名にしおう花は盛りに (一)
「東方に座す」(東の国・壱)の番外編です。
【もとはHPのキリリク小説】
「サンがいない?」
東の国主の動揺を表した腕は、あえなく整えられようとした膳に当たり、箸や椀が支えを失う。
からからと床を叩く音がして、やがて静かになったときには主はすでに廊下を急いでいた。
「どういうことだ?」
「……いやはや……どうやら……どこにもいらっしゃらないようで」
逃げた?
まさか。
深山青にはにわかに信じ難い。
汗を拭きながらついて来る蘇芳を気にかける余裕も捨て、それこそ飛びかからん勢いで日が差し込む寝室に入る。
もちろん、彼の環姫はいない。敷き布の皺はそのままに、あの小さく可憐な笑顔だけが風景からぽっかりと切り取られていた。
「…………」
愕然とした。
山茱萸の気配が感じられない。国主たる彼が、環姫を見失うはずがない。常ならばあり得べくもないのだ。
これは、環姫が自ずから身を隠したことを意味し、そのことに深山青は血の気を引かせたのだった。
さて、そのころ。
山茱萸は町に下りていた。
はなから工作などできる子ではない。その足取りたるや堂々としたもので、にこにこと笑いながら館を出ていた。
もしもたったひとりで行動していたのならばさすがに無理だったろうが、金色の首輪をつけた青い牛に跨って楽しそうに門を通るものだから、国主は当然のこと公認であり、どこからか見張りをつけているのだろうと皆思い込んでしまった。
「行ってきます」
との声に、手を振り返さなかった者はいない。
噂に名高い美姫を目の当たりにして、眼福を楽しんだものである。環姫失踪の報が駆け巡るまでのほんのわずかなあいだではあったが。
館から町までは長い一本道を越えねばならぬ。山茱萸は牛を急かすでもなく悠々と進んだ。程なく最後の大門に辿り着き、見張りの兵士が近づいてくるのを待つ。
「わ……っ、環姫さま?」
じかに声をかけるのは初めてだったが、遠目で幾度か見たことがある。まだ若い兵は緊張で顔を真っ赤にさせながら聞いた。
「ま、町に行かれるのですか?」
「はい」
「おひとりで……?」
「いいえ」
若者はきょろきょろと辺りを見回した。下級兵である彼には、そのどう見ても土と草と風しかない空間が、ほんとうは見張る者も潜む者もいないにも関わらず、そのままの状態として受け止める勇気を持ち得なかった。
自分にはわからないが、きっと多くの方々が環姫さまをお守りしているのだ、と思い込むほうが楽だったのである。
そういった調子で山茱萸はとうとう最後の門も通過してしまった。
牛から降り、ひとりになって……つまり山茱萸は牛をも一員と捉えていたわけだが……、歩き始めた。
「ふわあ……」
雑踏に、体がよろける。
布を被って口元も覆った。今は大きな黒目だけがきらきらと曝け出されている。危なげに進む美しい子に、しばしば振り返る輩もあった。しかしまさかこの子どもこそ、東の国主が溺愛する環姫その人だとは誰が想像できただろう。
「あっ」
町の中心部に足早に近づいて、山茱萸は目当てのものを見つけた。
東の名物であるからくりの屋台街だ。
昨夜、侍女たちが集まっていて、その輪の中に鎮座していたものを、山茱萸は偶然露台の上から見つけた。環姫の視線に気づくと、彼女たちは慌てて散らばってしまい、結局「見せて」と言うことができなかった。あとで世話役の少女に訊ねると、この屋台街のことを教えてくれたのだ。
東の民であれば周知の場所なので、反対に山茱萸がなにも知らなかったことに少女は驚いていたようだった。
山茱萸はちらりと見た物体が忘れられなかった。小さな硝子が埋められてあって、日に当たって小さな光を反射していた。
「あ……ごめ、なさい。通して……」
人に押しつぶされそうになりながらも、ひときわ人だかりのある店に気づいて懸命に人の波を潜った。
「……あ……」
そこには色とりどりの光る筒が所狭しと置かれてあった。まさしく探していた代物である。よく見れば、やはり宝石とは違って輝きは鈍いし、玩具めいた雑な作りに変わりはなかったが、山茱萸は気にならない。
ふと、老練なる店主が山茱萸に目を留める。上質の絹の布を被った子どもは嫌でも目立った。垢などないすべすべした白い手を確認すると、優しげに声をかける。
「お嬢ちゃん、お買い物かい?」
「は、はい」
話しかけられて驚いたのか、大きな目が見開かれて、目の前の硝子玉が映ったそれは満天の夜空をも感じさせる。店主はますます有頂天になって、すぐ傍の筒をそっと差し出した。
「ほら、覗いてごらんな」
「え」
勢いよく手渡されたものを、しばらく手の中で見つめて、やがておずおずと上に開いた穴に瞳を近づけた。昨日、少女たちが代わる代わるおこなっていた振る舞い。いったい、あの筒の中にはなにが入っているんだろう、と眠れなかった。
「……わ……あ」
知らず笑みが広がる。目の前で硝子でできた花が咲いている。その美しさに見惚れていると、
「ほら、こうやってゆっくり筒を回すんだよ」
と底のほうからくるりと動かされた。
すると……、
「……あ」
いくつもの花が形を変え、すぐまた生まれる。それらはすべて違う形をしていて、二度とまったく同じ花を見ることはないようだった。山茱萸はますます興奮して、夢中で筒を回した。
「気に入ったかい?」
「はい」
ようやく顔から引き剥がすと、目の前では争うように花の筒が人の手に渡っていく。
「これは万華鏡ってんだよ、お嬢ちゃん。めずらしいかい?」
店主は慣れた調子で客をさばきながら、山茱萸には気を配った。明らかに一般の庶民とは空気が違う。扱いが丁重になるのも当たり前のことなのだろう。
「はい」
こんなものを見たのは初めてだった。
筒をくるくる手元で回すと色々な花が形を変えて踊る。
こんなきれいなものをあげたら、みさおさまはどれくらい驚くだろう!と小さな胸をいっぱいにして、老人に慌てて言った。
「ぼ、ぼく、この青いのが欲しいです」
「お、それか。いいのを選んだなあ。銅貨十七枚だよ」
ごつごつした手を差し出されて、山茱萸は困惑したように見つめた。
「えっと……」
「ん? もしかして金がないのかね?」
こくこくとうなずくと、
「じゃあ、今度は家の人を連れてくるんだよ」
と優しく手の中の万華鏡を取り上げられた。
「あ……」
か細い山茱萸の声が途切れると同時に、その細い身は後ろから押し寄せる人波にさらわれるようにして店の外に追いやられてしまった。
「……どうか、じゅうななまい……」
そう言えば、と筒と引き換えにされていた茶色の物体を思い出す。
あれが、「どうか」というもので、十七枚必要なのだ。
「……」
少し考えるようにその場に佇んでいたが、やがて山茱萸は人の山を離れ、更に通りの奥へと足を運んでいった。