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吾輩は旅人であるはずだった  作者: 癒されたい年頃


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1/1

吾輩は旅人であるはずだった

吾輩は旅人である。


いや、正確には旅人志望である。


まだ町内から出たこともないのだが、志は高い。


高いだけで、脚はまったくついてこない。


住宅街のはずれ。


古い塀、ちょうどいい車の下、昼寝に向いた植え込み、逃走経路に優れた細道。


吾輩はこのあたり一帯を、ほぼ自宅として利用していた。


野良猫にしてはずいぶん図々しい表現だが、縄張りとはそういうものだ。


人間でいうところの持ち家である。


書類はない。


気持ちの問題である。


人間は嫌いではない。


というより、嫌いではなさすぎる。


普通の猫なら警戒するような相手にも、吾輩はわりとふらっと寄っていく。


知らない手が伸びてきたら、とりあえず匂いは嗅ぐ。


危機管理能力を母猫の腹の中に置いてきたような性格だが、それでも今日まで生きているので、これはもう才能と言っていい。


食事はいつも適当だった。


腹が減ったら探す。


見つからなければ諦める。


獲れそうなら獲る。


落ちていれば拾う。


それで十分だと思っていた。


生きるとはそういうものだと、特に疑問も持たずにいた。


あの日までは。


夕方、風向きが変わった。


来た。


何か来た。


鼻の奥に、妙に濃い匂いが突っ込んできた。


油。


塩。


肉っぽい何か。


魚っぽい何か。


それらが仲よく手を組み、旨さという一点に向かって全力疾走してくる。


なんだこの暴力は。


吾輩は吸い寄せられるように路地へ向かった。


そこに、小さなかけらが落ちていた。


人間の子どもが食べ物の包みを落としたらしい。


落とすな。


いや今だけは落としてくれてありがとう。


吾輩は慎重に近づき、くんくんと匂いを確かめた。


危険かもしれない。


罠かもしれない。


だが、そんな理性は一秒しかもたなかった。


ぺろり。


終わった。


吾輩の中の何かが終わった。


いや、始まった。


うまい。


とんでもなくうまい。


舌の上で祭りが開催された。


しかも町内会レベルではない。


全国大会である。


魚のようで魚ではない。


肉のようで肉でもない。


自然の味ではないくせに、自然に勝つ気まんまんのふてぶてしさ。


加工食品。


人間め、こんなものを日常的に食べているのか。


ずるいだろう。


規約違反ではないのか。


吾輩はその場で悟った。


もう前の自分には戻れない。


昨日までの「腹が満たされれば十分」という吾輩は死んだ。


今日からは違う。


吾輩は旨いもののために生きる。


旅に出よう。


この匂いの大元へ。


もっとすごいものがある場所へ。


至高の一皿が眠る都へ。


吾輩は塀の上に飛び乗り、遠くを見た。


夕日が町を照らしていた。


見慣れた屋根。


見慣れた道。


その先へ行けばいいだけである。


簡単だ。


雰囲気としては。


そして吾輩は、前足を一歩出した。


止まった。


いや無理である。


知らない匂いがする。


知らない音がする。


知らない風が吹く。


怖い。


急にものすごく怖い。


ついさっきまで都だの至高だの言っていた猫とは思えないほど、吾輩は真顔で固まった。


おかしい。


旅に出る決意はした。


したのだ。


したのだが、身体のほうが「聞いてませんけど」と全力で反対している。


縄張り本能というやつである。


いらないところで仕事が丁寧だ。


吾輩は何度か挑戦した。


塀の端まで行って戻る。


角まで行って戻る。


空き地の手前まで行って毛づくろいを始める。


傍から見れば散歩好きの猫。


内情としては、志だけ高い引きこもり予備軍である。


そんなある日、空き地に大きなトラックが停まっていた。


人間は時々ああいう巨大な鉄の塊を転がしている。


見ているだけで怖い。


だが、その荷台の隅に、吾輩の心を乱すものがあった。


窪みである。


狭い。


暗い。


しかもぴったり収まりそう。


これはいけない。


猫として抗えない。


吾輩はふらふらと荷台に飛び乗り、その窪みに体をねじ込んだ。


はい、優勝。


最高である。


背中も腹もひげの先も、ちょうどよく囲まれている。


世界は広くて怖いが、狭い場所だけは常に正義だ。


吾輩が満足して丸くなった、その瞬間。


ゴウン、と荷台が揺れた。


えっ。


ちょっと待て。


待て待て待て。


トラックが動き出した。


嘘だろ。


吾輩の旅立ち、だいぶ他力本願で始まった。


降りたい。


ものすごく降りたい。


だがもう遅い。


鉄の箱は問答無用で走り出し、吾輩は隅っこで小さくなりながら、自分の人生設計の雑さを反省した。


旅とは何か。


少なくとも、こんなに胃が縮むものではないと思っていた。


やがてトラックが止まり、人の気配が消えたあと、吾輩はそろそろと荷台を下りた。


知らない町だった。


終わった。


旅どころではない。


まず帰りたい。


でも帰り道を知らない。


致命的である。


腹が減る。


寝床がない。


頼れる塀もない。


だが、ここでうずくまっていても晩飯は出てこない。


働くしかない。


猫にできる仕事は限られている。


かわいがられることだ。


吾輩は営業を開始した。


一軒目。


玄関先で座り込み、控えめににゃあと鳴く。


子どもが出てきて「ねこー!」と叫ぶ。


手応えあり。


採用か。


と思ったら、奥から母親が出てきて「だめです」と一言で不採用になった。


採用担当が強い。


二軒目。


足元にすり寄る。


悪くない反応。


かなり悪くない。


いけるか。


と思ったら「首輪がないわねえ」と言われ、そのまま門の外にやさしく出された。


やさしい不採用が一番効く。


三軒目。


ここまで来ると、吾輩もだいぶ顔に疲れが出ていたと思う。


営業スマイルにも限界がある。


夕暮れの路地をとぼとぼ歩いていたそのとき、吾輩は運命と再会した。


段ボール箱である。


少し潰れている。


口が半分ふさがっている。


すばらしい。


満点だ。


吾輩は吸い込まれるように近づき、そっと頭を突っ込んだ。


勝ちである。


完全勝利である。


狭い。


暗い。


ぴったり。


この世には豪邸という概念があるらしいが、猫にとっては違う。


狭いほどいい。


入った瞬間に「ここ、私のために設計されましたよね」と思える空間こそ正義である。


吾輩は箱の中で満足げに丸くなった。


ここは帝国だ。


吾輩だけの帝国。


昼はここで寝る。


夜は食べ物を探す。


自由で、気楽で、しかも帰る場所がある。


旅の目的だったグルメ探しはどうしたのか。


もちろん忘れていない。


忘れてはいないのだが、段ボールがあまりにも快適で、情熱の火力が目に見えて落ちていた。


快適さは夢を腐らせる。


たいへん恐ろしい。


それでも生活は悪くなかった。


昼はぬくぬく。


夜はふらふら。


誰にも指図されず、好きなときに歩き、眠くなったら箱へ戻る。


これ、完成では。


もしかして吾輩、もう上がりでは。


そう思い始めたころだった。


ガシャン。


視界が金網になった。


は?


ちょっと待て。


待ってくれ。


吾輩はまだ何も悪いことをしていない。


段ボールに住んでいただけである。


だが人間たちは容赦なかった。


ひょいと持ち上げられ、そのままどこかへ連行される。


終わった。


旅猫ここに散る。


そう思った。


連れて行かれた先は、冷たい匂いのする建物だった。


吾輩は隅で固まり、いよいよ最期かと覚悟した。


だが始まったのは、注射、洗浄、爪切り、耳チェック、ブラッシングである。


何だこれは。


処刑ではない。


健康診断だ。


しかもわりと本気のやつだ。


やめてほしい。


吾輩は野良としての誇りがある。


あるのだが、洗われると普通にさっぱりした。


悔しい。


さらにそのあと出てきた皿を見て、吾輩はもっと悔しくなった。


うまい。


かなりうまい。


こんな状況で出す飯ではない。


感情が追いつかない。


数日後、吾輩は毛並みまで整えられ、別の場所へ移された。


そこには猫が何匹もいた。


人間もいっぱいいた。


ざわざわしている。


なるほど。


分かった。


ここは合同面接会である。


そういうことなら話は早い。


吾輩は姿勢を正した。


営業職としての経験が違う。


路地裏での飛び込み営業、三連敗。


あの実績はだてではない。


大声を出す人間は避ける。


手の動きが落ち着いている相手を見る。


服や持ち物から、ふかふかの気配を読む。


大事なのは第一印象だ。


媚びではない。


戦略である。


やがて、一組の人間が吾輩の前で足を止めた。


声が静か。


動きも穏やか。


しかも、なんとなく家にクッションが多そう。


ここだ。


吾輩はすっと近づき、足に頬をこすりつけ、それから顔を見上げた。


にゃ。


短く、上品に、押しつけがましくなく。


完璧である。


人間たちの表情がふっとゆるむ。


勝った。


内定である。


こうして吾輩は家猫になった。


新しい家は快適だった。


寝床が柔らかい。


飯が安定している。


雨が入らない。


冬が寒くない。


人間がこまめに撫でてくる。


最高では。


旅の果てに待っていたのが終の棲家とは、人生はなかなか皮肉である。


猫生か。


まあどちらでもよい。


吾輩はすぐにこの暮らしに順応した。


朝はちょっとだけ甘える。


昼は日の当たる場所を占領する。


夜は「今日は特別に撫でさせてやるか」という顔をする。


すると人間はたいへん喜ぶ。


ちょろい。


だが窓の外を風が通るたび、吾輩の胸は少しだけ騒ぐ。


あの先には何があるのか。


あの匂いの元には何があるのか。


まだ知らない旨いものが、この世界のどこかにあるのではないか。


ふかふかのクッションに埋まりながら、吾輩は思う。


安定はいい。


とてもいい。


だが、ちょっとだけ退屈でもある。


だからたぶん、吾輩は今も旅人だ。


外へ出る気はあまりないが、気持ちとしては旅人である。


かなり大事なことである。

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