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4.

 気まぐれにあらわれた通り雨が枯れ草たちに輝く水の粒を与え、うずたかく積まれた麦わらが湿り気のある匂いを放っていた。麦打ち場では農地監視人のペッピーノじいさんが煙草を吸っていた。再び晴れ間があらわれると、老人は散弾銃をかついでラバにまたがり、のろくさとオリーブの木が茂る農園へと戻っていった。

 最後に海の魚を食べたのはいつだったかな? 風のなかに潮の匂いが混じるとペッピーノじいさんはそんなことを考えた。まだカラスミが残っていたはずだから、あれを晩飯に出してもらおう。雨に濡れたばかりの丘の連なりが不思議な光のもやを吐き、それがゆっくり空へ舞い上がり、雲になっていくのを見た。ペッピーノじいさんは人間の魂とは目に見えないものだが、主の御許へ帰るときはあんなふうに帰っていくのだろうな、と考えた。

 オリーブ畑は山腹にある、四本の道で区切られた小さな農園でさほどの収穫が見込めるわけではなかった。ただ、町から見てオリーブ畑は丘の反対側にあったので死角になる。だから、小ざかしい泥棒が実を盗んでいくことがたびたびある。だが、そんなものは実はどうでもいい。ペッピーノじいさんが本当に恐れているのは果実泥棒ではなく、死体だった。

 一九一九年、ペッピーノじいさんは仕事に来る途中で買い込んだ安ワインをしこたま飲んでオリーブの搾油場で寝込んでいたのだが、オリーブ園のほうからの銃声を聞いて跳ね起きた。ちくしょうめが、まーた、あの悪がきどもが。彼は怒っていた。最近、近所の悪童が玉の細かい鳥撃ち用の散弾をオリーブの木に撃ち込んでいるらしく、銃声が聞こえた後、現場に行ってみるといつも散弾で傷つけられたオリーブの実が一面に転がっているのを見せられている。そんなことが二回続いていて、地主の旦那からは夜番をしてでもその悪がきを捕まえろときつく命じられていた。そんだだガミガミいわなくても捕まえますよ、旦那、ええ、捕まえますとも。彼は悪童たちに気づかれないようランタンをつけず散弾銃を手に銃声のしたほうへ足を運んだ。柔らかい草の上を歩いて足音を消したので、銃を撃った悪がきたちは彼が近づいたことに気づかず、古井戸のふちにランタンを置いて、重いものを引きずっていた。オリーブを入れた袋じゃなかろうか、といぶかしんだ老人はもう少しで不審者たちに「観念せえ、この悪がきども!」と声をかけるところだった。

 ランタンの光に浮かんだのは悪童ではなかった。彼も知っている人間でベルナルド・アレッツォという小麦の運搬人、それにもう一人散弾銃を肩にかけているのは隣のサンタ・カタリーナ村で農地監視人をしているジャンバッティスタ・カタラーノで、二人が引きずっているのは、最近このあたりに共産党の支部をつくろうとしたアカの死体だった。

 ペッピーノじいさんはすぐ道から離れて二人から見えない茂みのなかに潜り込んだ。なんてこった。今までカタギだと思っていたが、あいつらは《名誉ある男》でドン・ガリバルドの手下だったのだ。

 一九一九年はファシストと共産主義者がそれぞれの党員に相手の党員を襲わせて大怪我を負わせる事件が相次いでいた年だった。ただ、このシチリアにはファシストなんてものはパレルモのような大都市にしか存在せず、共産主義者と連中の抗争も北イタリアでの話だと高をくくっていた。ヴァッレルンガ・ディ・ピーサの村に共産主義者が来て貴族が独占している土地のことについて演説したときも、《名誉ある男》ドン・ガリバルド・ディ・クレスポがやんわり警告を出すか、足を折るかして追い出すのだろうと思っていた。

 まさか殺してしまうとは! それも彼が見張りをしているオリーブ園で。

 アレッツォとカタラーノはアカの死体を古井戸に放り込むと、上からいくつか大きめの石を落とし、ランタンを手に逃げていった。老人は卒倒しそうになった。ジャンバッティスタ・カタラーノの阿呆が散弾銃を古井戸にたてかけたまま忘れていったからだ。村で目立った行動を取ったアカが姿を消し、町から離れたオリーブ園の古井戸に誰のものとも知れない散弾銃が立てかけてあったら、誰だって井戸を調べるだろう。すると死体が見つかって、憲兵は捜査を始める。一番に尋問されるのはこのわしじゃないか!

 ペッピーノじいさんはカタラーノの散弾銃を井戸に捨てた。もしばれたら証拠隠匿の罪に問われるが、そのままにしておくほうがもっと危なかった。自分の散弾銃をオリーブの木目がけて発射した。オリーブがバラバラと落ちてきた。次の日、ペッピーノじいさんは憲兵大尉のガスパーレ・マトランガから尋問を受けた。

「サルヴァトーレ・ペトリを知っているか?」

 ガスパーレ・マトランガ憲兵大尉は顔写真を見せた。五桁の番号を書いた黒板を持ち、真正面から撮られたサルヴァトーレ・ペトリはまさしく昨日殺された男だった。声が震えないように祈りながらペッピーノじいさんは答えた。

「うんにゃ、知りませんよ、大尉殿」

「共産主義者だ」

「政治のことはわしにはとんと分かりません」

「昨日から姿が見えないんだが、どこにいるか知らんか」

「どうして、知りもしない人間の居所をわしが知ってるんでしょう? それにわしは農地監視人ですよ。だから、ずっと町を離れてなきゃいけない。余所者が流れてきたからっていちいち名前を覚える法はありませんや」

「じゃあ、別の質問をしよう。昨日、お前さんの見回っている農園から銃声が聞こえた。そのことは知っていたか?」

「ええ、ええ。知ってますよ。悪がきがオリーブの木を撃ちやがるんですよ。わしはすぐに行ったんだけど逃げられたあとでして。そのことは曹長さんに通報したはずなんですがね」

「ああ、それで曹長はバルニという少年を逮捕した」

「じゃあ、問題なしですな」

「ところが、バルニはこれまで二回オリーブの木を撃ったが、昨夜のことは知らんと言っておる」

「うそ吐いてるんですな。太えガキめ」

「だが、やつにはアリバイがある」

「アリバイのことは知りませんが、あの手のガキどもはすぐ徒党を組むから」

「バルニには仲間がいると?」

「ええ」

「昨日聞こえた銃声は二発だった。ラバ追いが証言している。お前さんは何発聞こえた?」

「さあ、二発だったか三発だったか」

「昨夜やられたオリーブは一本だけだ」

「一つのオリーブに何発も撃ちやがったんですよ」

「バルニがオリーブ狩りに使った弾は鳥撃ち用の散弾だった。粒の細かいやつだ。そのことは知ってるな」

「へえ。二度ほどやられてますから」

「昨夜のオリーブ狩りで使われた弾は鹿撃ち用の散弾だった。つまり大粒だ」

「へえ」ペッピーノ老人は不安になってきた。

「バルニは鹿撃ち用の弾でオリーブを撃ったことはないと証言している」

「うそついてるか、やつの仲間が鹿弾を使っているかのどちらかですよ」

「そうか。なあ、じいさん。ここまではいろいろ辻褄があってる。だが、散弾の問題は別だ。ガキどもは散弾一発でオリーブの実をいくつ落とせるか賭けをしていたんだ。そんなときに鹿弾を使うか? 大粒だがつまった弾の数は少ない鹿弾を? おれはそうは思わん。鳥撃ち用の細かい弾を使うだろうな。そっちのほうが粒が多いから、オリーブも多く落とせる。それに一発でたくさんのオリーブを落とすのを競っていたのに、なぜ昨日の晩に限って、二発の鹿弾を同じオリーブの木に撃ち込んだのかな? それが納得いかないんだよ」

「わしにはわかりやせん」

「じいさんの銃は何をつめてる?」

「鹿弾ですだ……ちょっと待ってください。まさか大尉殿はわしがオリーブの木に鉛玉をぶち込んだと言いたいんですかい?」

「おれの考えを言おう。オリーブに撃ち込まれたのは二度目の銃声のときだ。いま、おれの部下にオリーブの実と樹にめり込んだ散弾を全てほじくらせているが、どうあがいても一発分の鹿弾しか集まりそうにない。じゃあ、もう一発は?」

「わしにはわかりやせん。大尉殿はわしが……」

「お前さんがオリーブの木に百発撃ち込んだとしても、そんなことは問題じゃない。オリーブの実は偽装するために撃たれたんだ。一発目の銃声の目的を隠すためにな」

「一発目の銃声の目的ってのは?」

「おれは例の共産主義者は殺されたと見てる」

「なんでまた……」

「この村には共産主義者が蔓延るのに我慢ならない連中がいるんだ。ファシスト以外でな。その連中がアカをここに誘い出すか引きずってくるかして処刑した。それが一発目の銃声。二発目は万が一、一発目を誰かに聞かれたときの保険としてオリーブの木を撃ったんだ。悪がきどもがその夜もやってきたように見せかけるためにな」

 ペッピーノ老人は蒼くなった。悪がきどもが夜中にオリーブを撃ちにくることを《名誉ある男》たちは知っている。他ならぬペッピーノじいさんが隣村の監視人のカタラーノにもらしたのだ。

「わしがアカを殺したって言うんですかい?」

「そんなことは言っていない。いいか、おれの推理の穴はだな、肝心の共産主義者が見つかっていないことなんだ。だが、おれはイエス・キリストと同じくらい自分の勘を信じている。やつがどこにいったのか分からない。町を出て、今頃、モスクワでアイスクリームでもなめてるのかもしれない。まあ、アカがどれだけ殺されようとおれは構わん。やつらはアンチ・キリストのクズだ。だが、この村で殺しが無法図にまかりとおるのも我慢ならん。そこで質問だ。じいさん、昨日の夜、本当にアカを見なかったか?」

「見ていませんよ」

「いいか、もし共産主義者の死体が見つかったら、そのときはやっかいなことになると思えよ」

 それ以来、ペッピーノじいさんは古井戸の底に眠る共産主義者サルヴァトーレ・ペトリの番をしている。古井戸はよほど深いのか、腐肉の臭いがしてこなかった。名のある聖堂に死んだときのまま腐らずに保管されている聖女のように共産主義者も生きていたときの姿のまま眠っているのかもしれない。ペッピーノじいさんは教会にいくと聖人像に願掛けの蝋燭を灯した。主イエス・キリストよ、聖母マリアよ、聖フランシスコよ、聖女ロザリアよ、どうかサルヴァトーレ・ペトリが見つかりませんように。

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