名にしおう花は盛りに (四)
「なっ、なっ、なっ……!」
男は突然現れた炎に仰天して腰を抜かしてしまった。
天に届くかの勢いで燃え盛る青い炎の柱は、山茱萸の近くまで届いたが不思議と熱くはなかった。
「あ、あわわわわわ……」
尻で土を擦りながら後退していく男は、山茱萸の上衣を必死につかみ寄せようとしたが、当の子どもはぴくりとも動かない。
「お、おい……」
やがて青白い火の粉が闇に溶けていき、静寂の中に身を滑らせたときにはもう、山茱萸の主が彫像のように立ち現れていた。
「サン!」
「みさおさま……」
思わず駆け寄ろうとして、その顔の険しいことに気づく。
「どうした?」
そんな山茱萸に、深山青の表情は更に固くなっていく。
「…………」
だが、いくら東の国主が環姫のことになると冷静さを失うと言っても、そこは元々思慮深い御仁である。すぐに表情を和らげようと小さく息を吸った。
他でもない己の刺々しい声を受けて、身を竦める子どもが痛ましい。
「サン」
優しく名を呼んでやると、彼の小さな環姫は瞼を震わせながら見上げてきた。
「ごめんなさい」
「ああ」
「ぼく……帰っても、いいですか?」
そのことばに瞠目する。どういう意味だ?と荒々しく詰りそうな己を必死に押し止めて、深山青はあくまでも落ち着いた声で、「ああ」と返してやる。
「ぼく。帰りたい」
そう言って泣き出す子を、追い出すはずもないのに。
深山青はいつものように手のひらを見せながら山茱萸へと伸ばした。
「サン、来よ」
もう目を開けられなかった。盲目的に足を動かしたが、すぐに温かい腕で抱きかかえられる。ふわりと宙に浮く心地がして、再び瞼を開けると眼下に主の端麗な顔があった。
「みさおさま」
「急にいなくなるな。心配する」
「……はい。ごめんなさい」
「サン、これからは日が沈む前には戻ってくるのだぞ。さもなくばお前の影を悪い魔物が食べてしまうからな」
「はい」
素直に返事をする山茱萸の声を聞きながら、地面に平伏していた男は脂汗を垂らしながら、子の身を守る注意の出どころを知った。
こ、これか……。
「お主」
「は、ははっ」
さすがに、男も目の前の人物が誰かはわかっている。声をかけられて、ますます額をこすりつけるように頭を下げると、
「この子が世話になったようだな。礼を言う」
「め、めっそうもねえっ!ことで……ございます」
体が熱くなったり寒くなったりして、胃まできりきり痛んできた。
「みさおさま、これ……」
小さな手が差し出したのは、銀色に光る筒。
「ん? 万華鏡か? これを買いに来たのか?」
「はい……。みさおさまにあげようと思って」
「我に?」
「もうすぐ、王さまになった記念日があるからって、聞いて……」
今年は深山青が即位してちょうど百年目に当たる。確かに近く盛大な祭りが執り行われることになっているが。
「贈りものをするんだって……みんなが、言ってて」
それで、なにか差し上げたくて。
「サン、嬉しいぞ」
「……ほんと?」
「ああ。お前が我を思ってくれる心が嬉しいのだ」
そうして深山青はそっと万華鏡を手に取った。彼がつかむとほんとうに小さく儚げに映る。
でも……。
山茱萸は思う。
ほんとうは、青のが欲しかったんです。
青のが……。
「サン、きれいだぞ。覗いてみよ」
「…………はい」
言われて、目元をこすってそっと覗いてみた。
……あっ。サンは大きな口を開けて、思わず叫びだしそうになった。
青い! 昼間見たものより、ずっとずっときれいな青が……。
どうして? どうして?
深山青はゆっくりと筒を回してやりながら、笑った。
「ああ、サン、お主の黒い目がきらきら輝いていて美しいぞ」
「え……ぼくの?」
深山青の片目は閉じられている。山茱萸はもう一度穴の中へ世界を移動させた。
やはり青だ。
色とりどりの青い花が咲き誇っている。次々に形を変えて、惜しむ間もなくすぐ新しい花を咲かせた。
山茱萸はすっかり嬉しい気持ちになって主に抱きついた。瞼を下ろしても、その色はなお鮮やかに刻みつけられている。
みさおさまの青……。
それは春の月が見せた束の間の幻だったのか。
それは紫の雲がたなびき、月光の下、国主が環姫と見つめあっている、そんな夜の平和なお話。
「サン、どうした? この衣は……」
「え?」
ふと自分を見下ろして、気づいた。着せられたままになっている服。返さないと、と思って見渡しても、男はとっくに姿を消した後だった。大仰に退出の断りを入れて逃げるように去っていったのに気づかなかったらしい。
「みさおさま。ぼく、はじめて仕事をしたんです」
「……なんだと」
「お客さまがたくさん来て、疲れたけど楽しかったです」
そう言って笑う環姫は、どう見ても子どもなのだが……。
この忌々しい衣を剥いで、すぐに確かめたい衝動にかられたが、なけなしの理性でぐっと押し止める。
「帰るぞ」
「はい」
ふたりが去った町を更に奥に行くと、ぼんやりと灯りに浮かぶ界隈がある。花粉を撒くように光を映す衣が、ひらひらひらひら揺れていた。
人々はそこで春を買うのだが。
もちろん、東の国主さまはもう本物の春を手に入れている。
了