クノッヘン伯爵の物語
「うわああ……!?」
扉を開くと、私の目に開けた景色が飛び込んできた。
蒼い扉の向こうに広がっていたのは、なんと見渡す限りの大平原だった。
ゆるやかに広がる丘の上。それを埋め尽くすように生えた若草が、時折吹く暖かな風に乗って私の足元を撫でていく。頭上では地平線の彼方まで、目を細めたくなるような青い空が眩しく光る。その空のあちらこちらに、「それぞれ自由行動を取りました」、と言った感じに散らばった白い雲が浮かんでいた。
「うわあああ……!?」
私は口を大きく開けて、もう一度、なんとも間抜けな声を上げた。
全く予想もしていなかった目の前の風景が、信じられなかった。
私は確かに、さっきまで住宅街の一角にいたはずなのに。
こんな広い空間が、一体どう言う理屈で、家と家の狭い隙間の先に広がっていると言うのだろう? 夢でも見てるのだろうか? 私は両手で目を擦った。
「ミャオン」
と一声鳴いて、先ほどの猫が私の足元にすり寄ってきた。
「こっちよ」
惚けている私に、右横から声が飛んできた。いつの間にかそちらに移動していた女性が、私と目を合わせてほほ笑んだ。私は三度口をポカンと開けた。
そこにあったのは、なんとも場違いな、バーのカウンターであった。カウンターの向こうでエプロン姿の女性がひじをついて、両手で顔を支えにこにこと私を見ている。その後ろには棚があって、たくさんのお酒が所狭しと並べられていた。
草原のど真ん中に、お洒落なカクテルの一つでも出しそうな、バーのカウンター。
よく見ると、地面にはその部分にだけ四角く木の床が敷き詰められている。まるでどこかから空間を切り取って持ってきたかのようだ。
「いらっしゃい。古書・黒猫屋にようこそ!」
「…………」
「ささ。座って座って」
人懐っこそうな笑みを浮かべて、女性が私を手招きした。何がなんだか、さっぱり分からない。私は誘導されるがままに、ふらふらとカウンターに歩み寄った。ちょっと高めの位置にある、回転式の椅子に座ると、ふわりと紅茶の匂いが漂ってきた。
「ミルクティーで良かったかしら? お菓子は何が好き?」
「あの……えっと……」
目の前に、小さなお皿に乗ったカップがことりと置かれた。カウンターの中で踊るように動き回り始めた女性に、私はおずおずと話しかけた。
「ここは一体……?」
「ここは、古書店よ。古書・黒猫屋。読み聞かせをするお店なの」
「読み聞かせ……?」
穏やかな風が吹いてきて、草木のざわめきとともに、私の髪を梳いていった。
「そうよ。私はここの店主」
「…………」
「じゃあ、早速始めましょうか」
店の主だと言う淡いピンクのシャツの女性が、奥から椅子を持ってきて、カウンターの中で腰掛けた。その手には、背表紙に紅い宝石の施された、古文書のような分厚い本が握られている。何もかも想定外の出来事に、私は面食らったまま、辺りをキョロキョロ見渡した。
どう見ても、私は今、外にいる。
部屋の中ではない。遠くにそびえ立つ灯台の近くで、一羽の大きな鳥が、気持ち良さそうに空を泳いでいるのが見えた。
私は視線を戻した。鼻をくすぐる淹れたての紅茶に、チョコチップクッキー。足元を撫でる黒猫。読み聞かせをすると言う女性……。
「パン、食べてもいいわよ」
「あ……はい、どうも」
彼女が私の抱えていた紙袋を指差した。私は急に家のことを思い出した。
早く帰らないと、お昼に間に合わないかもしれない。
だけどここまで来たらなんだか断りにくいし、キリのいいところで、切り上げて帰ろう。
そう思い、私は諦めて椅子に深く腰を下ろした。
「じゃ、行くわよ。『昔々、あるところに、クノッヘン伯爵と言う人がいました……』」
私がカップに手を伸ばすのを見て、女性がゆっくりと話し始めた。
□□□
クノッヘン伯爵は、遠い外国に住む貴族だった。
彼の生涯は順風満帆で、愛する者に恵まれ、名声に巨万の富も得ていたが、ある日、妻を不慮の事故で失った。ショックを受けた彼は、それまでの威風堂々とした態度も鳴りを潜め、やがて彼は誰にも行き先を知らせず、人里離れた土地へ隠居することにした。晩年は誰とも会うことなく、その後彼の姿を見たものは誰もいないのだと言う。
だがこの話には続きがあった。
「クノッヘン伯爵の財産の一部は、誰にも継がれることなく眠ったままなの。あれほど巨万の富を得ていたのに、空っぽになった彼の家の中に残された財産はわずかだった。周りは、彼が自分の財産を持ち運びやすいものに変えて、隠居する時に持っていったんじゃないかってウワサしたわ」
「…………」
「『彼は以前、友人たちに”老後はどこか遠い国の、広々とした草原に立つ塔にでも引っ越して、妻と一緒にのんびりと暮らしたい”と語っていた。ウワサを聞きつけた周りは、伯爵の財宝を探したけれど、見つけたものはとうとういなかった。今でも彼の財宝は、どこか遠くの草原にそびえ立つ塔に隠されているに違いない……』」
「…………」
そこまで読むと、彼女はパタンと本を閉じた。私はミルクティーを一口飲み込んだ。カウンターには、食べかけのブルーベリーパイがお皿に置かれている。
「時間は大丈夫?」
「え? ええ……」
そう言われて、私は腕時計を覗き込んだ。まだ大丈夫だ。
「ね? ユキちゃんはもし財宝が手に入ったら、何する?」
「え?」
カウンターの奥から、女性が目をキラキラさせながら身を乗り出して来た。私、いつの間にかこの人に名前を名乗っただろうか? 微かな疑問が頭をかすめながらも、私はブルーベリーパイに手を伸ばしながら答えた。
「そうですね……。欲しい服とか、バッグを買って……」
「ふふ」
女性が楽しそうに笑った。先ほどまで足元で寝ていた黒猫が、カウンターに飛び乗って来て、食べかけのパイを興味深かそうに見つめ匂いを嗅いだ。
「楽しみね」
「え?」
「じゃあ、行って見ましょうか」
彼女はそう言うと、カウンターから出て来た。私はその姿を目で追いながら、ぽかんと口を開けた。
「あの……行くって、どこへ?」
私は彼女の視線を追って、後ろを振り返った。
見渡す限りの大草原が、私の視界に飛び込んで来た。
向こうの方で大きな鳥が、遠くに立つ灯台の周りをぐるぐると飛んでいる。
私は店主に視線を戻した。エプロン姿の彼女はその端正な横顔に笑みを浮かべ、草原に立つ灯台を指差した。
「決まってるじゃない。クノッヘン伯爵の財宝を探しに、よ」