明日から来た恋人
おれは今、未来から来た恋人だと名乗る頭のおかしな男に付きまとわれている。
発券所でパスを購入し終え、園内マップ片手に順路について思案しているところだった。そいつは道でも尋ねるような気軽さで、ヤアとおれの肩を叩いたのだ。
「驚かないで欲しいんだけど、おれ、未来できみの恋人なんだ」
おれはたっぷり30秒、そいつの顔をじっと見つめた。けれどどれだけ見つめたところで間違いなく赤の他人だったし、未来は恋人だとして今はやっぱり赤の他人だ。空はどこまでも青く澄み渡りこんなにも気持ちの良い朝だというのに、この男のトンチンカンな振る舞いで台無しだ。
返事もせずに向きを変え、おれはさっさとトンズラすることにした。ところが、そいつは並んで付いて来る。ねえねえ、あれ乗ってみない?だとか、コーヒー飲む?だとか。
それでも無視してコースターの列に並んでいると、いつの間にか姿がない。諦めたかと安堵したのも束の間、半分くらい列が進んだところで「おまたせ!」と元気よく肩を叩かれる。それがあまりにも自然だったものだから、おれは迂闊にも振り向いてしまった。目と目が合って、さらに引っ込みつかなくなる。
「待ってねえし、…なんだよそれ」
「朝食ってねえから、腹へっちゃって」
照れくさそうに笑う男は、腕の中にポップコーンを抱え込んでいる。映画館じゃあるまいしと呆れつつ、コーンとバターの香ばしい匂いがふわりと掠め、絶妙なタイミングでおれの腹が鳴った。男が嬉しそうに顔を輝かせて、それでもう、いろいろ面倒になってしまったんだ。
それからおれは、男と並んでコースターに乗り込んだ。
手始めに、カンカンと上り詰めて一気に下るクラシカルなやつ。園内を見渡せる高さまで来るとガクンと止まり、コースターはそこから急転直下、まずそこで男の手元からポップコーンが弾け飛んだ。
「う、うわっ!?」
隣で上がる悲鳴。パアッと宙に舞い上がる幾つもの白い粒。真っ青な空を背景に、まるで雪か霰みたいに風に煽られて、パラパラと落下してゆく。
「わ、わ、ちょ、やべぇ」
男がわたわたとかき集めるような手振りをしたけれど、当然かき集められるはずもなく、うわ、とか、なに、とか周囲で起こる騒めきに、すんません!と叫んだ声は、荒ぶるコースターの動きによってそのまま本物の悲鳴に切り替わった。がっくんごっとん、揺さぶられながら男と目が合って、おれはブフッと吹き出した。
「あっははは!」
こうなると思ってた!男がポップコーンを抱えてやって来た時から、あんなの抱えて乗り物乗ったりしたら、絶対えらいことになるって。うわあすげえ見てみてえ、って思ったんだ。
「ちょっ、もうっ、…笑わないでっ」
ポップコーンはポトポトとコースターの箱の内側にまで落ちて来て、おれたちの足元を、そいつらが行ったり来たりコロコロ転がっている。コースが右へ左へうねる度に、体が右へ左へ投げ出されて、後を追うように足元のポップコーンもコロコロコロコロ。愛らしいポップコーンたちにくつくつと肩を震わせていると、そのうち男もつられたみたいにプッと吹き出した。情けなく眉を下げて、「勘弁して〜」なんて空を仰いで、手元のボックスにはもうポップコーンはほとんど残っていない。おれたちは顔を見合わせて、一緒にけたけた笑い転げた。
もちろん、その間もコースターは絶賛滑走中。揺さぶられ、引っ張られ、ものすごい圧がかかったかと思ったら、前触れもなく重力から解放される。頭の中もいろんなものから解放されて空っぽになった。
「…さいっっこう!」
コースターを楽しめないやつは気の毒だ。こんなふうに遊べてそのうえ発散も出来るんだから、こんな最高のエンターテイメント、他にない。
その後も、立て続けに回転したり落下するやつを乗り継いで、おれは思いっきりギャーギャー声を張り上げた。そしてそれ以上によく笑った。男が終始ものすごい形相で悲鳴を上げるのがおかしくて。コースターに乗ってこんなに大笑いしたのははじめてだ。
しかしそのうち男は腰が砕けたみたいになった。やつはコースターを楽しめるタイプではなかったのだ。へなへなと地べたに座り込んで、顔が紙のように白かった。
じゃあ次乗るやつは選ばせてやると言うと、男は消え入るような声で、出来れば動かない乗り物がいいと答えた。動かないのなら、それは乗り物とは言わない。
「だらしねえな」
とは言うものの、無理に乗せて隣で吐かれでもしたら堪らない。
「じゃ、早いけど飯にすっか」
◻︎
運ばれて来たパンケーキとココアは、どちらもほこほこと湯気を上げていて、口の中にじゅわりと唾液が湧き上がる。男の前にはコーヒーとパフェ。アイスの上にクリームとバナナが添えられただけのシンプルなパフェだけど、ついさっき吐きそうで食えないなんて言ったくせに、調子の良いことである。ひとこと言ってやりたい気もしたが、それより、今は目の前のパンケーキ。あつあつのうちにいただくべく、フォークとナイフに手を伸ばす。
「あ、ちょっと待って」
男はおれを制すると、脇のカトラリーからスプーンを取り上げた。何をするのかと訝しんでいると、男はスプーンでたっぷりよそったクリームをココアのカップに、アイスをパンケーキの上に手際よく載せた。ジャーン!なんて効果音を付けて男は笑ったけれど、おれは笑えなかった。あつあつのパンケーキの上でじわじわ溶けていくアイスを見下ろし、無言でナイフを入れる。男がおれをじっと見つめているのが分かったけれど、おれはもう、男の顔を見ることが出来ない。ひと口大にカットしたパンケーキを、次から次へと口へ押し込む。ブルーベリージャムのたっぷりかかった大好きなパンケーキなのに、味なんてしなかった。今日一日、おれはずいぶん頑張ったけれど、もう無理だ。目の縁に涙が盛り上がってきて、ぽろんとひとつ溢れると、あとはもう止まらなかった。ぽろぽろぽろぽろ、あとからあとから溢れてくる。
「…うぅ〜…」
食い縛った歯の間から嗚咽が漏れる。
今日、おれは誕生日だった。
誕生日には、ふたりで遊園地に行きたいと言っていた。絶叫系を片っ端から制覇していって、池のほとりにあるテラスで昼飯を食う。ブルーベリージャムをたっぷり載せたパンケーキにアイスを載っけて、あつあつのココアにたっぷりクリームを入れて。
全部、おれがあいつに言ったんだ。恋人が出来たら、誕生日にそうやって過ごすのが夢だった。あいつは、誕生日まで待たなくたって今すぐやろうって言ったけど、誕生日じゃなきゃダメだって、そこは譲らなかった。
好きなひとがいて、好きな場所で会う。おれの乗りたい物に乗って、好きなものを食って、目の前で好きなひとが、おれのそんなワガママを全部聞いてくれる。
そんなひとがいるってことは、すごく特別なことだ。だから、それをするのは何でもない普通の日じゃなくて、365日のうちでたった一日しかない特別な日じゃなきゃいけない。
今日が待ちに待ったおれの誕生日で、好きな物に乗って、好きなものを食って、なのに肝心な好きな人がここにいない。あいつがいなきゃ、大好きな遊園地もパンケーキも、ちっとも特別じゃない。今日は誕生日だけど、他の364日と変わらない。
伝い落ちる涙は口の中まで入り込んで来て、甘いパンケーキはたちまち甘じょっぱくなった。
「…ごめん」
男は肩を落として項垂れている。
きっと、最初からおれは分かっていた。こいつが、未来の恋人だなんて言って現れた時から全部。
「代わりに行ってくれって、あいつに言われて来たのか?」
口を開くとどうしても嗚咽が漏れてしまって、途中で何度もしゃくり上げ、ちいさな子どもが愚図っているみたいになりながら、おれは何とかそれだけ言った。男がちいさく首を振る。
「…おれが、兄きの恋人にどうしても会いたくて」
スッと流れるような切れ長の目だとか、厚みのある肉の付き方とか。男の輪郭には、あいつを思い出させるところが幾つもあった。
「何が未来の恋人だよ!」
わーん!おれはとうとうテーブルに突っ伏して、声を上げて泣いた。泣いて泣いて、涙が枯れるより先に声と気力が枯れて、男に付き添われてトボトボと帰路に着いた。
駅ビルのガラスに映ったおれの姿は力なく、さながら捕らえられた宇宙人だ。大きな手に吊り上げられるみたいに腕を捕まれ、呆然と引きづられている。涙は止まったけれど、泣き過ぎた瞼が腫れぼったかった。
改札前でようやく男は足を止め、おれに向き合った。何か言いたいことがあるのに、何て言ったらいいか分からない、そんな顔をしている。でも丁度良い。おれにも聞いてやる余力がないから。
「じゃあ」
くるりと回れ右。たくさんの背中が吸い込まれるように向かう改札へ、そのたくさんの群れに続く。
おい!後ろで誰かが叫んだ。
「約束はおれが守るからな!」
あの男の声だった。
おれは振り向かずに改札をくぐって、エスカレーターに足を乗せる。エスカレーターは音もなく、厳かなくらいゆっくりと下降していった。横のベルトに凭れ掛かり階下へと運ばれていると、なんだか笑いが込み上げてくる。
「…ふ、」
吹き出しそうになって、口元を手で隠す。けれど隠す側から笑みは膨らんで、すぐに指先じゃ足りなくなった。
「ふはは…くくっ…」
なんだよ、約束はおれが守るって。
階下に着くと、丁度ホームに電車が到着したところ。首元まで上げていたジッパーを下ろし、ゆっくり開いたドアに素早く身を滑り込ませる。
今日はおれの誕生日で、恋人と誕生日を一緒に過ごすのがおれの夢だった。その夢は叶わなかったけれど、でも楽しみがちょっと先に伸びただけだって思うことにする。だって叶えてくれるらしいから。『未来の恋人』が。