10.
「おめでとう、モーリ知事。パッサカリアを逮捕したそうだね」
「軍の協力の賜物です、閣下」
かつて陸軍中将であったアントニーノ・ディ・ジョルジョ下院議員はウイスキーをヤシの果汁で割ったものを二つ作り、モーリ知事に勧めた。知事がグラスを取ると、グラスを伝い落ちた水滴が、樫の木を磨いてつくったコースターに丸い輪を描いて残った。モーリ知事がシチリアに送られて以来、いつかはこの日がくると思っていた。モーリ知事は議員の考えたとおり、実直で謹厳そのもので、自己保身を考えるための器用さにめぐまれなかった男特有の目をしていた。その目はダンスホールの片隅で強い酒なめながら華やかに踊る男女を見る、疲れきった老人の目だった。
飲み物がなくなったので、もう一杯勧めようと思ったが、知事は時間が気になるらしく、そわそわしていた。おそらく目を通してサインしなければいけない書類が山ほどあるのだろう。あまり引き止めてはいけない。ディ・ジョルジョ議員は本題に入ることにした。
「私に関するあなたの文書を読みました」議員は言った。「辞任するつもりはない。私は自分に投ぜられた票に恥じるところはないと信じているからだ」
「それがマフィアによって集められた票であってもですか?」
「滝から流れ落ちそうな浮き草をすくってやり、静かな池に浮かべてやるための手が必要なのだ。十九年から二〇年にかけての《赤い二年間》を忘れてはいけない。あの二年間の動揺はシナやロシアで起きたことではない。敬虔なカトリックで国王陛下を敬うイタリア国民の身に起きたことなのだ」
「そしてイタリア国民は二二年にムッソリーニを頂いた」
そのときのことは覚えていた。ファシストたちがローマに押し寄せ、クーデターを起こそうとした。大半は退役兵や右翼がかった民間人だった。質流れの勲章や腕相撲大会でもらったメダルを胸につけた偽りの英雄。烏合の衆。カポレットで破れ、ピアーヴェ川で食い止めるために死に物狂いで戦ったものはこのなかにいない。あのときファクタ首相と参謀総長だったピエトロ・バドリオは戒厳令を敷いてムッソリーニを逮捕すべきだと強く主張したが、国王が首を縦に振らなかった。国王はムッソリーニを首相に任命した。あのとき、チェーザレ・モーリは確か……
「そのとき、あなたはファシストでなかっただろう」
「それは閣下も同じことです」
「その通り。あのときローマに集ったのはイタリアの救世主ではなく、気の荒い退役兵の集まりだった。申し訳ないが、あのときの彼らにイタリアを任せる気にはなれない。あなたは?」
「私も同じです。ですが、ファシスト党は二四年に選挙で第一党となった。名実ともに充実し、イタリア国民に認められるほど党が洗練されたということです」
「洗練という言葉が当てはまるかは分からない。ただ、私もいまのファシスト党ならば信頼できる。だが、いまここで起きていることについては疑問符を投げかけざるを得ない。私はきみのやり方が間違っていると確信する。国家、民衆、そして《名誉ある男》。私はこの三位一体を信じる。国家でも民衆でもない第三の要素があとの二つを結びつけ、イタリアに与えられた歴史的使命を全うさせると信じている」
「なぜ第三の要素が《名誉ある男》でなければならないのですか」
「つまり、なぜ国家、民衆、ファシズムと言わなかったかということだな。実は三番目は《名誉ある男》でなくてもいいんだ。国家と民衆を政治的要素抜きで結合させられるなら、サッカーや自動車レース、ドーポラヴォーロでもかまわない。でも、ファシズムはだめだ。なぜなら民衆とは潜在的兵士だからだ。そしてファシズムとは政治だからだ。私はファシズムが我が国をより強固なものにすると信じている。それでも、私はファシストの兵士からの投票を望まない。なぜなら兵士が政治信条を持つことは間違っているからだ。栄えあるイタリア軍の伝統は政治に介入することを禁じている。イタリアの兵士は憲法によって認められた政府からの命令のみを遵守する立場にある。我々はアスプロモンテで、フィウメで、そしてローマでその伝統を守ってきた。これからも守っていくだろう」
「私はファシズムの軍への浸透はよい結果をまねくと信じます」
「そしてファシズムは肥大化し、イタリアは滅ぶ。そこがきみと私の違いだ。きみはファシズムをイタリアと同一視している。だからいくら巨大化しても問題はないと思えるのだ。だが、私は《名誉ある男》もファシズムもイタリアを構成する臓器の一つと考えている。どんなに役立つ臓器でも肥大化すれば致命的な病をもたらす」
「閣下。残念ながら閣下はマフィアについて私とは異なる認識をされているようです。マフィアとはすなわち詐術を用いて民衆を扇動する凶暴な犯罪者集団にすぎません。ファシズムが臓器の一つであるなら、マフィアは寄生虫です。今から二十年前、私はシチリアの山中にある小さな村で警察署長をしていたことがありました。住民のうち三分の一がマフィアで三分の一が山賊、そして最後の三分の一は彼らに虐げられる農民でした。農民たちはあなたの表現をお借りすれば、滝から流れ落ちんとする浮き草のようでした。私は彼らを救おうとしました。しかし、それはかないませんでした。あの小さな村の哀れな農民たちは私を信じるよりもマフィアを信じ、山賊を恐れたのです。私は独りでした。あのとき、私の手元に信頼できる警官隊がいれば、あの哀れな農民たちを助けることができたのです。私は政府に警官隊の派遣を要請しましたが、無駄でした。マフィアや山賊の暴力に屈した農民たちの選んだ、薄汚れた政治家が全てをもみ消したのです。そして、二十年たったいま、ファシズムは私に力を与えました。私はあのとき救えなかったもの、シチリアを救うのです」
「あなたの政治的潔癖は称賛に値する。しかし、イタリア的ではない。イタリア人は徳をもってしてまとまることはできない。シチリア人はなおさらだ。シチリア人にとって徳とは聖人のみが有するもの。つまり殉教者のものなのだ。モーリ知事。あなたは有能な方だ。殉教者になるべきではない」
「私は殉教者になったりしません」
「殉教が散弾銃で撃たれて死ぬことだけとは限らない。あなたはムッソリーニをどれだけ信頼しているのかね?」
「全幅の信頼をおいています」
「モーリ知事。これは自惚れから言うことではないことをまず先に理解してほしい。私と《名誉ある男》とのつながりについて記したこの報告書、これをムッソリーニに送れば、あなたは間違いなく失脚する。あなたか私かを選ぶとき、ムッソリーニは私を選び、あなたを切り捨てる。それはあなたより私のほうがムッソリーニに信頼されているからではない。あなたより私のほうがイタリア的だからだ」