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チョーンと舞台の袖で拍子木が響く。
ざわめいていた平土間の升席が一度にしーんとなった。
拍子木の音が次第に小刻みになる。
と、一段高いところで文楽廻しの盆がぐるりと回り、三味線弾きと浄瑠璃語りが現れた。これは金屏風の前に座した本物の人間で、語り手は床本をうやうやしくおし抱き、おもむろに見台に置く。
それを合図に三味線が始まった。
舞台の裏から、
「東西、東~西」の声。
舞台の派手な緞帳がゆっくりと上がる。
見物の拍手が響きわたった。
興行主の佐内は、立て作者である桜田治助と共に平土間の一番前の角に陣取っていた。初日の今日は、ここから舞台と見物の両方を観察するつもりであった。
夕べから、今にもくずれそうな空模様であったが、なんとか持ち直し、今朝は早くから開演を待つ行列ができていた。立ち見も出る始末で、中央の通路にも見物がはみ出している。
――初日にこれだけの入りなら上出来だ。
まだ人形芝居が始まらぬうちから、佐内はほくそ笑んでいた。
この分なら長期の興行も夢ではない。せっかく大枚はたいて芝居小屋を建てたのだ。ひと月やそこらで終わらせてなるものか。
窮屈な四人枡には、立て作者の桜田治助が、こちらに膝をくっつけるようにして座っている。これも舞台の端から端まで何ひとつ見逃すまいと、首を伸ばしては、白髪の目立つ頭をしきりと左右に傾けていた。
佐内も治助も、人形回しの角太夫から段取りは聞いていたものの、実際、その舞台を見るのは今日がはじめてである。だから、ふたりとも一抹の不安を覚えながら、これから始まる人形芝居には、見物に劣らず胸をわくわくさせていた。
やがて、静まり返った小屋の中に、雨音がしんみりと響き始めた。
「来た来た」
と、佐内はひざを乗り出した。
序幕には雨が降ることになっている。これは舞台裏で、なにか仕掛け、雨音に似せているのであろう。いかにも、怪談噺にふさわしい。
演目は、「厩橋怪談百物語」。
これは、桜田治助が、「怪談老いの杖」より翻案したもので、こんな話だ。
序幕は「御城内の場」で、宿直侍が数人、深夜、ひとところに集まり額を寄せ合っている。
外は激しい雨。
侍のひとりが、薄暗い周囲を不安げに見回し、
「今宵はもの凄まじいのう」
すると、その言葉を待っていたかのように、雨音がいっそう激しくなり、強風が混じり始める。
「うむ、こんな雨模様の晩は、臆病になっていかん」
「くわばら、くわばら」
「なにを腑抜けたことを。世に化け物などありはしないぞ」
そこで、若侍たちは、「妖怪出るや出ざるや」と額を集め、この頃よく聞く百物語というものをやってみようではないかと言い出す。
青い紙で行灯の口を覆い、傍らに鏡を一面立て、五間ほど奥の大書院にそれを設置する。行灯には、燈心を百筋入れて、鏡を取っておのれの顔を見たら、一筋ずつ消して戻ってくるという趣向である。
ひとり、またひとりと、暗い廊下を渡って行くと、やがて風雨に雷まで鳴り始め……
と、いう風に人形芝居は進行していく、はずだった。
ところが――
見物席で、佐内と治助は不審げに顔を見合わせた。さっきから雨音は、高い吹き抜け天井に響き渡っている。が、肝心の人形が登場してこない。
龕灯の明かりはちゃんと当てられていて、舞台の中央だけは白く闇の中に浮いている。
しかし、舞台はからっぽだ。
あれだけ待ってやっと幕が開いたと思ったら、これだ。
ひどい雨と風のせいで、三味線の音もかき消されがちである。語りも同じところを何度も繰り返し、人形の出を待っている。
どうもおかしい。
このときまでには見物たちも気づき始めていた。
第一、舞台の仕掛けにしては、雨音が大きすぎるようである。風もずいぶんと強い気がする。
どこかで屋根瓦でも吹き飛んだか、今しも遠くでガラガラと大きな音がした。
外の天気がくずれたか?
頭上で急に雷鳴がとどろいて、見物がいっせいに天井を見上げた。
やがて、小屋を揺るがすほどの暴風雨に三味線弾き語りもほとんど聞こえなくなった。見物のざわめきももう聞こえない。
――はて? これが仕掛けか?
舞台はやはりうつろに明かりを浴びたまま、人形の気配もない。
――段取りに間違いでも生じたか?
河内佐内はあわてて手元の役割番付に目を落とした。
隣の立て作者、桜田治助もあたりを見回し、および腰になっている。
芝居の正本を、人形回しの角太夫に届けたのはひと月前のことだ。渡したのは佐内本人である。
ふりかえって正面の桟敷席をうかがっても、暗いばかりで判然としない。
――これはいけない
ここは興行主の自分が、何か見物に言わなければと、佐内は襟元を正し立ち上がろうと腰を浮かした、
まさにその時――
ほの暗い枡席の中央で、黒い影がすーっと立ち上がった。
すると、それまで舞台を照らしていた龕灯提灯が、見計らったようにくるりと平土間の方に向きを変え、立ち上がった男の姿を照らし出した。
お店者であろうか。手代風な縞物のきちんとした身なりである。それが、ぎくしゃくと手足を動かした。体がその場で不安定に回転する。
背中は一直線だが腰を落とした妙な格好で、前へ倒れそうに体が傾く。倒れるかと見ると、片足が不自然にひざから持ち上がり、狭い枡席を前へ踏み出した。そのつま先が浮いている。
雨音も風も耳をつんざくようである。
嵐の中で、小屋の平土間は、いつの間にか夜の海のように暗く沈んでいた。
続いて、今度は少し離れたところで、もうひとり、首から一直線にすーっと立ち上がる。
さらにひとり、あちらでひとり、こちらでひとり。頭のてっぺんを引かれるように立ち上がる。
誰もうつむいたまま、顔は暗く陰って見えない。
気がつくと、舞台を無数の蛍が飛んでいる。それが小さく光ったかと思うと、見る見るうちに燐光を発し、青い尾を引いて、上下左右縦横無尽に流れる陰火となった。小道具の飛び方ではない。
そ れはたちまち数を増し、舞台を越えて見物席までさまよい出した。
顔に触れそうなほど近く流れてきたので、河内佐内は避けようとのけぞった。透き通った炎が頬を撫でる。が、少しも熱くない。
佐内のすぐ後ろで女がひとり、すーっと立ち上がった。
座ったままの姿勢で、首から下がぶらりと縦に伸びる。その白足袋のつま先がほとんど床についていない。
吊り下がった姿勢で重心が安定しないまま、女の体はゆっくりと回転し、顔がこちらを向いた。
若女房、いや芸者か?
薄暗い中、白いうりざね顔が、ほっかりと咲いた夕顔のようだ。
よく見ると、派手な高島田に小ぶりの簪が鈍く光っている。
ギクシャクとした動作で片手が持ち上がり、白い富士額……
――ああ、いけない
何か思い出し、佐内は思わず目をそむけようとした。
が、思うまもなく、女の目玉がぐるりと上を向いてひっくり返り、顎ががくりと落ちた。
記録によると、南蛮あやつりの興行は初日をもって打ち止めとなった。「人心を惑わす」として、幕府じきじきの閉鎖命令であった。
その後、しばらく、人形芝居のうわさがあちこちでまことしやかに流れた。
もとから人形善の人形などなかったのだと言う者がいた。角太夫は初日に逃げ出したのだと言う者もいた。あの日、雨など降らなかったと言いだす者もいれば、何も覚えていない者も多かった。
人形回しの角太夫については、幕末、アメリカの興行師ベンクツに連れられて当地の万国博に参じたと記録にあるが、その後の行方は定かではない。
(了)




