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名にしおう花は盛りに (三)

 はあ、はあ、はあ。


 息が切れ、胸で太鼓が鳴っている。


 もう日は町を照らしていない。すっかり暗くなった道で、幼子は立ちすくんでいた。


 店は閉まっていた。あれだけの喧騒が幻だったかのように、辺りは人もまばらでしんと静まり返っている。


「…………」


 呆然と見ていると、背後から足音が近づいてくるのがわかった。


 期待を込めた目で後ろに視線を移すと、見慣れた顔に出会う。


「あれ? 閉まってんのか? 買えなかったか」


「……はい」


 男は気まずそうに山茱萸さんしゅゆを見やった。


 終わるのが遅くなった自覚はある。しかし、今日はやけに店じまいが早い。いつもならこの時間でも半分以上は灯りを入れて客を呼んでいるのに。


「悪かったな。まあ、明日また来いや。そんで暇だったら手伝ってくれな。給金ははずんでやるぞ」


「……いいえ」


 山茱萸は首を振った。


 今日一日主に会えなかっただけでこんなに辛いのに、明日もなんて耐えられそうにもなかった。


「帰ります」


「そうか」


 男がそう返したときだった。通りの向こうから子どもの泣き声が聞こえてきて、すぐに母親らしき女の怒鳴り声が響く。


「こんな遅くまでなにやってんだい! そんな悪い子はもう帰ってこなくていいよ! いつまででも遊んでればいいだろ?」


 それに重なるように何度も何度も謝罪のことばが涙混じりに流れてきて……、扉の閉まる音と共にまた静寂が夜の街を覆う。


「……悪い子……?」


 山茱萸には自覚がない。己の行動がどれほど周りに影響を与えているかなど考えにも及ばないのだ。黙って姿を消して、主がどれほど心を痛めているのかも。


 今の親子の会話は衝撃的で、山茱萸はようやく今、夜の町でひとりでいることの重大さを考え始めていた。


 そう言えば……いつもは部屋にいても庭にいても主が見つけてくれて、「サン」と腕を広げて抱きしめてくれるのに。急に不安になる。


「あ、あの、ぼく……あっちに行きたいんですが……」


 震える指先で館の方角を指すと、男は肩を竦めた。


「おいおい、夜にあそこに近づけばどうなるかわかってんのか。怖い兵隊がうようよいて、お前さんなんか槍で突かれて泣かされちまうぞ」


「え……」


 視界が歪む。


 もう一日離れるだけで身が千切れそうなのに、帰れないなんて、思わなかった。


「ぼく……どうしよう。ぼく……」


 急に泣き出した子どもに、男はぎょっとして身を固まらせてしまった。


「お、おい……泣くなよ。まいったな……」


 荷を下ろして、腕の持って行き場に困りながら「うー」とか「あー」とか呻いていた。が、急になにかを見つけて声を張り上げた。


「あっ! ちょ、ちょっと待っとけ!! おい、おーい! 旦那!」


「…………」


 走り出した男を目で追うと、薄暗闇の中でいくつかの人影が見える。


「おい! こっち来てみろ!」


 呼ばれて、足を踏み出したが、男が残した荷物を抱え直して小走りに向かった。


「あ、すまねえな。ほら、これ、これだろ?」


 荷を渡して、男の手の先を見ると、昼間見た筒がいくつか袋に入っている。


「あ……」


 目を輝かせた子を覚えていたようで、店主は笑った。


「ああ、昼間の子か。どうした。お金をもらってきたのか?」


「お金……持ってます。これ……」


 山茱萸が大事そうに手のひらを広げると、すぐさま「ああ」と落胆にも似たため息が落ちてきた。


「これじゃない。これは銅銭だろ? 銅貨だよ。銅貨十七枚」


「え」


 思いもしない展開に、山茱萸は手元を見つめた。同じ……茶色いお金なのに。


「なんだって? ふざけんなよ、爺。こんなの銅貨1枚だって詐欺だぜ」


「な、何を言うっ」


「この子のようすを見てふっかけたい気持ちはわからんでもないがな。冷静に考えろよ。どう見てもいい家の娘だ。おっさんもよう、あとで痛い思いはしたくねえだろ?」


 男が言うと、老人は明らかに動揺し始めて、渋々袋の中から万華鏡を一本取り出した。


「……しかたないの。ほれ、持っていきなさい」


 渡されたのは、鈍く光る銀の筒。


「ぼく……青いのが……」


「青はとっくに売り切れちまったよ。ここがどこの国だと思ってんだ。めでたい色はそう残らんよ」


「…………」


 山茱萸は戸惑いながら手のひらから金を摘まんでいく荒れた指先を見つめていた。


「ほれ、こんなに安く売ることはないんじゃぞ」


「はい。……ありがとうございます」


 うつむいて、ぺこりと頭を下げた。老人からはかすかに酒の臭いがする。男を見た。悪戯っ子のように笑っている。


 山茱萸はもう一度手の中に視線を戻した。


「それは特別なんじゃ。穴が両側に空いていて、どちらからでも見れるようになっとる。お前さんが欲しがってたのより倍はするもんじゃ……」


 言われてみると、買おうとしていたものよりやや小ぶりで、硝子のはめこんだようすも少し品がよい。


 でも……と山茱萸は悲しげに筒をぎゅっと握りしめた。





「おい、よかったな。爺さん酔っ払って……ありゃあ明日我に返って発狂するかもな」


 きひひ……と笑いかける男に、山茱萸はただ小さくうなずくことしかできなかった。


「ほら、もう遅いから帰りな」


「……はい」


「なら送ってってやる。どこだ? 家は」


「家は……もしかしたら、入れてくれないかも……」


「え? なんでだ。怒られんのか? まさか勝手に出てきたわけじゃねえんだろ?」


「勝手に……?」


「なにも言わずに町に下りてきたわけじゃあるまい」


 山茱萸の顔からさっと色が無くなる。


 だめ……なの? 勝手に出てきたら。じゃあ……じゃあ……。


 忘れていたものがまたじわりと生まれてくる。


 だめ、だめ。泣いたら叱られる。


 でも、今はその叱ってくれる人が傍にいなかった。


 心細くて、心細くて……。


 そんな子どもに、男は躊躇いがちに声をかける。


「行くところないのか……? あーー、よかったら、俺のとこ来るか?」


 自分にこの手の趣味はないはずだが……と心中の葛藤を知ってか知らずか、山茱萸はやはりゆっくりと首を振った。


「帰りたい」


 春とは言え、夜も更ければ冷え込んでくる。


「帰りたいよう……」


 ぽろりと溜まった雫が地面を濡らしたとき、目の前で青い炎が燃え上がった。

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