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「隣の傀儡師(くぐつ)がうるさくてかなわない」

 それからほどなくして、裏長屋の大家に苦情があった。

 両国広小路から程近い下谷広徳寺前。

 始終ぬかるんでいる路地をはさみ、軒が連なっている。破れた軒下には、その頃流行の朝顔の鉢が几帳面に並び、いずれも日銭稼ぎの魚屋や惣菜売り、あんまや歯磨き屋。どれも店を構えているわけではなく流しや行商である。

 そこに豆腐屋の夫婦者が住んでいた。

 豆腐屋は朝が早い。朝餉(あさげ)の味噌汁の具に間にあうよう、豆腐を近隣に売り歩くのだ。 

 とくに夏場はどこも早いから、明け六つの木戸開けと同時に荷を担いで出なければならない。だから、翌朝にそなえ、宵の口には明日の大豆を仕込んでもう寝てしまう。

 それまでこの長屋では、時たま誰か遅く帰ることがあっても、木戸番が拍子木を打つ頃にはどこも寝静まっていた。

 ところが近ごろ、隣の傀儡師は寝るということがない。

 それどころか、日の落ちる時分から、隣に人が大勢集まるようなのだ。ざわざわ低い声で、何を話しているのかわからないが一晩中続く。それが薄い鼠壁(ねずみかべ)を通してうるさくてかなわない。

――こう毎晩では……。

 豆腐屋は、耳元にまとわりつく藪蚊を追いつつ、うつらうつらと寝返りを打ち、すっかり寝不足になってしまった。

 なんでも人形芝居興行の噂は聞いていた。開演前からたいへんな評判だというのも知っている。

 それにしても、隣の傀儡師は奇妙な男だった。四六時中八折網笠をかぶったまま、挨拶もなければ、口をきいたこともない。盆暮れのやりとりもなければ、仕事柄、朝晩顔を合わせることもない。向こうは男やもめだから、夫婦者や小さい子供の多いこの長屋では異質である。

 豆腐屋が、早朝、出掛けに、隣をそっとうかがってみると、この季節、どこも蒸し暑さに耐えかねて、勝手口など開け放ちだというのに、傀儡師のところだけは雨戸まで閉め切っている。

 今しも朝もやの中、黄ばんだ障子の内から何人か声がしていた。ふたりとか三人とかいう数ではない。大勢、いる。

「また、ゆんべからずっと……?」

 いっしょに戸口まで出てきた豆腐屋の小太りの女房が、小さくおくびをして、亭主の耳元でささやいた。

 水を張った豆腐桶を担ぎ上げる亭主に手を貸しながら、女房は声を低くしたまま、

「それにしてもさ、一人二役、三役、四役って、どんだけ増えるのかね? いったいそんなことができるものかえ?」

 と、背中に負ぶった赤子をゆすりあげる。

「うむ、どうもへんだ」

 豆腐屋の亭主はぼんやりと首をひねった。

 傀儡師はこの頃、昼は両国広小路のたいそうな人形芝居小屋で、日暮し稽古に明け暮れていると噂に聞いた。それが、夜も更けて長屋に帰ってくると、今度は戸を閉め切ったまま一晩中ああしている。

 百人一首というが、あれは声音(こわね)の稽古だろうか? ひとりで百体の人形をあやつると聞いたが……。

 昼も夜も、もう何日続いているだろう。

 しかし、そもそも隣家に人形が置いてあるのを見たことがない。高価なものをこんな貧乏長屋に不用心に置いておくわけがないのだ。けれど、人形遣いが人形なしで、どうやって稽古をするのだろうか?

 今しも隣の破れた腰高障子の奥から、落ち葉でも踏むような、群集の低いざわめきに混じって、角太夫のどす黒い声が聞こえる。

「お前たちがそう勝手に動いちゃ、始末がつかないじゃないかっ!」

 豆腐屋の夫婦は揃って肩をすくめ、互いの心中を探るように顔を見合わせた。


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