼はすぐにこちらを見てくれた。

 駆け出して、セリアはこっちに来てくださいと手を引っぱる。


「セリア? どうかしたのか?」

「いいから、来てください!」 


 ケイと一緒に出てきた無重力体験室に、今度はツァーリを連れて入った。

 床を蹴れば、ふわりと身体が浮く。セリアは魚のように滑らかに方向転換をし、ツァーリの手を両手でぎゅっと握った。


「わたし、最近おかしいんです」

「……どんな風に?」

「気がついたら、走りたくて足がうずうずしているんです。ツァーリはそういう気持ちになったことはありますか?」

「ああ」


 返事を訊いて、セリアは破顔した。

 頬を染めて、眼をきらきら輝かせて、ツァーリに一緒ですねと微笑む。


「それに、焦っているような、妙な感覚がいつも付きまとっているんです。ツァーリも?」

「そうだな」


 同じ気持ちを、ツァーリも抱えている。なら答えは同じだ。



「わたし、今がとても楽しいってことに気づきました! よかった、ツァーリもですね!」



 いつだって新しい知識を得ることや未知なる体験は楽しかった。

 でも、対抗戦を通じて感じている楽しさは、今までとは種類が違う。

 みんなで作り上げていくこの瞬間は、個人で得られる楽しさとは違う。だから自覚できずに、焦っていると思ってしまったのだ。


「対抗戦、絶対に勝ちましょう!」


 セリアはそう言うなり、はっとあることを思いつき、ツァーリの手を離して壁を蹴る。


「……おい!」

「おやすみなさい。今ならフィンランドは朝ですから、急がないと!」


 よしとセリアは意気込んで、走って通信ルームに駆け込む。

 今、とても楽しい。そしてもっと楽しもう。

 目の前にある青春を、自分も味わっておきたい。

 急ぎ母親にメッセージを送る。生まれて初めて送る『今から話せますか?』だ。

 すぐに返事があり、セリアはモニターに網膜を見せて、自分の連絡先一覧を呼び出し、『HOME』を指で押した。

 ぱっと画面が待機中になる。落ち着かない気持ちで待っていると、画面か切り替わっていつも優しい母親の姿が映った。


「あ、お、お母さん! あのですね、一つ聞きたいことがっ!」


 こういうことは、既にこの道を通った経験者に聞けばいい。そんな単純なことを、セリアはさっきようやく思いついたのだ。

 

「女の子からのキスってありですか!?」


 突然の恋愛話を始められたセリアの母親は、深刻な相談だと思い込んでいたため驚いて眼を円くしたが、すぐにっこり笑う。

 それからセリアへ、ゴーサインを出した。


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