愛しい主には忠誠を
特に何か不満があるわけでもなく、ただ学校に通い、気の合うやつらと過ごし、たまに突っ掛かってくるやつと喧嘩する毎日。
なぜか俺を妬んでいるやつと対立することはあるが、それなりに俺を慕ってくるやつも多く、学校での生活がつまらないわけではない。
今の生活がこれからも続いて、それに流されるようにこのまま生きて行くんだろう。
夜には外で知り合ったやつらと、いつの間にか集まるようになった。そいつらと騒いでいるその一瞬は、刺激的で楽しく感じた。
だけど、それだけだ。それに満足することはない。
俺にはいつも何かが欠けている気がしていた。しかし、その何かは自分でもわからなかった。いつしかそれがなんなのか考えることをやめた。それがわかったところで、きっと俺にはそれが手に入らないような気がしたからだ。
そんな俺が出会ったのは、変わっているとしか言いようのない女だった。
けれど彼女に出会ったことで、俺は自分に欠けているものがなんだったのかに気付いた。そしてそれと同時に、その何かを埋めてくれる存在は、彼女しかいないことを思い知る。
いつものように夜に仲間と集まったその帰りだった。俺がその女に会ったのは……。
「…は?なにやってんだ、あいつ」
俺の前を歩いている女には見覚えがあった。学校のやつらが騒いでいた時に、ちらっとその姿を見たことがある。
確か名前は、葉山だった気がする。小柄で可愛らしい容姿から、儚い美少女という印象を受けるが、なかなかパワフルなやつらしい。
なんでも飼っている犬の話になるとよく喋り、表情豊かで愛嬌があっていいんだとか。また、その気取らないで話してくれる、無防備な感じが堪らないと男たちがよく騒いでいた。
男にモテそうな見た目であることはわかるが、夜遅い時間にこんなところであいつは何してんだ?
今は時計がもうすぐ2時を指すところで、女が出歩く時間ではない。しかも未成年だとわかるような制服のままでならなおさらだ。
俺はそんな彼女になんとなく興味を引かれ、うろうろと歩き回る彼女の後を追った。
彼女は何か探しているようでキョロキョロと周りを見渡している。彼女と離れたところにいる俺には、何を言っているかはわからないが、何度も同じ言葉を叫んでいるようだ。
俺はその言葉が気になり、気づかれないように彼女に近づく。
「…マロン!マーローン!」
彼女はどうやら『マロン』と言っているようだ。
「マロン…。一体どこに行ってしまったのだ。家から逃げ出してしまうなんて、私のことが嫌いになったのか…?」
そう言う彼女の声は、明らかに涙声だ。いや、もう半泣きぐらいはしているかもしれない。
マロン…?飼っているペットか何かか?それが逃げ出したから探しているといったところか。
しかも、制服でいるということは、学校が終わった夕方頃から今までずっと探していたのか?
「だとしたらすごい執念だな… 」
たかだか、飼ってるペット1匹のための行動とは思えない。
少し探して見つからなかったら、普通は途中で諦めるだろ。そのうち帰ってくると楽観的に考えて。
彼女は気合いを入れ直すように両手で頬を軽く叩くと、公園の中へ入っていく。
「マロン!帰ってきてくれー!!お隣の太郎くんに構って、散歩に行くのが遅くなってしまったのは申し訳ない。しかし決して忘れていたわけではないんだ。帰宅したらすぐに行く予定だったんだ。嘘じゃない」
彼女は必死に弁解するように叫んでいる。
彼女の様子からして隣の太郎とは、恐らく犬か猫かなんかだろう。そのペットに構ってるうちに、飼ってる犬の散歩の時間が過ぎ、犬は拗ねて家から逃げ出したってところか。
なんつー人間みたいな犬だ。飼い主を独占したいわがままで家から飛び出すとは。
街灯に照らされて見える彼女の顔は、あまりにも悲愴で、まるでこの世の終わりだという顔をしている。
「もう私のもとには戻ってきてくれないのか?そ、そんなっ…マロン…!」
彼女はついに立ち止まり、俯いてしまった。鼻を啜る音が聞こえてくるということは、たぶん泣いているんだろう。
「あっ…」
そんな彼女を見ていたら、俺は知らないうちに一歩前に踏み出していた。
なぜなのかは自分でもわからない。けれどあんなに必死に探し回っていた彼女が泣いているという事実に、俺は驚くほど動揺した。
……彼女のもとに行きたい。
頬を濡らしている涙を拭い、不安に揺れているだろう瞳を見つめ、一刻も早く安心させるために俺の腕の中に閉じ込めてやりたい。
俺はそこまで考えて、はっとした。
「何を考えてんだ、俺は…」
ほぼ知らないも同然の相手に対して、そんなことを思うなんてどうかしている。
俺がやっと正気に戻った時、草むらからガサッという物音が聞こえ、「わふっ」という鳴き声とともにでかい犬が現れた。
いきなりのことに驚いた俺とは違い、彼女は「マロン…!」という喜色の声を上げ、その犬に駆け寄った。
犬に詳しくない俺だが、あれがゴールデンレトリバーという犬種だということは知っている。
小柄な彼女が抱き付いているからか、ただでさえでかい犬が余計にでかく見える。
「マロン、どこに行ってたんだ!?死ぬほど心配していたんだぞ?」
ただの言葉の比喩ではなく、本当に死にそうだったな、あいつ。そんな彼女の様子を思い出して、俺は思わず鼻で笑ってしまった。
彼女はさっきまで泣いていたのが嘘のように、満面の笑みで犬を抱き締め、嬉しそうに撫で回している。
「私が太郎くんと遊んだことがそんなに気に入らなかったのか?母が目を離した隙に家から飛び出してしまうなんて…。それとも他の犬に現を抜かした私のことが嫌いになったのか?」
犬が人間の言っていることなんてわかるはずもないのに、彼女は必死で犬に問い掛けている。いや、あの人間じみた犬なら、理解している可能性が全くないとは言いきれないが。
「マロン、許してくれ。もう二度と散歩の時間に遅れたりしないと誓う」
あまりにも悲しそうな飼い主の様子に気づいたのか、犬はぺろぺろと彼女の頬を舐めている。
それがまるで泣いていた彼女を慰めているように見えるのは気のせいか?
しかし、俺には彼女の言うように、あの犬が彼女のことを嫌いになって逃げ出したようには見えない。ちぎれんばかりに尻尾を振っている犬の様子からも、彼女に懐いているのがよくわかる。
「今度、家出する時は私も連れていくんだぞ?わかったか?」
おいおい、自分も一緒に家出する気なのか?
普通はもう家を飛び出すなと叱るところを、彼女はなぜか自分も連れていくよう言い聞かしている。
「ぶっ…はは…」
俺は思わず笑い出す。
やっぱり変わった女だ。…けれど、面白い。
「家族に叱られるかもしれないが、心配する必要はないからな?私とマロンは喧嘩してしまっただけだ。きっと許してくれるはずだ」
彼女はそう言うと、不意に真剣な表情で犬の顔をじっと見つめた。
「…私はいつだってマロンの味方だからな」
そして、それだけ言い切ると、思わず笑みが溢れてしまったように、ふっ…と微笑んだ。
「……っ!」
どくん…。
それを見た瞬間、俺の胸の鼓動は高鳴った。
あんな顔をして笑うのか…。
何もかもを包み込んでくれそうな優しさと、安心感を与えてくれるような強かさのある笑顔。
「交通事故にあってないかと心配したんだぞ?」
「くーん…」
「まあ、少し汚れてはしまったが無事でよかった」
「わふ」
会話が成立しているように感じることに突っ込む余裕もなく、俺は嬉しそうに笑う彼女をただ見つめながら漠然と思った。
ああ、幸せそうだ。
やっと犬を見つけられた彼女がではない。本当に幸せなのはきっとあの犬だ。
呑気に尻尾を振って彼女にじゃれついている犬の方だ。彼女から無条件に愛され、可愛がられ、いなくなったら時間を気にせず、必死に探してくれる飼い主のいる…。
俺は胸の奥がじりじりと焼けつく感覚に目眩がした。
「くそっ…」
俺はあの犬に猛烈に嫉妬している。
ただ、飼い主に愛されているペットだからではない。彼女に愛されている犬だからだ。俺が腕の中に閉じ込めたいと思った彼女に。
「さあ、マロン!我が家に帰ろう。風邪を引く前にお風呂で暖まって、一緒にベッドで眠るぞ」
「わふっ」
彼女は犬の首輪にリードをつけると、スキップをしそうな勢いで歩き出した。
俺は自分の胸に沸き上がった熱い思いに戸惑いながらも、危険な夜道を歩く彼女が無事に家に着き、その姿が家の中へ消えるまで見送った。
彼女に近づきたい。
今の俺にはそのことしか考えられなかった。
彼女のことを知りたい。彼女に俺の存在を知ってもらいたい。そして、俺にあの笑顔を向けてもらいたい。
ああ、これは醜いほどの独占欲だ。
それからの俺の行動は早かった。
以前、彼女のことを話題にしていたやつなどから、知り得る限りの情報を聞き出し、彼女に俺を認識してもらうためにはどうしたらいいかを考えた。
「…おい、史狼。いくらお前がイケメンだからって、葉山は無理だって」
「そうそう。お前だったら他の可愛い女子だって落とせるんだし、そっちにしとけよ」
「俺らの癒しを取んなよなー」
過去に彼女に振られたことのあるやつや、密かに彼女を狙っているやつらは俺に彼女を諦めさせようと、口々に文句を言ってくる。
…確かに彼女は、男にも付き合うという行為にも興味がなさそうだ。
告白してきたやつには「君と付き合ってしまっては、マロンと過ごす大切な時間が減ってしまう。申し訳ないが無理だ」と言って振るらしい。
犬との時間を削らなくていいからと食い下がるやつも多くいたようだが、やはりそこはあの彼女だ。
「私は君とマロンが同時に窮地に陥った場合、迷わずマロンを選ぶような女だ。やめておいた方がいい。付き合ってもお互い幸せにはなれまい」と、つまり、お前はペット以下だと容赦なく宣言され、終わりを迎える。
その話から想像するに、やはり彼女を捕まえるのは一筋縄ではいかないようだ。
人間の男を犬以下だと思っているなら、まずは、それと同じレベルに持っていく必要があるか。
「おーい!史狼、大丈夫か?」
「どんだけ瞑想してんだよ」
「もう諦めろって、無理だから」
考え込んでいる俺を、周りのやつらはバカにしたように笑う。
はっ…笑いたいやつは今のうちに笑っとけ。同じ土俵に上がる度胸もないやつらは、指でもくわえて黙って見てろ。
俺はお前らみたいに諦めたり、遠くから眺めるだけで満足なんてできない。
「つーか、葉山はどんだけマロン愛してんだよって感じだよな?」
「確かに!最初はまじ驚いた。でも今は純粋にマロンが羨ましいわ」
「あー!いっそ犬になりてぇ。そしたら絶対、葉山に可愛がってもらえそうだし」
「…それは言える。もうペットでも構わねぇから、ああやって笑って欲しいわ」
そんな会話を聞きながら、俺も無言で同意する。
実際にマロンに向けるあの笑顔を見たやつなら誰だってそう思うはずだ。もちろん俺だってその一人だ。
あーくそ!ただ好きだって告白したって振られるのは目に見えている。俺は絶対諦めたりなんてできない。だからといって振られても付きまとうのは、彼女の場合マイナスにしかならない気がする。
彼女の傍にいれて、ゆっくりとでいいから俺を意識してもらうにはどうしたらいい?
男としてでなくても構わない。俺をその他大勢の男という分類でなく、藤城 史狼という一個人として見てもらいたい。
犬が好きでペットのマロンを愛している彼女に、俺を認識してもらうためにはどうする…?
「あっ…そうだ。これだ…!」
その後の俺の行動は知っての通りだ。
彼女は俺を見つめ、名前を呼び、抱き締めてくれる。それがあまりにも夢のようで、俺は腕の中の存在を強く抱き締め返し、現実だと実感するまで安心できない。
彼女が俺の傍にいるだけで、心も体も満たされる。彼女が与えてくれる幸せが、いつも俺を優しく包んでくれる。
彼女こそが俺に欠けていて、ずっと探していたものを埋めてくれ存在であることは、疑いようがない。
「…悠」
「ん?なんだ?」
「他のやつに構ったりしたら、俺もマロンみたいに拗ねるからな?」
「なに!そ、それは…困るな」
俺が目撃したあの日の出来事があってから、悠はマロンの機嫌を損ねないようにかなり注意を払っているらしい。
あんな生きた心地のしなかったことは、もう二度と味わいたくない!と、泣きそうな顔で俺に語る悠は、思わず襲いたくなるほど可愛かった。
「じゃあ飼うのは、俺とマロンだけにしとけよ?」
「…そうだな。史狼もなかなか嫉妬深いようだからな」
「よし」
俺は悠に釘をさせたことに満足し、彼女を後ろから抱き締め、首筋に顔を埋める。
「約束な?」
「ああ、私は嘘はつかない主義だぞ?心配するな」
悠は庇護欲をそそる見た目とは裏腹に、相変わらず男前な性格をしている。
まあ、これで当分は安心か。俺のようなやつが現れてもそう簡単には了承しないはずだ。
「あーやっぱ…」
「ん?」
俺は悠が好きだ。俺の気持ちなんか何にも知らずに抱き付てくる悠が、時には憎らしくもあるが、きっとこの気持ちは何があっても変わらない。
「いや、なんでもない」
「そうか?それならいいが、飼い主には隠し事はせず、なんでも話すんだぞ?」
「なんでも?」
「もちろんなんでもだ。嫌なのか…?」
「いや、まあ…いいけど」
「うむ、そうか。それならよかった」
悠は一瞬だけ不安そうな顔をしたが、俺の返事を聞くと、安心しきった顔で笑った。
今は飼い主と犬でも構わない。
まあ、俺ほど主人に尽くすやつはいないだろうが。
だから、早く俺を好きになれ。犬としてだけでなく、一人の男として。
俺がずっと求めていたもの。
それは、何も考えずに『夢中』になれるもの、ただそれだけだった。
流されるように生きるしかないと思っていた俺が、夢中になり、誰にも渡したくないと執着する存在。
それを見つけ、手に入れることのできた俺は、学校のやつらが羨むマロンよりも、きっとずっと幸せ者に違いない。
《End》