第35話
「大地、俺たちは少しばかり遅かったようだね」
「……最後に話せなかったな」
俺と空太が、比留間の部屋に着いた時、比留間と万夢は気持ちよさそうに昼寝していた。
――手をつないで。
一瞬死んでいるのかと思ったが、息をしているようなので2人とも生きているらしい。
その寝顔は本当に幸せそうだった。
「万夢は不幸ではなかったのだな」
その頬にそっと触れて……それから、つないだ手を指先から1本1本外していく。
一体どんな夢を見ているのだろう?
初めて彼女は自分の為に自分の夢を見ているのかもしれない。万夢は夢の世界に入った。
これからはゆっくり夢を見ることができるだろう。誰もそれを邪魔しない。邪魔できない。
俺も、空太も、例えどんなに金を持っていたとしても、どんなに考えようとも彼女を夢から覚ますことはできない。だから、願わくば今はできるだけ、幸せな夢を見ているように。
「大地、急ぐぞ。明日になったら俺たちの記憶からも彼女が消えてしまう」
「ああ、分かっている」
ならば何の力もない俺たちにできることは、
――万夢が幸せな気分で目覚めることができる環境を整えてやることだけだ。
そう、それは奇跡的な確率での話だけれど、でも何億分の一の確率でもいい、万夢が目覚めるなら。ゼロでない限り、俺たちはその可能性を捨てるわけにはいかないのだ。
元婚約者候補として、契約者として。
話は俺が空太のオフィスにいた頃に戻る。
「彼女の寿命は今日だ」
空太が絶望的な表情で絶望的な事実を告げた時、コンコンと扉を叩くノックの音で俺は我に返った。
緊急の要件があるという話に、俺は席を立ちドアの前に立つと、「どうぞ」という空太の言葉に従って、中肉中背の40代半ばくらいの男が入ってくる。その顔に俺は見覚えがあった。
あれは確か、先代の夢見の伴侶ではないか。
「本家から連絡をもらってね。船で入国したから少し時間がかかってしまったよ」
つい最近までこの国を離れていたからか、少し訛りが混ざった言葉で遅くなったことを詫び、その男は1枚の一筆箋を差し出した。桜の花びらを漉き込んだ和紙に、流れるような筆使いで何か書かれている。
「このときために先代が俺宛に残したものらしいよ。最後にね」
彼は愛しいものを見るように、その和紙に視線を落とした。
まるで、もう覚えていない妻のことを思い出すように。
万夢が最後の力を使って俺たちのために夢見したのと同様に、先代も婚約者のために夢見をしたとでも言うのだろうか?
よく見ると、一緒に銀行の保管証書がついている。大切に銀行にしまわれていたのだそうだ。
「走り書きで、それこそ本当の最後に彼女が見た夢をメモにしたものなのかも知れないのだけれど、ここには彼女が夢見の力を使ってでも伝えたかった大事なことがあるのかなと思って、持ってきたんだ」
夢見は自分のための夢を見ることができない。けれども、もし「次の夢見」のためなら?
未来の夢は体に負担が掛かるけれども、彼女はやってのけた。
そして必死でメモを残して僕に託した。
――『もしも婚約者が何よりも夢見を愛していて、夢見もまた同じならば、もう資格はありません。』
そう、そこには書かれていた。
「夢見の資格がないとは?」
「本来なら夢見は誰にもその心を捧げてはならない。
この世の誰のものでもないからこそ、夢の住人として許されるということか?」
半信半疑のまま、その男を見ると、ゆっくりと微笑んだ。
――あの、幸せそうな笑顔で。
だとすると、だとすると!
そうだ。
もしかすると、もしも万夢と比留間が……。
「夢の世界が彼女を手放してくれるかどうかは分からないけれど、
もしかしたら彼女がこの世界に戻ってくる可能性があるわけだ。
夢見の夜神万夢としてではなく、ただの夜神万夢としてだけど」
それでもよいならば、君たちがやれることは分かるかい?
「「無論だ」」
例え忘れても、記憶は残る。
記憶を消されても、インプットされた事実の跡は消えない。
だから、もし比留間が万夢を思い出せたら、俺はあいつにくれてやろう。
――万夢へと続く鍵を。
目覚めさせることができるなら、やってみろ。
そういうことなら、「「非現実的なことも悪くない」」
ふっと笑みがこぼれた。
万夢を延命装置の整っている、俺たちの企業系列の病院へと入れる。時間は無限にあるわけではないけれど、少しくらいなら万夢も待てるだろう? 巨額の私費を投じて最高の医療メンバーをつける。
そして彼女の眠るベットの傍らで、俺は自分への指示書を書く。
的確に。
きっと明日みれば首を傾げるであろう指示書。空太も何か書いている。
万夢を見ると、吸い込まれるように目を閉じている。
早く目覚めればいい。
俺の手に握られた1つのメモ。
――もし比留間英明という人物が、俺に夜神万夢という少女について尋ねたら、この手紙と鍵を必ず渡せ。




