バラバラになった世界
夕暮れ、とある老人と若者がたき火にあたっていた。汚れた木箱に腰掛けて、たき火を挟んで向かい合っていた。
若者は旅人で、老人はこの近くで暮らしていた。
「あなたは、あの冷戦時代が懐かしいというんですか?」若者は驚いた様子で聞き返した。
「まあ、時々はそう思う、というだけの話だ」
「でも、いつミサイルが飛んできて世界が滅亡するか分からないような、そんな時代だったんでしょう?」
「君は冷戦を知らないからね」老人は静かな口調で答えた。「とはいえ長かったし、私も全てを見たわけじゃないが。まあ、確かにそういう危惧はあった。だが一方で、政治家や外交官がその一歩手前で、事を踏みとどめてくれるだろうとも思っていたよ」
「えらく楽観的ですね」
「事実、そうなって人類は生き延びたわけだ」
老人はため息をつくと、少し背伸びをした。すっかりあたりは暗くなり、空気も冷たくなりはじめていた。
「社会主義と資本主義という、当時はそうした二大圏域に分かれて対立していた。が、それなりに世界に張り合いというものがあったような気もするな。だから人類は月まで人を送り込んだり、たくさんの宇宙探査機を打ち上げたりした。経済も科学も発展した。あるいはインターネットなんていう世界システムをつくるきっかけにもなったんだ」
若者はたき火を眺めながら黙って聞いていた。
「冷戦が終わった後、ついに世界は一つにまとまることができる。そう思った人達は多かっただろう。当時は実際、世界的にもそういう雰囲気だった」
老人はそこで言葉を区切ると、上着のポケットから大事そうにタバコを取り出した。
「君は吸うかね?」
「いえ、身体に悪いですから」若者は首を振った。
「まあ、いずれにしても、冷戦が終わると社会主義圏域だった地域にも資本主義の波が押し寄せて、豊かになったわけだ」
「物質的な豊かさですよね」
「そういう言い方もできるか」
老人は火をつけると、ゆっくりとタバコを吸った。「もっとも、当時の人々が素晴らしく思ったのは情報のやり取りだろう。本当ならば、世界がまとまって行く、きっかけになってもよかったはずだ」
どこか遠くで、鳥かなにか動物の鳴き声が聞こえたような気がした。「私は以前ね、国連で職員として働いていたんだよ」
「そうなんですか?」若者は少々驚いた様子だった。
「ああ、自分は世界の為に働いているんだという、ある種の誇りを持っていたよ」
「ですが、僕の知っている国連は、すでに機能不全の状態に近かったような気がしますけど」
若者が遠慮なく言うのを聞いて、老人は苦笑した。
「まあ、そう思われてもしょうがないかもしれないね。でも、私も他の職員も懸命だったのだよ。あの時はまだ、私も若かったな。多少なりとも正義感に突き動かされていたんだろう」その声にはどこか自嘲気味な響きがあった。
あたりが少し明るくなった。夜空に目をやると廃墟の陰から姿を現した月が見えた。
それから老人は振り向くと、月明かりに照らされた建物に目をやった。電灯の明かりはなく、その建物も廃墟のようだった。
「世界が、こんなことになってしまうなんてね」
老人が懐かしそうに眺めたその廃墟は、かつて国連本部であった場所だった。
世界は、過激なナショナリズムやトライバリズム、熱烈な民族主義に包まれてしまった。それだけではない、組織でも宗教でも、様々な場面で主義主張が対立した。人々は多くの数の、小さなグループに分かれていった。やがて、世界はバラバラになって、些細なことでも互いに争うこととなった。気候変動や食糧難、新興感染症の流行もそれに輪をかけていた。
そして、かつて身を潜めてしまったかに思われていたテロリズムの嵐までもが吹き荒れた。次第に国家も企業も、事態の収拾を図ることが困難になり、組織として成り立たなくなってしまった。そんななか国連本部も、過激な民族主義グループによる標的の一つにされてしまったのだ。若者の指摘したとおり、組織として運用が立ち行かなくなりはじめていたときに受けた、物理的な攻撃は最後の一撃になってしまった。
世界が今どうなっているのか?それを知っている者がいるだろうか?合衆国ですら、この有様であった。想像するのは難くなかった。ニューヨークも、ほとんどが廃墟と化してしまっていた。とりわけ大戦争が起きたわけでもなかったのに。人々の心はすっかり、てんでバラバラになってしまった。
「だが、皮肉なものじゃないかね」
老人は廃墟から少し視線をずらした。その先にはあるモニュメントが残っていた。リボルバー拳銃を模った巨大な銅像で、銃身が不自然に曲げられて結んであるかのようなデザインをしていた。‘非暴力’と‘平和’とをテーマに造られたものだった。
「いろんなものが壊されたが、これが、」
そのとき、どこかで銃声がしたのが分かった。
若者はあたりに視線をやって身構えたが、老人は落ち着いた様子だった。
「やれやれ、」ため息交じりに呟いた。「自警団が巡回してるだけだといいがな」
ただ、老人はさほど身の危険を感じてはいなかった。自警団の人達とは、なるべく懇意にするように心がていた。
それに彼は、この地域では有名人だった。たいていは、頭のおかしい変人と思われていた。このご時世、ぼろぼろになっていても、きちんとスーツと革靴で身を整えようとする人がどこにいるだろうか?そして、毎日きちんと決まった時間に、この国連本部だった廃墟に通っていた。
老人は自分が狂人と思われていたとしても、さほど気にしなかったし、そうしていた方が安全だということも学んでいた。こんな老人をわざわざ攻撃しようなどという、もの好きはこの辺りにはいなかった。
「僕はそろそろ、行くことにします」
若者は静かに言うと、腰を上げた。
「そうかい?」
「どのみち僕は他所者ですからね。もし見つかったら、下手をすると捕まって殺されるかもしれません」
それを聞いた老人は小さく笑った。
「かもしれんな。自警団には気性の荒い奴が一人いるからね」
若者は黙ったまま荷物を確かめた。その、すっかりくたびれたようすのバックパックを背負うと歩き出そうとした。
「人もそうだが、」老人は若者の後姿に声をかけた。「野生動物にも気をつけなさい。ここももう都市ではないのだから」
「ご忠告をどうも」
若者は振り向かずにそれだけ言うと、暗がりに消えていった。
老人はしばらくのあいだ、たき火をぼんやりと眺めていた。反対側の通りから、自警団の聞き覚えのある声が近づいていた。