7.
Cesare primo mori
流刑を命じる文書の末尾は必ずこのサインで終わっていた。
鉄の知事ことチェーザレ・プリモ・モーリは弱点をもたない男だった。捨て子で妻子を持たず、女を求めず、かといってホモでもない。私財を溜め込むことに興味を示さず、賭博もしない。ファシスト党での地位もさほど高いわけではなく、勲章に目を眩ませるタイプの役人でもない。彼は神出鬼没で、執務室である村の住民全員を逮捕することを命じたかと思えば、パナマ帽をかぶって馬にまたがり自分の命令が忠実に実行されているか確かめようとする。だが、次の瞬間には未決書類の山に囲まれ、《行政措置》の書類にサインをするために万年筆をインクで湿らせる。
かつてイギリス人が長らく不滅と信じられたシク教徒を壊滅させてインドの民衆の畏怖を勝ち得たのと同様に、チェーザレ・モーリも《名誉ある男》たちを根こそぎにすることによりシチリア人の畏怖を勝ち得た。シチリアでは畏怖と尊敬は同義語だった。あるいはこういうべきなのかもしれない――畏怖のない尊敬は馴れ合いであり、畏怖のある尊敬こそが本当の尊敬なのだ。
ある日、メルキオーネ村のファシストの支部長で、村の助役をやっている男が殺された。その殺された男、マルチェロ・アブリッツィの最期の言葉はコリエーレ・デラ・セラ紙によれば「ドゥーチェ万歳! ドゥーチェのために死ねて私は幸せです!」だそうだが、本当のところ彼は即死したのだった。衆人環視の場で起きた《名誉ある男》がらみの殺人のときはいつもそうだが、目撃者は健忘症にかかってしまう。目撃者は誰が撃ったのか思い出せないとかちょうどその瞬間まばたきをしていたからおれは見ていないと主張する。これは彼らがチェーザレ・モーリよりも《名誉ある男》を尊敬してのことだった。チェーザレ・モーリはこれを重大なことと受け取り、すかさず手を打った。村はずれの荒地に村民たちのためにテント村をつくり、乾パンも数箱置いていってやったのだ。なぜならメルキオーネ村の住民はもうじき住む家を失うからだ。家畜は没収され、家財は差し押さえられ、井戸も埋められるからだ。チェーザレ・モーリはちょうど政府がリビアの不帰順部族に対して実行している恐怖の焦土戦術をこの村にも持ち込もうとしたのだ。するとどうだろう? 突然、目撃者たちの健忘症が治り、記憶が甦ったのだ。パオリーコ・アンペッツォが撃つのを見ました。記憶はやがて感染し、事件当日現場におらず、隣町までアイスクリームを食べに行っていた男や足を悪くして家のなかで寝たきりの老婆までもがパオリーコ・アンペッツォの名を挙げるではないか。かくして《名誉ある男》パオリーコ・アンペッツォは逮捕され、即決裁判で有罪となり、島流しとなった。禁欲的なチェーザレ・モーリはシャンパンを開けるかわりにもう一つ殺人事件を解決することにした。
ガスパーレ・マトランガ憲兵大尉は住民が自分で始末をつけられる犯罪や《名誉ある男》がらみの小さな犯罪には目をつむる一方、殺人や誘拐などの大きな犯罪には執念深いまでに関心を示した。それはシチリア西部に生まれた官憲にときどきある複雑な二面性で、自分が官憲の側の人間であると自負する一方、ヴァッレルンガ・ディ・ピーサのような寂れた村では秩序の維持に《名誉ある男》の協力か黙認が必要であることを暗黙のうちに認めているということだった。そして北からやってきた官憲よりもより多くの成果を上げられるという誇りが加わり、マトランガ大尉の秩序観はますます込み入ったものへとなっていく。
用心深いドン・ガリバルド・ディ・クレスポはマトランガ大尉のような男を操縦する方法を心得ていた。つまり村内での殺しと誘拐を部下に一切禁止させて、そのかわりに選挙の票集めや保護料の取立てを粛々と行う。村人たちが流れ者の犯罪者や小役人のせいで困ったことに巻き込まれたら、いかにも村民の味方面をして秩序の維持に努めることだ。それでマトランガ大尉の矜持は保たれる。
マトランガ大尉はチェーザレ・モーリ自身が共産主義者失踪事件を直々に洗いなおすと宣言したとき、意外にも解放されたような気分になった。マトランガ大尉もまた、古井戸の死体に束縛された一人だったのだ。ペッピーノじいさんの下手なうそを信じるわけはなく、彼はすぐに古井戸に目をつけた。この静かな井戸の底に村の秩序を一瞬で破壊するモノが隠されているのだと思うと腹立たしかった。《名誉ある男》に逆らわず従わず自分の信条を守ってきたマトランガ大尉だったが、これをそのまま放置することには非常な苦労が伴った。それも今日で終わる。ドン・ガリバルドもおれもあのあわれなペッピーノじいさんの運命もこれでおしまいだ。いや、始まりかもしれない。ともかく、ろくでもないことが起こるだろう。
マトランガ大尉はカフェで富くじを買おうとしていたペッピーノ老人の肘をつかんで言った。
「一緒に来い。古井戸だ」
ペッピーノ老人の顔色が空よりも青ざめ、行きたくないと首を振ろうとしたが、すでにパレルモから派遣されてきた警視が車で待っていた。マトランガ大尉の運転でフィアットは丘を大きくまわってオリーブ畑の農道に入っていった。マトランガ大尉は古井戸の近くで車を停めた。
古井戸のまわりには憲兵や鑑識が集まっていて、若い憲兵が縄梯子で井戸の底へ降りていこうとしているところだった。
「死体が見つかったらやっかいことになると言っただろ」
憲兵屯所。前半の尋問はマトランガ大尉と警視が行った。
「井戸から見つかった死体は歯型と党員証から六年前失踪したサルヴァトーレ・ペトリであることが判明した。お粗末な殺しだな。これについて言いたいことは?」
「わしはなにもしりません。ただの百姓です」
「一九年の調書によれば銃声を聞いたあと、すぐ様子を見に行ったそうだな」
「そうかもしれません」
「一九年の調書ではそう書いてある」
「じゃあ、そうなんでしょう」
「古井戸の死体の上には念入りに石が落とされていた。これを井戸端でやるとなると、かなりの大仕事だ。銃声を聞いて古井戸のほうまでやってくるのに五分もかからない。だが、この石落としは最低でも十五分はかかるだろうな。お前は井戸に着いてからの十分、何も見ていないと断言するのか?」
「わしは……わしはなにも知らねえんです」
「最低でも二人の男が石を井戸に落としてる現場にいながら、何も見ていないって言う気か?」
「わしはなんも知りません。石は後で犯人たちが戻ってきてやったのかも」
「残念だが」警視が代わった。「その手は通用せん。なぜなら積みあがった石の上に散弾銃が落ちていた。犯人は石を落とした後に重要な証拠となる凶器を落としていったんだよ。ずいぶん間の抜けたことをしていると思わないか。こんな散弾銃くらい金梃子で叩き潰して、そこらへんの窯にくべちまえばいい。だが、犯人たちはそれをせずわざわざお前が立ち去ってから井戸に石を落として、最後に散弾銃を捨てた。そう説明したいわけだな?」
「へえ」
「見つかった銃からは空の薬包が一つ、もう一つは実包だった」
「一発しか撃たれてない」
「二発目は誰が撃ったんだろうな?」
「二発目はわしが撃ちました。自分の銃で」
「何を撃った?」
「オリーブの木をでさ。雇い主につまんねえ夜番を命じられたもんでむしゃくしゃして撃ったんでさ」
「それで一発目は?」
「知らねえです、刑事さま。大尉さま。わしを家に帰してください」
「家には帰らんほうがいいな」警視がカマをかけた。「やつらは待ち伏せしている」
ペッピーノ老人は口を震わせながら、目に涙をためて、言葉を搾り出した。
「ああ、そんな……」
「お前さんが何かしゃべると思ってるんだろう」
「主イエス・キリストよ、助けたまえ。慈悲深き聖母マリアよ、お救いください」
警視はお祈りをやめさせようとしたが、マトランガ大尉が片目をつぶって止めた。好きなだけ祈らせてやれ。
十分後、祈る聖人もいなくなり、ペッピーノ老人は手を組んでテーブルに置き、泣き伏せていた。
「やったのは誰だ?」
「神さま、どうか……」
「誰だ!」
「聖フランシスコ、聖女ロザリアよ、わたしを助けてください……」
「それで、決心はついたか?」
老人はうなずいた。
「尋問再開だ。一九一九年五月三〇日二人の男がサルヴァトーレ・ペトリを撃つのを見たか?」
老人は首を横に振った。
「じゃあ、死体を隠すところは」
だいぶ躊躇ってから縦に振った。
「そいつらは誰だか知っているか?」
「小麦の運搬人のベルナルド・アレッツォと隣のサンタ・カタリーナのもんでジャンバッティスタ・カタラーノです」
「もう一人いたはずだ」警視が言った。
マトランガ大尉は眉をひそめた。
「いやしません。アレッツォとカタラーノだけです」
「いいや、忘れている名前があるだろう?」
マトランガ大尉は警視に目配せして、廊下に出た。誰も聞いていないのを確かめると、警視に詰め寄った。
「どういうつもりです?」
「なにがかね、大尉?」
「下っ端二人の名前が出た。他に誰の名前を吐かせる気です?」
「ガリバルド・ディ・クレスポ」
「ありえない」
「そう思う根拠は?」
「勘ですよ。あなたと同じ」
警視は銀のシガレット・ケースから一本取り出してつけた。大尉もくしゃくしゃの箱から一本つけた。多少の相違はあるかもしれないが納得がいかないのは警視も同じだと大尉は思った。警視は二口吸っただけの煙草をもみ消して、大尉に言った。
「私の勘じゃない」
「なんですって?」
「これはチェーザレ・モーリ知事の勘だ」
「くそっ」
大尉は床に煙草を叩きつけた。火のついた煙草は床の上をはね、火花を少し散らして消えていった。大尉は取調室を横目に言った。
「流れ者のアカを殺すのにわざわざディ・クレスポほどの男が自分で手を下すと思いますか?」
警視は黙っていた。
「あのじいさんを拷問するんですか?」
「冗談じゃない」警視はかぶりをふった。「私にもプライドがある。そんなことせずとも、あと一押しすれば、あの男はすぐにディ・クレスポの名前をあげる」
「アレッツォとカタラーノを尋問すべきなんですよ。その名前がほしいなら」
「アレッツォとカタラーノはマフィアだ。やつらが自分のボスを指すのにどれだけ時間と手間がかかると思っている? 知事はこの問題が今夜じゅうに片付くことを望んでいる。つまり、明日の朝一番にディ・クレスポとアレッツォとカタラーノを行政措置にかけるための書類を用意しなければならんのだ」
「これでペッピーノじいさんはおしまいだ。間違いなく殺される。とてもじゃないがフェアじゃない。おれは参加したくありませんね」
「私もだ。だが、きみがやらねば私が、私がやらねばモーリ知事が自分でやるまでだ。ただし、その場合は私もきみも《マフィアとの癒着が疑われる官憲》として免職にされるがね。いいかね、我々の相手はマフィアだ。散弾銃と政治家とこの偏屈な島の住人の非協力的態度によって、長年守られ続けてきた連中だ。その相手をするのにフェアかアンフェアかなんてことにかまっているひまはない。サッカーの試合じゃないんだ。きみは表で部下とともに車で待機していたまえ。名前が出次第、ディ・クレスポを逮捕しに行く」
警視が取調室に戻ると、大尉は新しいのを一本つけた。首がじわりと汗をふいた。まったくクソ素晴らしい人生だよ!