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第一章 戦禍殺しの少年と第四福音の少女




 






 

 

 その日は春一番の寒さだった。月が隠れる、暗い曇天の夜。月明かりがないだけで夜の不気味さは雲泥の差。街灯があるならまだマシになるが、路地裏ともなれば不気味さは増す一方だ。

 よりによってそんな日に女性は出くわしたのだ、魔物に。

 荒廃区:E―第二十二地区。

 営業案内の書類を他社に届けるのに時間が掛り、家路に着くのに遅くなってしまったスーツ姿の女性。近道に荒れ果てた建物が密集する区の路地裏を利用したのが女性の運の尽き。

 突如出現した魔物。女性は本能のままに逃げた。入り組んだ路地裏を無我夢中で駆け、途中、躓き転び、ゴミ箱に足を取られても逃げるのをやめなかった。

 しかし、足は止まる。女性はただ立ち尽くして目先の事実に身体が小刻みに震えた。

 通行止めの壁は女性を嘲笑うように高く、見下ろしている。上ろうと手を伸ばすが、圧倒的に高い壁を越えるのは無理だと悟った。

「…ニク、ニク。ニグゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!」

 野太く、渇いた雄叫びに女性は再び恐怖を覚え、思わず振り返る。後方数十メートルに魔物の姿が見えた。暗いため、輪郭しか見えないが、確かに居る。

 尻尾があること除けば、人間と大差なかった。皮膚は暗闇の中でも色が判別できるほど、異常に青白かった。

「……う、そ…………」

 不快な気持ちにさせられる魔物。だが、女性が目を引き、蒼白となった原因は魔物とはまた違った物。それは魔物が持つ大きな剣。特徴的なのが、刀身が鮫の歯のように並び、先端が柄の方向に向いている。剣の先端部分は釣り針に似たものが取り付けられている。T型の形をしているため、突きはできない。おそらく、拘束用の剣だろう。

 ここで女性は気付く。先端部分から液体が垂れている。暗くて、どんな色かは分からないが、液体が落ちて地面に触れた瞬間、べったりと付着した。

 ちょうどその時、ある臭いが女性の鼻についた。鉄臭く、なま物が腐ったような臭いが。

「いやァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」

 殺される。喰われる。食われる。

 思考がそう判断した結果、女性は無意味に壁を叩き、無意味に叫んだ。五感の内、すでに視覚と聴覚と嗅覚が狂っている。

 目に見える魔物。耳に聞こえる雄叫び。鼻が嗅ぎ分けた惨い臭い。

 それらの要素が女性を狂わせ、発狂させた。

「いやいあやァァ!! 誰か誰か誰か誰か誰か誰か! 助けてぇ、助けてェェ………!!」

 打ち萎れて行く女性。壁を叩く拳は何度も何度も打ち付け、皮がめくれ、出血している。発狂している状態では痛みを感じないのか、血が滲む拳をさらに叩き付ける。

「…ニク。タベ物。ヤワラカイ、ニク。タベタイ……」

 渇ききった声は女性……肉を欲する。

蛾が光に吸い寄せられるが如く、魔物は女性に近づく。鈍く、とろくさい歩み。しかも歩く

ごとに足元がおぼつかない。本来なら数秒で行ける距離を魔物は今だ辿り着けていない。そのせいか、女性の恐怖は次第に薄れた。

 一向に向かって来ない魔物が気になり、女性はちらっと後ろを見る。

「……ェェェェ、エエェェエェェ」

 高い声色で奇声を上げ、笑っていた。女性は魔物の素顔はよく見えていないのであくまで声から推測した。その答え合わせは唐突にやって来た。

 ドンッ!! 魔物が脚力を駆使し、地面を蹴った音だ。

「えっ?」

 視界に飛び込んできたのは魔物の素顔だった。頭髪がないこと、白目を剥いていること以外は普通の女の顔だ。表情は推測した通り笑み。口の両端を吊り上げた、怪奇な笑いを。

 驚嘆すべきことは嘔吐感を強制させるほど、グロテスクだ。

「うっ…あぁ……!?」

 いとも簡単に、口が裂けた。魔物が吊り上げていた口の両端が切れ、そこから上の頭部は後ろに垂れ下がっている。切り口はワイヤーのような鋭利なものによって、綺麗に切られている。考えている間を与えないように、突如、頭部が在った場所に突起物が出現した。肉が裂け、引き千切る音とともに突起物は肥大化し、忽ち、二枚貝によく似た形に変貌を遂げた。

 肉が腐った臭いと色合いを二枚貝は醸し出し、二枚貝の外殻は脈動して、筋肉であることを示していた。二枚貝は割れ、女性はその中身を目にする羽目になる。二枚貝の中身はとてもシンプルな色で統一されている。

 赤く。赤い。赤い。赤い。鮮血を帯びた、鮮やかな血の海が広がっていた。

 とても鉄臭い。雨に濡れて、錆び付いてしまった自転車より数十倍近く臭い。動物の死体から来る腐臭にも引けを取らない位臭っていた。

 血の海には耳や目、指と言った肉片と四肢や顔だけの肉塊が漂い続け、彷徨っている。自分の身体はどこかと、幽鬼のような存在として、この貝の中に閉ざされている。

 唯一原形を留めていたのは中央に居た、上半身だけの肉塊。他の肉塊が酷く損傷、腐食しているのに対し、上半身だけの肉塊は損傷、腐食がほとんど見当たらなかった。肌が青黒い色をしていなければ、生前とほぼ変わらない。

 ゆっくりとした動作で瞼が開き肉塊は目覚めた。生きているような黒い瞳を動かし、女性を見つめる。上体を起こし、青黒い両腕を伸ばす。

 両腕は左右から女性の顔を包むように近づく。不意に、肉塊が笑う。

 口の両端を吊り上げた、あの怪奇な笑いを。

 良く見れば、肉塊の顔は魔物と同じ、女の顔だった。

「……あ、……あ、……」

 茫然と、女性の呼吸は止まる。

 残酷さがあった。惨さがあった。

 目に見えるもの、全てが生きることを失わさせる。

 生きる意味が無くなってゆく。

 もうどうでもいい感情が女性の精神を蝕む。

「……あは。あ、は、あ、は……」

 笑うしか、この状況で正気を保つ方法はない。低い気温と心が凍りついた影響で女性は白い息を吐く。

 冷たい手が女性の頬に触れる。冷たい。氷を頬に当てているくらい冷たい。

 肉塊の顔だけが瞳に映る。それはつまり、女の顔が女性の息が掛る位置に来たと言うこと。同時に開いていた二枚の殻がゆっくりと、閉じ始めた。

 少しずつ、確実に……。女性を喰らうために。

 ぐちゅ。肉が何かに食い込み、抉れた音だ。

 抉れた肉からこぼれる血は重力に従い、身体を伝って、滴り落ちる。

 ポツリ、ポツリと。

 しかし、抉れたのは女性の肉ではない。魔物の、背中の肉だった。

「ガ、…ァァァァァァァァァァァァ!!」

 痛がる女の顔。

 渇いた雄叫びはすぐに悲鳴へと変わった。どんな形、力を持とうとも、魔物もまた一つの生命体だ。生命あるものは必然と痛みを感じる。危険だと、肉体が神経に伝える。

 直後、何か小さな物が地面に落ちる、微かな物音がした。

 その数秒後だった。女性の耳に痛みが走る。原因は明白。

 ドンッ!! と。けたたましい銃声が耳を打つ。ほぼ同時に、再び魔物の背中に弾丸が抉り込む。一発目と違い、痛がる様子も呻く声も漏らさなかった。

 魔物は勢い良く振り返り、暗闇に血眼ちまなこを向ける。厳密に言えば暗闇ではなく、暗闇の中に潜んでいる者に、強い殺意を込めて。

 すると、女の声が聞こえた。

『いやー、挑発にしては上手すぎる位、上手くいったねー。そう思うだろう? 亜樟あくすちゃーん』

 女の声は場違いだ。魔物が女性を喰う現場に居合わせたとは思えないほど、声色は高い声となっている。また、鮮明さに欠けていた。

『おーい、聞こえてますかー? 亜樟ちゃーん』

 高い音を発しながら、女は一人の少年の名を呼ぶ。

「はぁ、……聞こえているから、その居様なテンションの上げ様はやめてくれ」

 嫌々そうに女の言葉に耳を傾けた少年は、魔物と女性の前にその姿を現す。

 暗闇から這い出た少年は白い息を吐きながら、闇を纏う。

 その右目に縦一線の傷があった。

 黒い眼。黒い頭髪。黒い外套コート。全てを黒で染め、闇に溶け込みような姿。唯一、首に巻いている白を基とした黒い雪花模様のマフラーだけが浮いていた。手には魔物に痕を付けた要因である、改造した独自の銃を持ち、その銃身を肩に当てている。

 両脚の太腿にその銃を収めるためのホルスターが設けられており、一方のホルスターは空いているが、もう一方のホルスターには別の銃が収められている。

 十五、六の年端もいかない少年が本物の銃を所有し、夜中を出歩く。危険で危ない人と誰もが思うだろう。けれど、女性は不思議とそんな思いは抱かなかった。

 黒い眼は半眼で、一目で眠たそうと分かる眼。

 黒い頭髪は所々、撥ねて寝癖と似た感じの髪。

 黒い外套コートの内側、つまり少年が着用している服はとある学校の制服だった。

 それらが少年の危険度を半減していた。

 少年以外に人影は見当たらず、代わりに少年の手には携帯電話が握られている。

『まぁまぁ、重苦しい空気をこのラルちゃんがほぐしているんじゃないかー。そう言う大人の気遣いが亜樟ちゃんには分からんのかー?』

「いや、分かりたくもねぇし。つーか、逆にその気遣いが周りにウザいことをアピールしている自覚症状はあるのか?」

 携帯電話のスピーカーから発せられる声に少年亜樟は率直に言葉を返す。

『なっ!? この気遣いが周りからそんな評価を受けていたなんて……ラルちゃんショックで寝込んじゃうぞー』

「ああ、寝込め寝込め。ついでにその馬鹿みたいな口調も直して来い」

 呆れた調子で亜樟はラルの行動を促す。

『んまぁ、寝込むことはとりあえず措いといて』

「措いとくのかよ」

 亜樟のツッコミを無視して、

『……魔物。魔法を魔法陣なし、呪文なしに魔法を使用し続けた、魔法使いの成れの果て』

 ラルの声は鋭く無慈悲で冷たい声色に変わる。

『『半人半幻ハーフ』と違って理性や人間性を完全に喪失しており、ある概念に囚われた、哀れな存在……故に魔物へと堕ちた者は全ての人権、権利を剥奪される……』

 変化した冷たい声を聞いた途端、亜樟も心境に変化が生じた。

 銃を持つ手は力が抜けて肩から離れ、銃口は下を向く。顔は暗い影を落とし、哀れみに満ちた眼差しで魔物を凝視している。雨の中、捨てられた子犬を見ているようだった。

『さぁ、亜樟ちゃん。……魔物狩り(しごと)の時間だ』

 プツリ。言い残して、電話は切られた。

「分かっている。……分かっているさ」

 顔には悲哀だけが残り、携帯電話を持つ腕は一度、垂れ下がってから携帯電話を懐に仕舞う。

 そして向き合った。己の魔物狩り(しごと)、己の獲物。己の……心に。

「負の連鎖から人を守り、負の連鎖(それ)を断つ。そう、……決めたんだ」

 黒い殺意が哀れみを塗り潰す。

 黒い非情が悲哀を捨てさせる。

 黒い決意が迷える心を導く。

 直後だった。魔物の二枚貝はシャッターが閉じるが如く、ガッチリと閉じられた。中身である、女の顔をした肉塊を保護するために。

 二枚貝を閉じたまま、魔物は大剣を振り上げ、亜樟に向かって行く。

 透かさず、亜樟は銃口を閉じられた二枚貝に向け、発砲。空気を突き進み、狙い通り、二枚貝に命中。だが、弾丸は二枚貝の外殻である肉の壁を抉ったものの、貫通はしなかった。

(おいおい。九ミリパラベラム弾が通じねェって、どんだけぶ厚い肉なんだよ!)

 予想の上をいく事態に亜樟は少々戸惑う。

 怯むことなく、進み続ける魔物。ついには、魔物が持つ大剣の間合いに入ってしまう亜樟。

 今更、逃げることはできない。すでに大剣は振り下ろされようとしている。逃げるために背を見せれば、確実に斬られる。かと言って銃で反撃する暇も、回避する暇もない。

 凶刃がやって来た。

 縦に、凶刃は亜樟を斬る。見上げる亜樟の首筋に嫌な汗が伝わる。

(なら……!!)

 凶刃が亜樟を斬るまで数十センチの所で、亜樟は凶刃と自分の間に無理矢理、自分の右腕

を入り込ませた。

 銃を持っていなければ、手で太陽の日差しを遮っているかのようだ。

 右腕は亜樟の身代わりとなり、凶刃に斬られる。

 その瞬間だった。


 右腕に奇怪な光が宿り、怪しく煌いた。


「ガァ!? ガ、ガ、……?」

 普通、右腕が発光するか? そんな問い掛けが今の魔物の気持ちとひどく合致するだろう。

 月明かりのない暗闇と亜樟が身に纏っている闇と比べれば、ひときわ異彩を放っている光。その色彩は何色にも染まり、何色にも染まらない、希望を象徴する白い光。

 言葉通りに、光は希望たる役割を果たしている。右腕は発光しつつ、凶刃から亜樟を守り抜いた。しかも、右腕は無傷。

「どうやら、ギリギリ発動した見てぇだな」

 額から頬にかけて冷や汗が流れ、少々焦りの色が見え隠れする。

 戦禍殺し(ラビッジイレイザー)

 亜樟が生まれつき宿す力。右腕に触れた特定の力、能力を無効化し、殺す力。

 だから殺した。凶刃の、殺傷力ちからを。

 完全に凶刃としての効力を失った大剣はただの鉄の塊と化す。それが分からないのか、魔物は大剣に力を入れるが、ピクリとも動かない。

「無駄だ。俺の右腕が触れている間は、その剣じゃ何も壊せない。何も殺せない。それが戦禍殺し(ラビッジイレイザー)だ」

 決まった勝敗に愚直にも今だ、大剣に力を入れている魔物。

 最初はピクリとも動かなかった大剣。しかし、力が継続し、増すにつれて大剣が震え続けている。誰の目にも大剣の震えは限界に来ている頃合い。

 大剣は右腕に沿って滑り、亜樟の右横に落下。眼を瞑れば、砲弾が地面を抉る轟音が鼓膜を刺激する。眼を開ければ、亜樟の右横で大剣が地面を割っていた。その光景を目の当たりした亜樟は再び、首筋に嫌な汗を掻く。

(ヤッバ、少し調子に乗り過ぎたかな)

 ゆっくりと持ち上げられる大剣を目で追いながら、苦笑いを浮かべる。

 凶刃としての《ちから》殺傷力を取り戻した大剣は再度、亜樟を斬るため、振るわれた。

 その間、亜樟の対応は適切かつ、速かった。

 銃をホルスターに収め、一言。

「……纏付てんふ

 発声した言葉を皮切りに不思議な現象が起きた。

「……きれい」

 片隅の壁にもたれ掛かっている女性は置かれている立場を少し忘れて、現象を凝望した。

 それは幻想的な光の粒。

 ここが都会から離れた田舎なら、蛍の大群を見ているかのようだ。

 そんな光の粒が、右腕から大量に生成された。

 光の粒は振り下ろされる凶刃よりも速く、規則的に吸い込まれ、集結する。吸い込まれた先は亜樟の腰。左と右の両端の腰に帯びた武器に引き寄せれたのだ。

 武器は、二本の片刃の剣だった。

 魔物が驚く間もなく、亜樟は咄嗟にその二本の剣を逆手の状態で引き抜く。

 両腕と剣が交差した形を取り、交差する剣で振り下ろされる凶刃を受け止めた。その際、聞こえたのはキュィィィィィ!! とした奇妙な甲高い音。

 奇妙といえば、二本の剣が右腕の光と同等な輝きと色を含んでいた。

 その二点の奇妙な事柄に勝るとも劣らない程、剣は立派な物だ。

 二本共、形状は日本刀によく似ており、厚みと横幅は日本刀よりも少々ぶ厚く、横幅も長い。

 全体的に見て、長大だ。種類としては双剣の部類に入るだろう。

「……。また、……止めさせて頂きましたぜ」

 魔物の攻撃を二度に亘り、防ぎ切ったことで亜樟には明らかな余裕が生まれ、調子付いた口調と不敵な笑みが見受けられる。

「にしても、その大剣。余程丈夫で名剣だったんだろうな」

 状況が膠着状態に陥る中、亜樟は頭上に迫り来る大剣とそれを受け止めている双剣を見上げ、注視した。

 大剣の刀身がに塗れ、名剣と言うには些か抵抗がある。名剣よりも魔剣の方が雰囲気として合う。

 対して、亜樟が所有する双剣は研ぎ澄まされ、光り輝くことを除いても特出して高い。

「俺には分かるんだよ。どんなに外見が変わろうと、どんなに着飾っていても、人や物の本質は変わらねぇし、外面と中身は大きな差異があるってことを」

 ピキッ と亜樟の主張と攻撃を受けて、大剣が双剣との接触面から罅が入った音。まるで大剣が亜樟の主張に動揺しているかの様だ。 

 次第に罅は広がり、連鎖的にぶ厚い刃に亀裂が生じた。血錆は塗料のように剥がれ落ち、崩れ去る音と共に一部の刃は欠け、自然と大剣のイメージが壊れて行く。

 完全に壊れてしまう一歩手前でようやく、亀裂は止まったが。

 パリンッ!

 交差させていた双剣と腕を引いただけ。たったそれだけで、大剣は脆く砕け散る。ガラス細工が壊れたようなありえない音が両者を分かつ。

「……残念だよ。テメェの大剣も、テメェ自身も!!」

 哀れむ眼差しだった。けれど、最後は殺意が塗り潰す。

 風を斬る音が警告した。両サイドから、魔物の貫手が放たれる。挟み込むように、鋭い爪が亜樟の身を切り裂こうと。

「……裏式りしき一之型〝滅爪めっそう――」

 恐れることも、脅えることも、逃げることもないが如く、亜樟は眼を瞑った。全身から力を抜いて脱力。だが、逆手に握られている双剣には力が有り余るほど強く握っていた。

「――斬袈ざんか〟!!」

 一瞬の内に魔物の両腕が弾け飛んだ。亜樟は一瞬の最中、逆手で持った双剣を交差するように振るい、魔物を斬りつけ、元の構えへ戻した。

 弾けた飛んだ肘から下の部位はくるくると宙を回転して鮮血を撒き散らす。

 切断されたのではなく、弾け飛んだのは、それ程の破壊力と速度を打ち込まれたためだ。

 両腕の傷で軽く一リットルは超える出血量を受けて尚、倒れることを知らない魔物。

(やはり、あそこを叩かねぇとな。まずは……二枚貝そこをこじ開ける!!)

 目標を視線で定めると、亜樟はマフラーをなびかせて、跳躍した。丁度、魔物の背丈を超えて、背後に着地するような山形やまなりを描いた跳躍。

 跳躍中の亜樟が魔物の頭上辺りに差し掛かった時、反射的に魔物は顔である二枚貝を上へ向けた。直後、タイミングを良く亜樟の剣が二枚貝の割れ目に入り込み、中の筋肉繊維を強引に切り裂く。

 切り裂かれた筋肉繊維は二枚貝を閉じるためのものだったらしく、二枚貝は貝柱を失った貝の如く、開いた。

 二枚貝の中は相も変わらず血の海だ。骸の血と肉塊が漂い彷徨う中、女の肉塊は亜樟を威嚇する険相を露としていた。

 一切の迷い無い眼で亜樟は切り裂いた剣を返すようにして、女の肉塊の肩に突き刺す。

「ガァァァァァァァァァ!! ……あぁぁー」

 悲鳴を上げた後に聞こえた声の音質は人間味のある声だった。悲鳴を上げた時の顔つきは痛みを訴える風だが、今は視線を鮮血が垂れる肩に向け、人間らしい悲嘆の表情になっている。罪悪感が湧いてくるその表情を亜樟は敢えて見なかった。代わりに剣を突き刺している肩を険しい目つきで睨む。

(……浅い!)

 手応えで感じた。負わせた傷では致命傷には至らないことが直感的に分かる。このまま、もう一方の剣で女の肉塊の首を切断しようとするが、滞空時間に限界が来てしまい、亜樟は肩に刺した剣を引き抜いて、魔物の背後に着地した。

「……たべて、やる。たべるッゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!」

 野太い怒声を上げながら、取って喰うような勢いで背後を振り返った。

 目の前には小さな黒い穴があった。亜樟と魔物の間にあって、穴の下部に亜樟の手が何かを握っていた。また、その手の人差し指で何かを掛けている。

 一秒も経たずに、女の肉塊は状況が理解できた。

 そう、女の肉塊に向けられた穴は銃口であり、亜樟が握っていたのは。

「!?」

 咄嗟に身を引いたが、すでに遅すぎた。

 撃鉄を起こした銃は火花を散らして、見えぬ弾を打ち出す。

 身を引いた魔物は若干位置がずれて弾は女の肉塊の脳ではなく、喉を貫く。

「が、……ハァぁ……」

 血を吐いて、女の肉塊はぐったりと力尽き、比例して身体である魔物も背中を着いて倒れた。

しかし、女の肉塊はまだ死んではいない。

「……ァ……ア、ァ……」

 喉を潰され、声が出にくくなっていても。大量の鮮血を流して、虫の息でも。確かにまだ、生きている。

 そんな状態でも、亜樟は躊躇わずに銃の照準を魔物に合わせる。

 濁っても、澄んでもいない瞳を向けて、引き金を――

「……あの子。たち、のため、何で、す……」

 ――引けなかった。指に力が入らず、震えて。

 人の、女性の優しい声が耳に語りかけた。掻き消えてしまいそうに微かで頼りない人柄が声から窺える。合ってはいた。その人物は確かに想像通りに頼りなさがあって、辛そうな面持ち。

 その人物は女の肉塊だった。

 三百六十度変わった様子に亜樟は驚きが皆無。無表情、無感情で何も変化はないが、指が震え、撃つのが躊躇われている。

「……孤児、たちを。助け、た、かった……だか、ら……」

「だから、お前はそんなに醜い姿になった。違うか?」

 強い物言いと否定的な眼差しを女の肉塊に示している。

「…ち、が。……う」

「違くない。それが事実だ」

 必死になって抗議の声を発するが、亜樟は聞く耳を持たない。亜樟の言葉と眼差しで女の肉塊はそれ以上何も言えずに臆した。

「魔法法廷に則り、魔物と化した咎人が人に仇なす行為が見られると判断された場合、害獣と捉え、法的処置としてお前を裁く。それが今の俺の……仕事だ」

 そう切り捨てて、亜樟は引き金に指を掛けようとするが、できない。

 寒さで手が冷えたわけではない。

 では、なぜ撃てない?

 女の肉塊がそうなった理由に同情したからか。或いは声に当てられたからか。

 もしくは、人だからか。

 自分が切り捨てたはずの事柄が亜樟自身を悩ませ、裁断が揺らぐ。

 傍観者だった女性が私憤を示唆する発言を説いたことでその苦悩は益してゆくばかり。

「なんで……なんで撃たないの!?」

 背中から来る問いに亜樟は答えず。いや、答えられずに黙り込む。

 なおも、発言は続く。

魔物そいつは人に仇なす害獣。あなたはそう言った。なのに、なんでその引き金を引かない!?」

 道理は理解できている。法でも定められているからこそ、亜樟はこんな仕事に就いている。けれど、撃てない。

「もしかて、元人間だから? 冗談は止してよ! 『半人半幻ハーフ』と魔物達そいつらは罪を犯した罪人!!

なのにこの街は『半人半幻ハーフ』との共存を許可している。ただでさえ、魔物が蔓延はびこっているって言うのにその上、街には人に成り済ました『半人半幻けだものども』がうじゃうじゃ蠢くって言うの!?」

 憎悪と嫌悪。人間の醜悪の塊が垣間見れる。今はその感情が魔物や『半人半幻ハーフ』に向けれているが。本来、その感情は亜樟に向くことになるだろう。

「……そんな世界、堪えられない。住み世界が違う! 生き方も違う! そいつらはもう、……人じゃ、……人間じゃない!!」

 無表情、無感情だった顔が苦痛に歪む。言葉の刃が胸に突き刺さって痛い。

 亜樟の心が苦しい。

「だから! さっさと、殺して……!」

 社会的に、人間に危害を加える魔物に止めをさせと、女性は息を切らしてする。

 合理的で懸命な判断と言えよう。だが、そこに個人の意志、亜樟の意志は無い。

(俺は……)

 結局の所、決断を下すのは亜樟だ。当の本人は苦悩の淵で今まだ迷いがある。言葉で切り捨てようとも、どんなに割り切っても、撃てなかった。それが亜樟と言う人。姿、形に囚われずにその人の心を捉える。

 亜樟に取って、魔物は心のどこかで人と思っている。優しい思いが心を鈍らせる。

 女の肉塊はその優しい思いに感服した。自分をまだ人間としてくれる人に会うことができた。

 そして、自分が死ぬ運命を受け入れた瞬間でもある。

「……撃っ、て」

「!?」

「わたしがこと、ばをしゃべっている内に、まだ人間、みたいに、笑っている、内に、撃って」

 笑みは涙でくしゃくしゃとなって、より人間らし表情が生まれる。

 死を望んだのは、これ以上、自分のことで亜樟を苦しませないための配慮。

「あ、と。孤児、たちの事、頼んで、……約束して、いいですか?」

 亜樟は静かに、黙って頷く。

「さよ、なら。とても、優しい子」

「……。……ごめん」

 重苦しい面構えで、魔物に手向たむけの言葉を贈る。

 乾いた銃声が鳴り響き、女の肉塊は笑って死んで逝った。

 

「近づかないで!! その気持ち悪い右腕ものを私に寄せ付けるな……!!」

 助けた後の女性との会話はこれっ切りだった。

 その時、亜樟は深い悲しみに沈んでいた。もしも、亜樟の体質がなければ、誰もがそう思うように。

 

 どれくらい経っただろう。

 女性が侮蔑の目と言葉を言い残して、立ち去ってから亜樟はずっと佇んでいる。少なくとも、魔物の亡骸から流れていた血が固まる程の時を、ここで佇み、魔物である女の肉塊を虚しく目と心に焼き付けていた。

 ヒトを助けられずに、殺す事でしか救えなかった無力な自分を苦く思い知り、拳を強く握る。

 亜樟の意識をそこから現実に引き戻したのは携帯の音色だった。懐にある携帯を手に取った亜樟は一度、魔物の亡骸に目を合わせて、ポケットからビニールシートを取り出し、魔物の亡骸に覆い被せた。

 身を翻して、来た道を辿りながら、携帯の声に耳を傾ける。

「なんだ」

『なんだってて……。ひどいなーせっかくラルちゃんが癒しの言葉を掛けてやろうと思ったんだぞ! プンプン!』

わりィが今はそんな気分じゃないんでね。……なぁ、ラル」

『ん?』

「俺が守ったのはあの魔物ヒトの尊厳か? それともあの女のちっぽけな命か?」

『……。亜樟ちゃんの言いたい事も分かる。それに亜樟ちゃんの体質の事も、私が一番理解しているつもりだ。だから、亜樟ちゃんが守ったのはその両方だと私は思うよ』

「本当に、そう思っているのか?」

 ラルの答えに亜樟は不満が籠った声を上げる。

『んじゃあ、亜樟ちゃんはどう思っているんだい?』

「!? 俺は……」

 その続きの声色は妙に浮つき、自分の意見を覆すものだった。

「俺はあくまで、仕事であの魔物の尊厳やあの女の命を守ったに過ぎない。でなきゃ、俺は魔物とは、……人とは関わりたくねェんだよ」

 言うなれば、欺瞞。

『じゃあなんで、約束したのかな?』

 痛い所を衝かれ、亜樟は言葉が出ない。また、言葉で言い訳してもラルはそれらを上手く利用して言い包めるだろうと予感させられる。欺瞞を看破したラルはさらに意地悪く追及する。

『嫌々、魔物を助けたのになんでまたその魔物と面倒臭い約束をしちゃうのかなー? 亜樟ちゃんの一番嫌いなことは面倒事じゃなかったかなー?』

「……」

『はぁあ。亜樟ちゃん、いい加減素直になんなさいなー。亜樟ちゃん本当は……』

「うるせぇよ」

 冷たく突き放す。亜樟の吐いた息が白くなる寒い外気のように。

 それを受けたラルは反感せずに『うるせぇよとは、まったく誰かさんの教育がなってないなーって、私のことかー!』などと一人で騒いでいる。

 無視して亜樟は、

「俺はただ、……守れない約束はしないだけだ」

 きっぱりと言い切った。それが事実であるような雰囲気を残して。

『あらまぁ、ずいぶんと調子良さそうにはぐらかっしゃって。ま、いいんだケド、早く帰って来いよー。明日こそ、高校行って、お前を理解してくれるヤツを探すんだぞー』

(……そんなヤツ、この世にいるかよ)

 電話越しのラルには分からなかった。亜樟の期待感を微塵も抱かない表情と心の声を。例えるなら、もうこの世に無い物を探そうと提案してきた戯言に不快感を抱くようなものだ。

(……。それが俺の特異体質。例外は無かった。どんな人間も、俺を嫌う。お前だってそうだろうラル。出会った頃は俺のことを……いや、今だってお前は俺の事を……)

 不信。疑惑。惨め。

 亜樟の心には疑いの感情とそれを惨めだと思う自暴自棄的な感情だけが渦巻いている。

 人間性が腐っているわけではない。亜樟をこのように形成したのは特異体質と周囲からの偏見、差別、嫌悪、憎悪などが原因だ。そんな中で亜樟の人格は次第に人を疑い、憎むように感情が肥大化して行き、同じく優しさも心の中で募っていた。

 人としての優しさが失われなかったのは幸いであると同時に、となっていたことは、まだ誰も知らない。ラルでさえも。

『あっ、そうだー』

「?」と疑いの感情を心で留めながら、亜樟はラルの言動に眉を顰める。

『ついでに、コンビニ寄ってロールケーキとかなんか甘いもの買ってきておくれー』

「は?」と留めていた感情が一気に霧散した。

『ちょうどストックがなくてねー。甘いもの(あれ)がないとラルちゃん夜寝付けないのよねー。あと、リッチカットのサワークリームオニオンとポテトもよろしくー』

 突拍子もないこと言い出したラルに亜樟は呆れ果てる。

「リクエストが多いっつーの! てか、なんですげーマニアックなもんを好むんだ? お前は」

『まぁー、それは人それぞれによるし、マニアックなもの程、常人には理解し難いものなのですぉー。お分かりかな?』

「いや分かんねぇよ」と即答。

「まぁいいけどよ。いい加減にしねぇと太んぞ、夜中にそんなもんばっか食ってるとよぉ」

『コラ、亜樟ちゃん! 女性にその不躾ぶしつけは失礼だぞ! 乙女のハートはガラス細工より繊細なのよー』

「ハッ、お前に乙女の心と繊細さがあったことに俺はびっくりするわ」

『ハハハハ。手厳しねぇ。んじゃ頼んだよー』とそこで電話が切れた。

「はぁ、ったくよ。面倒で厄介だな」

 ため息をこぼして、亜樟は懐に携帯を仕舞い込む。その時の亜樟は微笑を浮かべていた。

 他愛ない会話。

 亜樟に取っては唯一の支え。

 どんなにラルを疑おうと、どんなに自分が惨めだと思っても、いつもラルとの会話でそれはあやふやと曖昧になってどこへ消え行く。

 これがあるから、亜樟は人としての道を誤っていない。けれど、それがいつまでも続く保障はない。だから、亜樟は探している。自分を支えてくれる『何か』を。

「……さて、どこのコンビニによるか」

 歩き続けていた亜樟は歩みを止め、辺りを見回す。

 周囲の建築物に人の気配がしないのは火を見るよりも明らかだった。

 そこは言うなれば、世界の都市(ワールドセンター)の管理が行き届かない無法地帯に該当する。いや、もはや人の存在が確認できない場所では廃墟し、荒廃した区と呼んだ方が正しい。

 荒み切った壁や外壁が全てを物語る廃墟群の数々。衛生面や生活面を考えてもそこは人が住みことは無理だった。荒れ果てていることはもちろんのこと、大量の塵と埃が蔓延し、建築物自体が傾き、崩落の危険性があるものも多々ある。

 なのに、なぜこの区があるのか。理由は多岐に亘る。

 魔法実験所、または研究所の存在とか。噂では非道な魔法師の残した合成獣が住処としているため、下手に手が出せないとか。一説にはある強大な魔物を封じている場所とか。

 至極当然のことながら、そんな区にコンビニがあるはずもなく、亜樟は隣の区に移動するため、足を運ぶ。

(俺もコンビニでなんか買おっかな。にしても、もう四月頃だって言うのになんでこんなに冷えるんだろうな。…………!?)

 荒れ果てた街道沿いに歩いていた亜樟の目と足がある場所でピタリと止まった。そこは別に思い出がある場所とかではない。

 建物の壁に座り込んで寄り掛かっているある少女へ、亜樟の目はいとも簡単に奪われる。

 その少女はこの区とは限りなく無縁に近い風貌で亜樟と対を成す格好だった。

 目が霞む。頭から足に至るまで白く清純な純白を纏う姿はとてもきれいで美しい。

 頭にロシア帽を被り、肩からケープと呼ばれるマントを短くした物を羽織っている。その下は丈と袖の長いワンピースを着ていた。また、首には十字架のペンダントが掛けられている。一見、普通の十字架だが、中央に緑色の宝石がはめ込まれており、不思議な力を秘めている。

 そして少女はその服装に驕ることのない容姿だった。

 触れれば汚れてしまう艶やかな白い肌。腰ぐらいまで掛かる髪は清々しい空色をしており、心が洗われるようだ。整った顔立ちは幼さが残って可愛らしく、可憐。瞳は穢れを知らない、純粋な明るい緑色。小柄で華奢な体格。見た目から察するに年齢は十三、四歳程度。

 黒一色で身を包み、武装している亜樟を悪魔と例えるなら、白一色で身を包んでいる少女はまるで天使。その天使は悪魔あくすを感銘させた。

 しかし、目を瞑って壁に寄り掛かる姿は無防備となっていて、亜樟は少女に対して淡く心配する。こんなひとけのない区でなぜたった一人の少女がと、心配事が募り募る。

 そうして、亜樟は自然と向きを変えて少女の下へ歩み出す。

(…行ったからって、一体、俺に何ができる?)と亜樟は苦渋の顔色で自分自身に問い掛けた。

 嫌われている体質だからこそ、何もできるはずがない。先程の女性のように助けても拒絶される身の自分に一体、少女に何をしてやることができると言うのだ? 

 嫌われて終わる。それがいつものこと、日常だった。

 でも、亜樟は見捨てることはできかった。見て見ぬ振りもできかった。どんな人でも、どんな状況でも、他人との関わりを断つことはできなかった。

 優しい。だが、その優しさが自分を傷つけることを亜樟はよく理解している。

 そうこうしている内に、亜樟の眼下に少女が見えた。近づいて分かった事だが、少女の膝元に一匹の猫がいた。少女の服と同じ毛色だったため、遠目で確認することはできなかったらしく、少女と同様にすやすやと寝息を立てて、寝ている。

 どこにでもいる普通の猫。けれど、亜樟は気掛かりだった。

 猫の前足に奇妙な紋章があった。

 気にはなったが、それ以上に少女のことが気になり、亜樟はしゃがんで少女の寝息を窺った。

 見れば見るほど、その少女の寝顔は愛らしく、無防備過ぎる。亜樟は理性ある人間であり、小心者でもある。襲うことはしないが、声を掛けることに少々迷う。埒が明かないので、意を決して声を掛けた。

「なぁ、……おい」

 起きない。

「あの、聞いてますか? おーい!」

「……ん。ん~ん? …………ん?」

 小さな口から漏れる甘い声にビクビクしつつ、少女に意識があるか確認を取る。

「おい、大丈夫か? 意識はある……」

「あぁ~~~」

「……え」

 最初は欠伸をしただけと思っていた。がしかし、大きく開いた口は徐々に亜樟に向かって来る。まるで、亜樟の頭を丸呑みにして食べるみたいだった。

「え、ちょっと待ってなんか俺、食われそうになってね? あのちょっと、ちょっとォォォ!?」

 必死の制止に耳を傾けないと言うより、寝惚けた状態だから少女の耳には何も入らないようだ。亜樟は食われまいと、向かって来る少女の頬に手が触れた瞬間。

 何も変化はなかったが、は少女だけに聞こえた。


 ――あと僅か。あと僅かで、全ての終わりの始まりが来る……。


 途端に少女の瞳は生気を失ったような虚ろになって、一滴、涙を流していた。悲痛、悲愴が表情に出ているのにも係わらず、それでも必死に隠そうとしているようだった。

「……!?」

 突然の落涙は亜樟に戸惑いを与えた。頬に触れていた手に涙が零れて、冷たい。少女の心を表しているかのようだ。不意に視線を下に逸らした亜樟は気付いた。

 少女の手が、震えている。

「寒いのか?」と亜樟は視線を上げて、少女の眼を見て言った。

「…………うん」と微かな小さい声。

 涙を流す瞳は亜樟を見てはいない。感情がない表情のまま、少女は虚ろな瞳で虚空を見つめ、寒さに打ち震える。

 何をしてやれるだろう。亜樟の内に、そんな言葉が過る。その直後に亜樟は自分の首に巻いているマフラーに手を掛け、

「……ほら」と世話焼き上手に、少女の首に自分のマフラーを巻いてあげた。

「つけてろよ。温かいだろ」

 そう言われた少女は両手を動かして、マフラーを掴んだ。

「……うん。……あったかい」

 微笑みを浮かべるながら、上目遣いで亜樟の目を見た。亜樟の目に映った少女の瞳は虚ろではなく、潤んだ瞳へと変わっていた。

 亜樟が少女を家に招いたのはその瞳に惹かれた為だろう。

「なぁ、お前、うちに来ないか? 別に取って食おうってわけじゃない、こんな所に居るのはなんだし。それとも、行く場所……帰る場所があるのか?」

「……ない。どこにも…………ない」

 せっかくの笑みも亜樟の余計な一言で暗く下を向いてしまう。だが、亜樟は間髪容れずにあることを促す。

「なら来いよ、……うちに」

「!? ……いいの?」と少女は驚いた顔で亜樟を見上げる。

「ああ。て言うーか、こんなところで寒そうにしている女の子をほっとくわけにもいかないんで」

 亜樟は笑って答える。

「あなた……いいひとだね」

「いい人か……。お前はそう見えるのか?」

「うん、見えるよ。だから、……ありがとう」

「!?」

 頷いて、お礼の言葉を掛けた少女に亜樟は自分の目と耳を疑った。お礼の言葉。それを口にした少女を見る眼はいつになく、動揺する。

 少女が亜樟の異変に気付かないのは、自分の首に巻かれたマフラーに目が行っていたためだ。

「これ、スゴクあったかい。ルクス、うれし、いよ……」

 疲れが溜まっていたのか、少女は前のめりに倒れて、亜樟にもたれ掛かる。

 亜樟は肩に寄り添う少女の顔を覗く。楽しそうな寝顔でむにゃむにゃと寝言を立てている。

「…ったく、世話が焼ける」

 亜樟は軽く愚痴をこぼして、いつの間にか晴れた夜空の月を眺めた。少女の膝元にいる猫はそんな状態でも寝に入ってぐっすりだ。

「……。ありがとうか……。聞いたことはある。でも、俺に向けてそう言ってくれたのはお前が初めてだよ」

 肩に寄り添う、楽しそうな寝顔を目にした亜樟は笑顔を浮かべて、少女の頭を優しく撫でる。

 ありがとうを言われた意味。

 それは亜樟を嫌いになっていない、一つの真理。

 なぜ? どうして? その答えはあまりにも、残酷だった。

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