古書・黒猫屋
通っている中学校へ向かう道とは逆方向に、緩やかな斜面が広がっていて、そこにレンガ屋根の家が立ち並ぶ大通りがある。
私はお気に入りのキャペリンハットを手に狭苦しい木造アパートを飛び出し、階段を降りて正面の赤い郵便ポストを左に曲がった。ところどころ雑草が顔を出している、ひび割れたコンクリートの道を少し歩くと、向こうにレンガ屋根がちょこんと姿を現し始めた。狭い路地を抜け、やや坂道を登ると、やがて車四台分くらいの大通りが目の前に広がった。
休日ということもあり、両脇の歩道には買い物帰りの主婦や家族連れで賑わっている。上を見上げると、電信柱をつなぐケーブルにスズメやカラスが止まり、道行く人々を歌いながら見送っていた。晴れ渡る青空に浮かぶ、眩しすぎるほどの太陽に目を細めながら、私は思わず顔がほころぶのを感じた。
毎週末に、この大通りの途中にあるベーカリーで買い物するのが、私の最近のマイブームだった。特に人気のブルーベリーパイは一日限定十五個なので、早めに買っておかないと食べられないのだ。私は迅る気持ちを抑え、淡い緑のスカートを翻しながら、人混みの間を縫うように走り始めた。
□□□
「ありがとうございましたー!」
店員さんの元気な声に背中を押され、私は両手いっぱいに紙袋を抱えベーカリーを後にした。
目的だったブルーベリーパイは、しっかり家族分四個確保。それにレモンクロワッサン四個と、明太フランスパンに、お父さんと弟が好きなステーキ=キドニーパイを一つづつ……余ったお金で自分用に買ったメロンパンを頬張りながら、私は気分も上々に来た道を登り始めた。
信号機が赤から青に変わり、ベビーカーを押す家族と一緒に横断歩道を渡ろうとした、その時だった。
「あっ」
私は思わず声をあげた。
突然やって来た追い風が、私の頭からキャペリンハットをさらっていったのだ。ふわり、と宙に舞い上がり、道路の向こうの曲がり角に吸い込まれて行こうとする帽子を、私は慌てて追いかけた。
「待って……!」
ずっと狙ってたブランドを、こないだのネットオークションでやっと手に入れたやつ。一度風に舞った紺のリボンを巻いたキャペリンは、スタイリッシュな見た目に反して気難しい子なのか、なかなか地面に着地しようとしなかった。なけなしのお小遣いで買った帽子を追って、私は大通りを外れ人気の少ない裏路地へと迷い込んでいった。
「ちょっと……!」
右に左に、キャペリンはさらに奥へ奥へと飛んで行く。
大通りを外れた路地は複雑に入り組んでいて、進む度に路地は先細り、両脇に聳えるレンガ屋根の家の群れで、どんどん空は狭くなっていった。私は砂利の上を走りながら、左手で紙袋を抱きかかえた。空いた右手で錆びかけた鉄パイプを掴み、それを軸にぐるっと旋回して曲がり角をのぞき込む。
そこで、私ははたと立ち止まった。
角を曲がった数メートル先の薄暗い路地の奥で、真っ黒な艶のある毛並みの猫が、そのまん丸とした緑色の目で私を見つめていた。
野良猫だろうか?
黒猫の口には、私のキャペリンが咥えられていた。
「あっ」
猫はさっと身を翻すと、目の前の丁字路を右から左へ走り去っていった。
「待って……待ちなさい!」
私は慌てて猫を追いかけた。犬に咥えられて持っていかれるならまだしも、猫だなんて。今まで一度も足を踏み入れたことのないような、もはや名前もよく分からない街の片隅を、私は夢中になって駆け抜けていった。
□□□
「はぁ……はぁ……っ! やっと捕まえた……!」
「ミャオン!!」
私の腕の中で、赤い首輪をつけた小さな黒い塊が闇雲に暴れた。爪で引っ掻かれないように細心の注意を払いながら、私はようやく取り戻したキャペリンを被り直した。
「もう……! 勘弁してよね!」
透き通った緑の両目で私を見つめながら、猫がゴロゴロと喉を鳴らした。猫に言葉は通じないが、こんなに長い距離を走らされては、文句の一つも言いたくなるというものだ。
「ここは……」
乱れた息を整え、地面に置いた紙袋を拾い上げながら、私は辺りをキョロキョロと見渡した。
気がつくと私は、あれ程賑わっていた大通りとはまるで正反対の、静まり返った住宅街に立っていた。家の前の坂道には右にも左にも人の姿は見えず、車の通りもまばらで、全くと言っていいほどない。私は目の前に立つ、二階建ての橙色のレンガ屋根の家を振り返った。芝生。ブランコ。土色の鉢。それから、赤、黄色、白……といった色とりどりの花々が、二階から私を見下ろしていた。
家の窓には全てカーテンが締め切られており、中に人がいるような気配も感じらない。ひんやりとした風に歩道に植えられた木々がそよぎ、ざわざわと不穏な音を立てて私の頭の上で揺らめいた。誰にも見られていないはずなのに、私は妙な寒気に襲われてぶるっと背中を震わせた。
「…………」
私は頬を膨らませて腕の中の小さな生き物をにらんだ。このいたずら小僧のせいで、大通りから遠く離れた見知らぬ場所にまで連れ出されてしまった。だが当の黒猫はというと、私の気持ちはどこ吹く風で、ただ緑色の目を細めては、満足そうに喉をゴロゴロ鳴らすだけだった。
「あら?」
「!」
すると、その時だった。
私が見上げていたレンガ屋根の、隣の家と家の隙間が突然向こうから開き、中から人の顔がにゅっと姿を現した。急に声をかけられ、私は驚きのあまりせっかく捕まえた猫を思わず取り落とした。背中から突き落とされた猫は「ニャオン」と一声鳴くと、空中で体を捻らせ私の足元に見事に着地し、そのまま家と家の隙間に向かって走り出した。
「お客様?」
「え……?」
隙間から現れた顔が、私にほほ笑みかけた。その顔は、女性の顔だった。家と家の隙間にあったのは、多分何も知らなければ誰も気づかず素通りしてしまうような、小さな碧の扉だった。扉の向こうから、見知らぬ人が私に声をかけて来たのだった。
私はその扉の前に立つ女性に目を戻した。背丈は、私より頭一つ上くらい。歳は、私より年上だと思うけど……二十代か、もしかしたらもっと若いのだろうか。整った顔立ちに、派手な主張のない淡いメイクと黒の三つ編みがよく似合っている。女性は駆け寄って来た猫を抱きかかえると、うれしそうに頬ずりしてほほ笑んだ。
「みーちゃん、またお客様連れて来てくれたのね。お利口さん」
「ミャア」
リボン付きの、淡いピンクのワイシャツにエプロン姿という、まるでウェイトレスのような出で立ちの女性が、「みーちゃん」と呼んだ黒猫の鼻を細い人差し指の先でこちょこちょと擦った。先ほどまで私にとっ捕まっていた黒猫は、彼女の腕の中で、気持ち良さそうにとろんと目を細めた。
「初めましてお客様。ようこそ、古書・黒猫屋へ。ささ、中へ」
「え?」
私が戸惑いを隠せないまま突っ立っていると、屈託のない笑顔で、女性が私を手招いた。
その時、ようやく私は碧の扉の上に掲げられた看板に気がついた。
『古書・黒猫屋』
「本屋さん……?」
私は首をかしげた。どうやらここは、『黒猫屋』というお店のようだ。扉の向こうから現れた女性は、この店の従業員なのだろう。古びた木製の看板に書かれたその文字は、銀箔が所々欠けていて、お世辞にも奇麗とは言えなかった。文字の横には、子供の落書きみたいな子猫の絵がちょこんと描かれている。私は妙にその絵に心惹かれて、しばらくその子猫をじっと見つめた。
「早くいらっしゃい。中、風が気持ちいいわよ」
「風?」
私が目を戻すと、エプロン姿の女性は黒猫を腕に抱きかかえたまま、先に碧の扉の奥の階段を登り始めていた。
「…………」
私は扉の奥の暗闇を見つめ、その場で立ち止まり、ゴクリと唾を飲み込んだ。
少しだけ、迷った。聞いたこともない場所にある、見たこともない怪しげな古いお店。迎えてくれた女性は、別に悪い人ではなさそうだが……足を踏み入れるには、少々危険な香りでいっぱいだった。
「どうしたの?」
扉の奥で、女性の声がした。碧の扉が風に揺れ、括り付けられていた小型のランタンがゆらゆらと揺れた。扉が風に押し戻され、ゆっくりと閉まり始めた。
「ミャオン」
黒猫が鳴いた。
気がつくと、私は両手でしっかりと紙袋を抱え、碧の扉の中へと足を踏み入れていた。私の後ろで、扉が音を立てて閉まった。中は思いの外真っ暗で、天井にぶら下がった淡い橙色の光だけが、通路の輪郭を照らしていた。橙が揺れる度、中にいる人影がゆらゆらと揺れた。
「足元、気をつけてね」
「はい……」
薄暗い通路の先で、女性がくすりと笑うのが分かった。私は若干の緊張を隠すこともなく、慎重に暗がりの階段を登り始めた。暗闇の中で、狭い階段をギシギシ鈍い音を立てながら、私は今更ながら少し怖くなって来た。やっぱり……。
やっぱり……足を踏み入れるには、少々危険な香りでいっぱいで……だからこそ、その先にあるものが何なのか、確かめてみたいと思ったのだ。