陽炎に霞む
山には食べるものがない。そこで仕方なく、人間の畑を荒らす。
しかし人間は恐ろしい。罠や飛び道具を使って僕達を追い払い、時には殺す。
「人間だけじゃないよ、恐ろしいのは」
僕にそう教えてくれたのはタヌキの青年だった。
「クマもうろうろしているからね。食べ物だけに気を取られず、逃げ道も確保しておきなよ」
任せておけよ、と答えてやった。僕はキツネ。鼻が利くのはお互い同じくらいだけど、危険を嗅ぎ分ける能力は君たちタヌキの上をいくからね。
「キツネはずる賢いってか」
言ってくれるね。ところで、どうしてクマは怖いんだい。
「おいおい、親に教わらなかったのかい。クマは僕達を食べるんだぜ」
そいつは恐ろしい。肝に銘じておくよ。
あれから一週間。タヌキの青年は僕の前に姿を見せなくなった。人間にやられたか、クマにやられたか。世知辛い世の中である。
仲間も減ったが腹も減る。今日も畑で餌とりだ。
ふと気づくと、蝉の声がしない。どうやら餌とりに夢中になりすぎていたようだ。
誰かの足音!
氷柱を呑み込んだかのように背筋が硬直し、危うく悲鳴を漏らしかける。
体を丸め、耳を澄ます。
人間? いや違う。
人間の足音はもっとがさつで、もっとのろまだ。
とにかく逃げなきゃ。
しかし、足音は僕が予定していた逃げ道を――、罠のない道を正確に辿ってくる。
引き返せないのなら、進むしか!
「待ちたまえキツネくん」
鼻先を人家に阻まれ右往左往している僕の耳に、穏やかな声が届いた。
「食べ物がなくて困っているのはお互い様。君を食べたりしないから安心したまえ」
そう言って微笑んだのは紛れもないクマだ。人間なみの体格を黒い体毛に包み、鋭い爪を備えた前足は、僕の食べさしを掴んでいた。
それを囓るクマさんの姿が微笑ましい。僕は果実をもぎとり、クマさんに手渡した。
身体の大きな君が僕の食べさしなんて。新しいのを食べなよ。
「親切なキツネくんだ」
クマさんの顔には穏やかな笑み。
タヌキの青年と会えなくなった代わりに、新しい仲間ができた。
それから僕は、クマさんの姿を見るたびに積極的に話しかけた。
猛暑の中での涼の取り方、銃を持った人間からの逃げ方など、ためになる話を聞いた。お返しに人間の罠の見分け方を教えた。
亡き家族や仲間の思い出など、湿っぽい話もした。
実入りが悪い日は二人で食べ物を分け合った。
他の動物たちも近付かない秘密の場所を得て、月夜に二人で歌い合った。
出会ってから一週間が経つ。僕達はもう無二の親友だ。
今日もまた畑へ。耳を澄ますと、足音が遠ざかっていく。
しめた。人間が出かけていく。
ここらの畑は野菜も果物も特別うまいが、ついに網がかけられた。でも僕はずる賢いキツネ。悪いけど、いつでも侵入できるように穴を掘っておいたのさ。
僕じゃなきゃ入れない。できるだけ盗み出しておき、後でクマさんと分け合おう。
そのとき風上からクマさんの臭いが届いた。
早速駆け出そうとした足を、僕は止める。
低く抑えた話し声。足音は二組だ。
「よう兄貴。ずいぶん仲良くなったようだね」
この声! タヌキの青年だ。
「まあ待てよ、タヌキくん。キツネくんはまだ役に立つ。人間の罠も良く知っている」
役に立つ? 出て行って問い質したいけど、さっきから漂っている危険な臭いが僕をその場に縫い付ける。
「もう待つのは飽きた。ここいらの餌場を独り占めしたいんだ。だからキツネ食べちゃってよ、兄貴」
タヌキの青年がそう言った途端、僕はダッシュした。ここから遠くへ。とにかく遠くへ。
「しまった、逃がすな兄貴」
逃げ道なんて考えてない。考える余裕もない。畑の悪路に足を取られて走りにくい。
視界いっぱいに畑の土。そのまま顔から突っ込む。
転んだ。何故? 酷い耳鳴り――そうか、銃声。まるで鼓膜を殴りつけられたようだ。いまだに目が回り、足に力が入らない。
突如、鼻先の土くれが跳ね上がり、土砂が僕の体に降り注ぐ。
火薬の臭いが漂う。怒声とともに、正面から人間が現れた。
もう逃げ場はない。どうにでもなれ。
怪我はしていない。身体は痛くない。
タヌキの青年に騙された。心が痛かった。
破裂音。
僕の背後で苦鳴が聞こえた。
振り返ると、タヌキの青年が倒れている。
次の刹那、僕の視界が遮られる。
黒く大きな塊が頭上を飛び越えたのだ。
破裂音。もう一発。轟音の余韻が尾を引いた。
僕の頭の中は真っ白になった。
人間の声が遠ざかる。
掠れがちなクマさんの声が頭上から降り注いだ。
「最初は君を食べるつもりだった。でも今は違う」
もういいよ、そんなこと。どうして僕を庇ったんだ。
「逃げるんだキツネくん。じきに人間達が戻ってくる」
なら二人で一緒に逃げようよ!
「走れないよ、満腹で。食らったのは鉛の弾だけどね」
遠くから人間の怒声。仲間を呼んだのか。
「次に生まれるとしたらキツネがいいな」
ばかやろう。クマでいい。クマだからこそ。
僕は駆け出した。脱兎の如く。
鼻がツンとした。視界が歪む。
真夏の景色が陽炎に霞む。
この短編は短編企画「秋風月に花束を」への参加作品です。
読んでくださった方、ありがとうございます。
さて今回の短編企画にも主宰者がご用意くださったテーマがございます。
・表テーマ 『感謝』。感謝の解釈は自由。
・裏テーマ 読者に少なからず驚きを与える。
裏テーマはとても難しい。
他の参加者様の作品を拝読して勉強いたします。
なお、私自身のささやかなこだわりとして、作中では「ありがとう」及びそれに類する言葉を使っておりません。
表テーマがうまく表現できていればよいのですが。
【追伸】
少し家を空けておりました。8月16日、ようやくそうじさんのメッセージを確認した状態です、すみません。それで、あの……。
「ドラスティックによろしく!」