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恋愛小説のはずでした

姉を離縁した義兄から、次の妻に私が指名されました――もちろん、当然のようにお断りします

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/11

 姉が離縁されたと聞いた時、私は胸を撫で下ろした。これでもう、姉はあの家へ戻らなくていい。そう思った直後、玄関に立つ姉を見て、安堵した自分を少しだけ恥じた。


 三年前、嫁いでいった時には馬車二台分あった荷物が、今は小さな鞄ひとつになっていた。薄灰色の外套は雨に濡れ、頬は以前よりも痩せている。


「ただいま、エリアーヌ」


「お帰りなさい、お姉様」


 受け取った鞄は、あまりにも軽かった。公爵家で過ごした三年間まで、最初から存在しなかったことにされたような軽さだった。


「お部屋はそのままです。すぐに暖炉を入れさせます。温かいものも用意しますね。スープと、蜂蜜入りのお茶と、それから――」


「エリアーヌ。そんなに一度に言われても、全部は入らないわ」


 姉は困ったように笑った。以前なら、もっと自然に笑ったはずだ。今は笑顔を作ることさえ疲れるらしい。


「では、まずお茶にします」


「ええ。ありがとう」


 離縁されてよかったはずがない。姉は三年間、妻としてあの家に尽くした。領地から届く帳簿を確認し、夜会を取り仕切り、使用人同士の争いを収め、病に伏せた義母に代わって屋敷を守った。そのすべてを失って帰ってきた姉に、よかったなどと言えるはずがなかった。


 それでも私は、姉がもう義兄の顔色を窺わなくてよいことに、ほっとしていた。


 姉の夫だったヴィクトルは、姉を殴りも怒鳴りもしなかった。ただ、姉が何かを成し遂げるたび、それを当然のように自分の功績へ加えた。


 姉が疲れていれば、妻が夫を支えるのは当然だと返した。熱を出して寝込んだ夜でさえ、翌朝の来客名簿を整えるよう、寝台の脇へ書類を置いたという。休みたいと訴えれば、公爵夫人とは誰にでも務まるものではないと責め、実家へ帰りたいと願った時でさえ、君は私の妻なのだからもう少し家のことを考えろと、姉の方が身勝手であるかのように言った。


 そうして姉は、いつしか自分の希望を口にしなくなった。だから離縁の知らせが届いた時、私はひどく安堵したのだ。姉が失ったものを思えば喜べない。けれど、姉そのものを失わずに済んだ。


 その夜、姉は蜂蜜入りのお茶を半分だけ飲み、昔の自室で眠った。


 翌朝、義兄が我が家へやって来た。離縁に伴う財産の整理をするためだと聞いていたが、父と母は朝から姉の心配ではなく、公爵家との関係ばかりを気にしていた。


「公爵家との縁が完全に切れるのは困る」


 父は応接室を行き来しながら、何度も同じことを言った。


「お姉様は、もう公爵夫人ではありません」


「分かっている。だから困っているのだ」


 父にとって姉の結婚は、姉の人生ではなく、我が伯爵家と公爵家を結ぶ紐だったらしい。切れたなら、別の結び方を探せばよい。そんな顔をしていた。


 母は母で、姉にもう少し華やかな服を着るよう勧めていた。


「離縁されたからといって、みすぼらしい姿を見せてはなりません。こちらにも非があったと思われます」


「非があったのは、私なのでしょうか」


 姉が静かに尋ねると、母は目を逸らした。


「そういう話ではありません。ただ、世間というものは――」


「お母様。お姉様は昨日、帰ってきたばかりです」


「あなたは黙っていなさい、エリアーヌ」


 母は私をたしなめたが、姉に着替えを強いることは諦めた。


 やがてヴィクトルが到着した。三年前、姉を迎えに来た時と同じように濃紺の上着を隙なく着こなしていたが、姉を見る目には、もう夫としての体裁すら残っていなかった。


「クラリス。昨日のうちに無事着いたようだな」


「おかげさまで」


「突然の離縁となったことは申し訳なく思っている。だが、互いのためにはこれが最善だ」


 突然決めたのは自分なのに、互いのためと言えるのだから立派なものだと思う。


「私には、公爵家を次代へ残す義務がある。君では、その役目を果たせないと判断した。領地経営について口を出しすぎるうえ、使用人たちも君を頼るようになりすぎた。妻が夫より前へ出るのは好ましくない」


 姉の指先が、膝の上で重なった。


 私は耳を疑った。姉が役に立たなかったのではなく、役に立ちすぎたから気に入らなかったらしい。


「それで、お姉様を離縁なさったのですか」


「エリアーヌ嬢。これは私とクラリスの問題だ」


「私の家で、私の姉に向かって話していらっしゃいますので」


「相変わらず、はっきり物を言う」


 ヴィクトルは、なぜか満足そうに笑った。あまりにも分かりやすい嫌な予感がしたので、できれば気のせいであってほしかった。


「だが、それも悪くない。私は今回のことで、自分の妻に必要なものが分かった」


 分からなくてよい。少なくとも、私を見ながら分かってほしくはない。


「クラリスは優秀だった。だが、妻としては自分の考えを持ちすぎていた。その点、君なら若い。これから公爵家にふさわしいよう導くことができる。気の強さも、正しく使えば魅力になるだろう」


 父が足を止め、母が目を見開いた。姉だけが、真っ青になった。


「エリアーヌ嬢。クラリスとの離縁後、君を私の妻として迎え――」


「お断りします」


 最後まで聞く必要もなかった。


 ヴィクトルは口を半ば開いたまま、しばらく動かなかった。


「まだ条件を話していない」


「条件を聞けば、姉を離縁した翌日にその妹と結婚したくなるのでしょうか」


「感情的になるな。これは両家にとって悪い話ではない」


「私にとって悪い話です」


「いずれ公爵夫人になれる」


「昨日までお姉様が座っていた席でしょう」


「クラリスには務まらなかった」


「いいえ。お姉様に務まりすぎたから、あなたが耐えられなかったのでしょう」


 ヴィクトルの顔から笑みが消えた。


「口を慎みなさい」


「妻として導く前からこれです。やはり私は不向きですね」


「エリアーヌ!」


 父の声が飛んだ。


「公爵閣下のお申し出だぞ。少しは家のことを考えなさい」


「お父様は、昨日離縁されて戻った娘の前で、もう一人の娘を同じ家へ嫁がせるおつもりですか」


「同じではない。お前なら、クラリスより上手くやれるかもしれん」


 姉の顔から、さらに色が消えた。母も慌てて言葉を重ねる。


「クラリスが悪いと言っているわけではないのよ。でも夫婦には相性がありますから。エリアーヌならヴィクトル様にも臆せず意見を言えますし――」


「意見を言いすぎたから、お姉様は離縁されたのでしょう。それとも私は、意見を言うふりをしながら、最後には必ずヴィクトル様に従えばよいのですか」


 母は黙った。父の顔が赤くなる。


「これは家同士の問題だ。お前一人の気持ちで断ってよい話ではない」


「私の結婚なのに、私一人の気持ちは関係ないのですか」


「伯爵家の娘として生まれた以上、当然の責務がある」


「では、その責務を果たすために、お姉様の次は私を差し出すのですね」


「差し出すとは何だ! そこまで言うなら、この家から出ていけ!」


 父が机を叩き、姉の肩が震えた。


「承知しました。お姉様も連れていきます」


「エリアーヌ……」


 姉が息を呑んだ。けれど、考える時間は要らなかった。私は立ち上がろうとした姉の手をそっと握ったが、姉は私の手に縋るのではなく、強く握り返してきた。


「お父様。エリアーヌを、あの家へ嫁がせることには反対です」


 姉の声は小さかったが、昨日よりずっとはっきりしていた。


「クラリス、お前は黙っていなさい。これはもう、お前の話ではない」


「私の妹の話です」


「お前が公爵夫人として務めを果たしていれば、こんなことにはならなかった」


 姉の指が、私の手の中で強張った。私が父を睨むより先に、姉がゆっくりとヴィクトルを見た。


「私が務めを果たさなかったのではありません。私が果たしていた務めを、あなたはご自分のものだと思っていただけです。領地の収支を整え、使用人の配置を見直し、滞っていた商会への支払いを整理し、病に伏せたお義母様に代わって社交を引き受けたのは私です」


「妻として当然のことだ」


「では、私がいなくなっても、当然のようにお続けください。エリアーヌを代わりに差し出す必要はありません」


 姉は初めて、ヴィクトルの言葉を途中で切った。


 父が怒鳴ろうと息を吸った、その時だった。


「そのとおりだ」


 応接室の扉の向こうから低い声が響き、杖をついた祖父が入ってきた。領地の別邸で療養しているはずの前伯爵である。


「お、お父様。なぜこちらへ」


「孫娘が離縁されて帰ったと聞いた。にもかかわらず、息子夫婦が何をしたかと思えば、もう一人を後釜に据える相談とはな」


 祖父は父を一瞥した。それだけで、父は口を閉じた。


「家のためです」


「家のために娘を使うのではない。娘を守るために家がある」


「しかし、公爵家との関係が――」


「そんな関係なら切れ。家格にしがみつくあまり、家族を失う愚か者へ家督を譲った覚えはない」


 父の顔が青ざめた。


 ヴィクトルは不愉快そうに立ち上がった。


「これは両家の問題です。前伯爵とはいえ、すでに隠居された方が口を挟むことでは――」


「両家の問題だから、もう一人呼んだ」


 祖父が振り返ると、廊下から背の高い老紳士が現れた。白髪を後ろへ撫でつけ、古い公爵家の紋章が入った杖を持っている。


 ヴィクトルの顔が凍った。


「父上……」


「今さら父と呼ぶな」


 先代公爵は応接室へ入り、祖父の隣に立った。二人は目を合わせると、短く頷いた。


「久しぶりだな、ローラン」


「もっと楽しい用事で会いたかったものだ、アルブレヒト」


「まったくだ。君の孫娘を追い出したうえ、その妹まで妻に望んでいると聞いた時には、さすがに耳を疑った」


「私は耳より、育て方を疑ったがな」


「返す言葉もない」


 二人はそれだけ交わすと、同時に自分の息子へ向き直った。


「さて、こちらの馬鹿は、娘を二人とも取引材料にしようとした」


「こちらの馬鹿は、妻の働きを自分の力と勘違いし、追い出した翌日に妹を求めた」


「どちらが重症だと思う」


「甲乙つけがたいな」


 父とヴィクトルの顔が、ほとんど同時に引きつった。


 先代公爵は姉へ向き直った。


「クラリス嬢。まず、我が家の者が君へしたことを詫びる」


「先代公爵様が謝られることではありません」


「家督を譲ったのは私だ。見る目がなかった責任はある」


 それから先代公爵は、ヴィクトルへ冷たい視線を戻した。


「お前はクラリス嬢を離縁した理由として、公爵家を次代へ残す義務を挙げたそうだな」


「はい。私は当主として――」


「では、当主を退け」


 ヴィクトルの口が止まった。


「何を……」


「公爵家を次代へ残すためだ。自分より有能な妻を追い出し、その妹なら支配できると考える男に、家を任せるわけにはいかん」


「私は正式に家督を継いだのです。いくら父上でも――」


「正式に継いだから、何をしても許されると思っていたのか。家督返上については親族会議を招集する。クラリス嬢が整えた帳簿を、自分の功績として提出した件も含め、当主としての適性を改めて審査させる」


 ヴィクトルの顔から血の気が引いた。


 先代公爵は続いて父を見た。


「それから、伯爵殿。両家の関係を心配されているようだが、心配は無用だ」


 父の表情に、わずかな希望が浮かんだ。


「では、今後も公爵家との――」


「君を介さずとも、ローランとは友人だ。クラリス嬢とエリアーヌ嬢が望む限り、二人との縁も切るつもりはない。君が娘たちを家から追い出すなら、こちらで保護しよう」


「それは……」


「困るかね」


 父は答えなかった。


「困るのだろう。娘たちを駒として使えなくなるからな」


 祖父が鼻を鳴らし、応接室が静まり返った。


 私は姉の手を握ったまま、祖父と先代公爵を見た。二人が来てくれたことはありがたい。けれど、私の答えは二人が来る前から決まっていた。


「お祖父様。私はヴィクトル様との結婚をお断りします。公爵家が守ってくださらなくても、父に勘当されても、その答えは変わりません」


 祖父は少しだけ目を細めた。


「分かっている。だから来た」


 先代公爵も頷いた。


「自分で断った者を、後から守るのが年寄りの役目だ。代わりに決めることではない」


 隣で、姉がゆっくりと息を吐いた。


「私も、ヴィクトル様のもとへ戻るつもりはありません。離縁の条件については、改めて代理人を通してお話しします」


「クラリス」


 ヴィクトルが姉の名を呼んだ。昨日までなら、姉はその声に振り向いたかもしれない。けれど今は、私の手を握ったまま、まっすぐ前を見ていた。


「私を必要としないとおっしゃったのは、あなたです」


「感情的になるな。条件については話し合える」


「ええ。ですから、代理人を通してください」


 姉の声は静かだった。それで十分だった。


 その日のうちに、父は祖父から家督運営について長い説明を受けることになった。どうやら、説明という名の説教だったらしい。


 ヴィクトルは先代公爵の馬車で連れ帰られた。帰り際、二人の老人は玄関前で並んだ。


「ローラン。我々は、子育てを間違えたのかもしれんな」


「否定はできん」


「君の息子も大概だがな」


「お前の息子ほどではない」


「そこで競うものではないだろう」


「ならば、さっさと連れて帰れ」


 二人は言い合いながら、それぞれの息子を処理する相談を始めた。姉と私は並んで、その様子を見送った。


「エリアーヌ。昨日、私が離縁されたと聞いて、どう思った?」


 私は少し迷ったが、もう隠す必要はない気がした。


「ほっとしました。ひどい妹でしょうか」


「いいえ。私も、ほっとしたの」


 姉はゆっくりと首を振った。


「失ったものはたくさんあるわ。でも、もう戻らなくていいのだと思ったら、少しだけ息ができた」


「では、今日はお祝いにしましょう」


「離縁のお祝い?」


「お姉様が帰ってきたお祝いです」


 姉は少し考えてから、笑った。まだ疲れの残る小さな笑顔だったが、それは誰かに許されたから浮かべたものではなかった。


「それなら、蜂蜜入りのお茶がいいわ」


「昨日は半分しか飲めませんでしたものね」


「今日は全部飲めそう」


 私たちは家へ戻った。姉の部屋には、もう暖炉の火が入っている。


 小さな鞄ひとつで帰ってきた姉が、これから何を取り戻すのかは分からない。それでも、少なくとも次に選ぶものは姉自身のものだ。もちろん、私の未来も同じである。


 誰かが勝手に用意した席へ座るつもりはない。たとえそれが、公爵夫人の椅子であっても。


 もちろん、当然のように、お断りします。


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とても面白かったです おじいちゃんsはまともなのにその子は両方とも失敗作
『家のため』…とても耳障りのいいパワーワードですね…使う方にとってはw ついつい言われた方もその気になって従ってしまったりするわけですが、実のところは永続効果が発動するわけもなくその時の当主のためにし…
前当主の庇護がなくなる前に姉妹で家内掌握&妹の嫁入り先見つけないとこの両親懲りなさそう。 仕事できない元夫も親族会議で当主から外されそう。
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