名にしおう花は盛りに (二)
山茱萸になにか考えがあるわけではない。
道筋に並ぶ店をつぶさに観察しながら歩いた。どの店でも、やはり丸い金属を受け取って商品を渡している。
やっぱり、ああいうのが必要なんだ……。
進みながら、だんだん足取りが重くなっていく。
飛び出して来たはいいものの、山茱萸は今なにも持たない。どこからか甘い香りが漂ってきて、目の前に蜂蜜をたっぷり使った焼き菓子が並べられていても、それに手を出すことはできないなど奇妙な感じがした。
「サン」
呼ばれた気がして、急いで振り返る。
だが、目当ての人物はどこにもいない。
「……ふ……えっ」
目いっぱい膨らんだ風船が、見る見るしぼんでいくみたいに。山茱萸は袖で目元を拭った。
みさおさま、これお祝いです。
ぼく、ひとりで見つけてきたんです。
みさおさま、これ……。
山茱萸はとうとう歩を止めてしまった。
ありがとう、と笑う主の顔がぼやけていって、やがて黒い霧に飲み込まれてしまった。
「おい、嬢ちゃん、商売の邪魔だよ」
怒鳴るように言われて、はっと顔を上げた。
驚いたのは相手のようで、
「おいおいおいおい……迷子か?」
まいったな、と頭を乱暴にかき回した。見た目は、主よりも年上に見える。しかしどこか愛嬌のある大きな目が少し垂れていて、思慮深さとか落ち着きとかそういったものが感じられない。
山茱萸は首を振った。
「ぼく……光る筒が欲しくて……」
「筒ぅ?」
「は、はい……あっちで売ってる……お花の」
「ああ、あれか。また妙なもんが流行りだしたよな。……おっと、とりあえずこっち来い」
ぬっと伸びてきた手に腕を取られて、山茱萸は男の隣に座らせられた。また急に人が増えてきたようで、あのまま突っ立っていれば押し潰されていたかもしれない。
どうやら、男は服を売っているらしかった。ひらひらしていて透けていて薄い布が光っている。道を行く人はこんなに派手な衣装を誰もまとってはいない。
物珍しげにきょろきょろ見回していると、頭上から男が苦笑しているようだった。
「見るの初めてか」
「はい。きらきらしててきれいです」
「そうか」
にやりと笑って、で?と視線を投げられる。山茱萸は戸惑ったように首をかしげた。
「買うものも決まっているし、店の場所もわかっている。なんでこんなところで途方に暮れてんだ」
「あ……ぼく……茶色いのがなくて……」
「茶色?」
まじまじと山茱萸の顔を覗き込みながら、ああ、とうなずいた。
「銅銭のことだな。なんだ、金も持たないで出てきたのか」
「はい」
素直に返事をすると、男はふと山茱萸の衣に触れる。
「こりゃあ、絹だな。それもめったに見ない上物だぞ。これを売ったらいい金になると思うがな。どうだ?」
よほど感心しているのか、その容赦ない手の動きで山茱萸は体をぐらぐらと揺らされ、気分が悪くなりそうになった。
「だめです。脱ぐのは、だめです。風邪をひくので怒られます」
「……風邪ぇ?」
冬もとうに明け、最近快晴続きだった。特に今日はひどく暖かい。薄っすら汗までかいているくらいなのに。
男は釈然としないものを感じながらも、目ざとく首筋の宝石を確認した。
「おっ、この首飾りだったら、銀もいけるかもしれんぞ」
「えっ」
山茱萸は驚いて身をよじった。
「だ、だめです。これは、大切なものだから」
そう言って必死に首元を手で覆い隠した。
「なんだなんだ、金はねえが売るのも嫌だってのか。馬鹿にしてやがる」
けっ、と吐くように言われて、山茱萸は怯えた瞳を向けた。
「お、怒りますか」
「……勝手にしろや。なんの苦労もしたことねえんだろうな。お前は俺たちを見下してんだよ」
怒鳴ってから、男はすぐに顔をしかめた。子ども相手になにをむきになってんだか……、眼下の大きな黒い目が濡れてきたのを認めて、ますます落ち込んだ。
「……悪い。気にすんな。で? どうすんだよ。こんな陽気だ、やっぱり上衣の1枚くらい売っぱらっちまったらどうだ」
「……脱ぐのはだめです。ごめんなさい。風邪をひくので」
「風邪をひくったって……」
「でも……だめです。他の人の前で着替えてはいけないと言われました」
そこまで言われて、ははーんと男にもだいたいの事情が飲み込めてきた。
要するに、この子の家では身の危険を回避させようといろいろ理由をつけて注意しているのだろう。これくらいの年齢であれば性的な身の危険を諭されても理解できないだろうし、するとやはり大切に育てられている令嬢なのだ。
「それにしても、嬢ちゃん、『ぼく』ってのは感心できねえな。女の子だろう?」
「え? あ、いいえ、ぼく……おとこです。おとこのこです」
ふうん、と相づちは打ったものの、まったく信じてはいなかった。それも家の人から言わされてるんだろうな、と思ったからである。
が、その心配はわからないでもない。こんなに白い透き通るような肌と、こんなに艶めいた漆黒の髪など見たことがなかった。唇は桜の実を丁寧にすり潰して色づけたようであったし、なにより笑い顔が可愛い。
……あまり見ないほうがよさそうだ。
つ、と視線を外して、男は言った。
「じゃ、どうだ? しばらく俺の店を手伝ってくれよ。夕方まで頑張ってくれたら、そうだな、銅銭三十枚をやるぞ」
「え?」
突然の申し出に、山茱萸は口をぽかんと開けて男を見上げた。なぜかすぐに顔を背けられてしまったけれど、悪い人じゃない気がする。
それに、三十枚……。
確か、十七枚必要なのだから、じゅうぶん足りる。もしかしたら他にもなにか買えるかもしれない。山茱萸は何度も首を縦に振った。
「はい! ぼく、お手伝いします。なんでもします」
そうか、と男は笑って、でも、なんでもするってのは言わないほうがいいぞ?と言われた。どうしてかわからなかったけれど、笑ってうなずいた。
脱ぐのはだめだが、これならいいだろう?と上から光る布を着せられた。
ふわふわ風に揺れて、まるで蝶になったみたいだ、とはしゃいでいると複雑そうな顔をされてしまったが。
なぜか山茱萸がよたよたと店の前を歩いていると、急に客が集まってくる。男の人もいれば女の人もいて、老人が来たと思ったら後ろから若者が続く。
山茱萸はわけがわからないながらも懸命に動き回った。服を袋に入れたり、お金を手渡したり、男に指示されることを手際よくとまではいかなくともなんでも素直に従った。
たまに理解不能な質問をされると、困ったように笑って男に助けを求めた。
「おい、その子は今日特別に手伝ってもらってんだからな。おいそれと触ったりするとあとでどんな目に合うかわかりゃしないぜ」
と低い声が飛んでくる。そうすると皆諦めたように店を離れていった。
「おおー、すげえ! こんなに売れたのは初めてだ」
日も暮れかかったとき、昼には隙間なく並べられていた服があらかた消えていた。
「信じられねえ。おい、助かったぜ」
喜色満面で品を袋に詰め、金を数え始めた。
おとなしくそのようすを見守っていると、「ほら、お前の分だ」と銅の硬貨を手のひらいっぱいに盛られた。
「わあ」
あまりの量に、山茱萸は目を白黒させている。男の真似をして、一枚一枚丁寧に数えてみると、三十七枚もある。
「あれ? 多いです。これ……」
訴えると、男は豪快に笑った。
「いいんだよ、今日は予想以上の売れ行きだったからな。おまけだぞ」
「わあ……ありがとうございます」
じわじわと金属が己の体温で温まっていくのがわかった。つんと鼻をさすような臭いがしたけれど今は気にならない。
仕事の報酬として金銭を受け取ったのは初めてのことで、興奮気味に男を見つめた。
「ほら、買いに行けよ。店閉まっちまうぞ」
言われて、慌てて立ち上がる。
「あの……ありがとうございました」
「いいから。早く行け。また通りがかったら声かけてくれよ」
「はい」
山茱萸は腰を真っ二つに折るような礼をして、走り出した。
その背中を見送りながら、男が切なげにため息をついたことを山茱萸は知らない。