第37話
日記?
そんなものをつけた覚えはない。でも、何故だか見覚えのあるノート。
また、だ。この既視感。
記憶にはないくせに体で覚えている感覚。思い出せなくていらつく俺。
なにか、何か忘れているような焦燥感。
1ページ目をめくる。
***
*
* ○月△日 我ながら日記をつけるなんておかしいと思う。
* はじまりは、夜神さんが日記をつけていると聞いて、なんだけれど。
* ま、事務的なことが中心かな。
* 俺が書くんだから当然でしょ。
*
* 夜神さんに会って俺は随分変わったと思う。
* 以前のように文句ばかり並べるのではなく、
* 一つクッションを置くことができるようになった。
* 相変らずの微笑だけれど、実は結構こんな自分も気に入っている。
*
* ある日、朝広が不思議そうに言った。
*「なんかお前、変わったな」
* そう、なんだか前みたいな触ったら棘があるような感じじゃなくて、
* なんか、柔らかい花びらもあるって感じ。
* そう言われて不思議に笑みがこぼれた。
*
*――独り占めしている気分。
*
* 彼女との記憶はもう二人にはない。
* でも、せめて彼女と、そんな自分のことだけは忘れたくなくて
*
*――思い出せますように。
*
* そんな小さな祈りをこめて書き綴る。
*
***
何を思い出すんだろう? 彼女……『夜神さん』って誰?
でも、ストンとこの名前が俺の心に落ちてくる。ああ、俺がずっと気になっていたのは、この人だ。
でも俺の記憶にはない。誰かも分からない。まるでそこだけすっぽり抜けてしまったように記憶がないんだ。
俺の小さな祈りは、俺には届かないのだろうか。
場所を変える。
端の布団に陣取り、その上に寝ころがって震える指でページをめくる。
読んでしまったら何かが俺の中で変わるかもしれない。そんな引き返すことができないような予感を抱きながら。
***
*
* ○月□日 1週間というのはすごく短い期間で、
* こうして一緒にいて、常に記憶を更新して、
* さらに日記までつけて忘れないように努力しても
* 時を止めることは出来ない。
*
*
* ○月×日 そして俺は彼女と契約した。
* 俺、夜神さんのことが好きみたいだ。
* 彼女が倒れた時、強く、強く思った。
*
*――戻ってきなよ。
*
* また俺と話をしよう。
* 夜神さんの考えをもっと聞きたい。
* いつも何かご馳走になっているから、今度は俺が作るよ。
* ストバスも観においで。
* 夕馬と朝広に紹介するから。
* あいつら覚えが悪いから、何回でも紹介するから。
*
*――契約しよう。一緒にいられるように。
* 大丈夫、俺結構したたかだからどんなところでもやっていける。
*
*――気が付いたんだ。
* 夜神さんと一緒にいる時間がすごく大切なものなんだって。
* なんていうんだろう。この気持ち。
*
*――そう、好きなんだ。
* しっかりとした考えをもっている夜神さんが好き。
* 仮面を被っている夜神さんも、
* その奥に覗かせる子供のように寂しがりやの夜神さんも、
* 好きなんだ。
*
* 今はなんとも思われていなくても、
* ただの巻き込まれた人からのスタートでも
* 人と人の縁を結ぶ糸の端は、
* 俺と夜神さんの間にしっかりとつながっている。
* 俺はそれを絶対に切ったりしない。
* そうすればどんなに離れてていても、
* その糸を手繰り寄せれば会えるでしょ?
*
*――戻っておいで。
* いつか君ごと取り返しに行くから。
*
***
――目の前が真っ白になった。
儚い微笑みで笑っていた彼女。
俺がキスしただけで真っ赤になってしまった彼女。
「自分は作り物の微笑だから」といった彼女の本当に笑った顔が、
恥ずかしそうに慌てる顔が、
不思議そうに見つめる顔が、
それから、
それから……
――「Yes。じゃあ俺のこと英明って呼んでね。いいでしょ。俺は万夢って呼ぶからね」
万夢
万夢はどうしてる?
分からない。
***
*
* 俺たちは、このまま一緒に道を進むことが
* できるのだろうか? もしかすると未来では、
* 道が別れて離れていってしまうのかもしれない。
* 何が起こるかなんて俺には予測できないのだから。
* でも、一緒にいても、離れてしまっても、
* 思う気持ちに変わりはない。
*
***
俺は!
***
*
* 俺にできることは少ししかないけれど、
* できることから始めていこう。
*
* 例えば、彼女の心を縛っている鎖をほぐして、
* 現世とつなぎとめる鎖にすることとか。
* 例えば、夢の中にこもってしまいたいと
* 思わないようにするとか。
* 例えば、素直に笑える時間を増やすこと。
* いつまでも側にいるから。
*
***
俺は!
ぎゅっと掴んだ日記がしわを作って大きく歪んだ。ポタリ、ポタリと涙がこぼれる。
俺はうそつきだ!
側にいるって言っていたのに!
「英明~なんか、すっげー可愛い女の子が……」
全く何も喋らなくなってしまった俺を心配するかのように朝広がひらりと写真をもって匍匐前進でこちらにやってきて、絶句してしまった。
日記に顔を当てるようにして隠すけれど、それでも涙がこぼれて仕方ない。
朝広の手元には、俺と、朝広と、夕馬と、そして花のような笑顔で笑っている万夢。
思い出した。




