吾輩は旅人であるはずだった
吾輩は旅人である。
いや、正確には旅人志望である。
まだ町内から出たこともないのだが、志は高い。
高いだけで、脚はまったくついてこない。
住宅街のはずれ。
古い塀、ちょうどいい車の下、昼寝に向いた植え込み、逃走経路に優れた細道。
吾輩はこのあたり一帯を、ほぼ自宅として利用していた。
野良猫にしてはずいぶん図々しい表現だが、縄張りとはそういうものだ。
人間でいうところの持ち家である。
書類はない。
気持ちの問題である。
人間は嫌いではない。
というより、嫌いではなさすぎる。
普通の猫なら警戒するような相手にも、吾輩はわりとふらっと寄っていく。
知らない手が伸びてきたら、とりあえず匂いは嗅ぐ。
危機管理能力を母猫の腹の中に置いてきたような性格だが、それでも今日まで生きているので、これはもう才能と言っていい。
食事はいつも適当だった。
腹が減ったら探す。
見つからなければ諦める。
獲れそうなら獲る。
落ちていれば拾う。
それで十分だと思っていた。
生きるとはそういうものだと、特に疑問も持たずにいた。
あの日までは。
夕方、風向きが変わった。
来た。
何か来た。
鼻の奥に、妙に濃い匂いが突っ込んできた。
油。
塩。
肉っぽい何か。
魚っぽい何か。
それらが仲よく手を組み、旨さという一点に向かって全力疾走してくる。
なんだこの暴力は。
吾輩は吸い寄せられるように路地へ向かった。
そこに、小さなかけらが落ちていた。
人間の子どもが食べ物の包みを落としたらしい。
落とすな。
いや今だけは落としてくれてありがとう。
吾輩は慎重に近づき、くんくんと匂いを確かめた。
危険かもしれない。
罠かもしれない。
だが、そんな理性は一秒しかもたなかった。
ぺろり。
終わった。
吾輩の中の何かが終わった。
いや、始まった。
うまい。
とんでもなくうまい。
舌の上で祭りが開催された。
しかも町内会レベルではない。
全国大会である。
魚のようで魚ではない。
肉のようで肉でもない。
自然の味ではないくせに、自然に勝つ気まんまんのふてぶてしさ。
加工食品。
人間め、こんなものを日常的に食べているのか。
ずるいだろう。
規約違反ではないのか。
吾輩はその場で悟った。
もう前の自分には戻れない。
昨日までの「腹が満たされれば十分」という吾輩は死んだ。
今日からは違う。
吾輩は旨いもののために生きる。
旅に出よう。
この匂いの大元へ。
もっとすごいものがある場所へ。
至高の一皿が眠る都へ。
吾輩は塀の上に飛び乗り、遠くを見た。
夕日が町を照らしていた。
見慣れた屋根。
見慣れた道。
その先へ行けばいいだけである。
簡単だ。
雰囲気としては。
そして吾輩は、前足を一歩出した。
止まった。
いや無理である。
知らない匂いがする。
知らない音がする。
知らない風が吹く。
怖い。
急にものすごく怖い。
ついさっきまで都だの至高だの言っていた猫とは思えないほど、吾輩は真顔で固まった。
おかしい。
旅に出る決意はした。
したのだ。
したのだが、身体のほうが「聞いてませんけど」と全力で反対している。
縄張り本能というやつである。
いらないところで仕事が丁寧だ。
吾輩は何度か挑戦した。
塀の端まで行って戻る。
角まで行って戻る。
空き地の手前まで行って毛づくろいを始める。
傍から見れば散歩好きの猫。
内情としては、志だけ高い引きこもり予備軍である。
そんなある日、空き地に大きなトラックが停まっていた。
人間は時々ああいう巨大な鉄の塊を転がしている。
見ているだけで怖い。
だが、その荷台の隅に、吾輩の心を乱すものがあった。
窪みである。
狭い。
暗い。
しかもぴったり収まりそう。
これはいけない。
猫として抗えない。
吾輩はふらふらと荷台に飛び乗り、その窪みに体をねじ込んだ。
はい、優勝。
最高である。
背中も腹もひげの先も、ちょうどよく囲まれている。
世界は広くて怖いが、狭い場所だけは常に正義だ。
吾輩が満足して丸くなった、その瞬間。
ゴウン、と荷台が揺れた。
えっ。
ちょっと待て。
待て待て待て。
トラックが動き出した。
嘘だろ。
吾輩の旅立ち、だいぶ他力本願で始まった。
降りたい。
ものすごく降りたい。
だがもう遅い。
鉄の箱は問答無用で走り出し、吾輩は隅っこで小さくなりながら、自分の人生設計の雑さを反省した。
旅とは何か。
少なくとも、こんなに胃が縮むものではないと思っていた。
やがてトラックが止まり、人の気配が消えたあと、吾輩はそろそろと荷台を下りた。
知らない町だった。
終わった。
旅どころではない。
まず帰りたい。
でも帰り道を知らない。
致命的である。
腹が減る。
寝床がない。
頼れる塀もない。
だが、ここでうずくまっていても晩飯は出てこない。
働くしかない。
猫にできる仕事は限られている。
かわいがられることだ。
吾輩は営業を開始した。
一軒目。
玄関先で座り込み、控えめににゃあと鳴く。
子どもが出てきて「ねこー!」と叫ぶ。
手応えあり。
採用か。
と思ったら、奥から母親が出てきて「だめです」と一言で不採用になった。
採用担当が強い。
二軒目。
足元にすり寄る。
悪くない反応。
かなり悪くない。
いけるか。
と思ったら「首輪がないわねえ」と言われ、そのまま門の外にやさしく出された。
やさしい不採用が一番効く。
三軒目。
ここまで来ると、吾輩もだいぶ顔に疲れが出ていたと思う。
営業スマイルにも限界がある。
夕暮れの路地をとぼとぼ歩いていたそのとき、吾輩は運命と再会した。
段ボール箱である。
少し潰れている。
口が半分ふさがっている。
すばらしい。
満点だ。
吾輩は吸い込まれるように近づき、そっと頭を突っ込んだ。
勝ちである。
完全勝利である。
狭い。
暗い。
ぴったり。
この世には豪邸という概念があるらしいが、猫にとっては違う。
狭いほどいい。
入った瞬間に「ここ、私のために設計されましたよね」と思える空間こそ正義である。
吾輩は箱の中で満足げに丸くなった。
ここは帝国だ。
吾輩だけの帝国。
昼はここで寝る。
夜は食べ物を探す。
自由で、気楽で、しかも帰る場所がある。
旅の目的だったグルメ探しはどうしたのか。
もちろん忘れていない。
忘れてはいないのだが、段ボールがあまりにも快適で、情熱の火力が目に見えて落ちていた。
快適さは夢を腐らせる。
たいへん恐ろしい。
それでも生活は悪くなかった。
昼はぬくぬく。
夜はふらふら。
誰にも指図されず、好きなときに歩き、眠くなったら箱へ戻る。
これ、完成では。
もしかして吾輩、もう上がりでは。
そう思い始めたころだった。
ガシャン。
視界が金網になった。
は?
ちょっと待て。
待ってくれ。
吾輩はまだ何も悪いことをしていない。
段ボールに住んでいただけである。
だが人間たちは容赦なかった。
ひょいと持ち上げられ、そのままどこかへ連行される。
終わった。
旅猫ここに散る。
そう思った。
連れて行かれた先は、冷たい匂いのする建物だった。
吾輩は隅で固まり、いよいよ最期かと覚悟した。
だが始まったのは、注射、洗浄、爪切り、耳チェック、ブラッシングである。
何だこれは。
処刑ではない。
健康診断だ。
しかもわりと本気のやつだ。
やめてほしい。
吾輩は野良としての誇りがある。
あるのだが、洗われると普通にさっぱりした。
悔しい。
さらにそのあと出てきた皿を見て、吾輩はもっと悔しくなった。
うまい。
かなりうまい。
こんな状況で出す飯ではない。
感情が追いつかない。
数日後、吾輩は毛並みまで整えられ、別の場所へ移された。
そこには猫が何匹もいた。
人間もいっぱいいた。
ざわざわしている。
なるほど。
分かった。
ここは合同面接会である。
そういうことなら話は早い。
吾輩は姿勢を正した。
営業職としての経験が違う。
路地裏での飛び込み営業、三連敗。
あの実績はだてではない。
大声を出す人間は避ける。
手の動きが落ち着いている相手を見る。
服や持ち物から、ふかふかの気配を読む。
大事なのは第一印象だ。
媚びではない。
戦略である。
やがて、一組の人間が吾輩の前で足を止めた。
声が静か。
動きも穏やか。
しかも、なんとなく家にクッションが多そう。
ここだ。
吾輩はすっと近づき、足に頬をこすりつけ、それから顔を見上げた。
にゃ。
短く、上品に、押しつけがましくなく。
完璧である。
人間たちの表情がふっとゆるむ。
勝った。
内定である。
こうして吾輩は家猫になった。
新しい家は快適だった。
寝床が柔らかい。
飯が安定している。
雨が入らない。
冬が寒くない。
人間がこまめに撫でてくる。
最高では。
旅の果てに待っていたのが終の棲家とは、人生はなかなか皮肉である。
猫生か。
まあどちらでもよい。
吾輩はすぐにこの暮らしに順応した。
朝はちょっとだけ甘える。
昼は日の当たる場所を占領する。
夜は「今日は特別に撫でさせてやるか」という顔をする。
すると人間はたいへん喜ぶ。
ちょろい。
だが窓の外を風が通るたび、吾輩の胸は少しだけ騒ぐ。
あの先には何があるのか。
あの匂いの元には何があるのか。
まだ知らない旨いものが、この世界のどこかにあるのではないか。
ふかふかのクッションに埋まりながら、吾輩は思う。
安定はいい。
とてもいい。
だが、ちょっとだけ退屈でもある。
だからたぶん、吾輩は今も旅人だ。
外へ出る気はあまりないが、気持ちとしては旅人である。
かなり大事なことである。




