実家に殺されかけた悪役令嬢は、政略結婚先で救われました
目を覚ました瞬間、まず視界に入ったのは、見慣れない天蓋だった。
白いレースに、金糸の刺繍。やたらと高い天井。
豪華なのに、どこか冷たい印象のする寝室。
(……どこ、ここ……?)
ぼんやりした頭のまま、体を起こそうとして、違和感に気づく。
腕が細い。指が白い。爪の形も、記憶と違う。
「……え?」
声が、喉からこぼれた。
それは、自分のものではない声だった。少し高くて、澄んだ、女の声。
慌てて、枕元に置かれていた鏡を掴む。
そこに映っていたのは、銀色に近い淡い髪を、まっすぐ背中に流した少女だった。
透き通るような青い瞳。色白の肌。整った顔立ち。
――けれど、その表情は、明らかに動揺でこわばっている。
「……誰……?」
喉が、ひくりと鳴る。
(いや、待って。落ち着いて。これは、夢……?)
そう思った瞬間、頭の奥に、ずきりと鈍い痛みが走った。
知らないはずの記憶。
知らないはずの名前。
知らないはずの世界。
――イリス・ファン・ヴァルツ。
――ヴァルツ公爵家の令嬢。
――社交界の花。
――そして、悪役貴族の一人。
「……あ……」
息が、詰まる。
思い出してしまった。
ここは、前世でプレイしていた乙女ゲームの世界。
そして、この体の持ち主――イリス・ファン・ヴァルツは、物語の途中で一族まとめて破滅する側の人間だ。
脳裏に、はっきりとした映像が浮かぶ。
裁判所。
反逆の罪。
断罪の声。
そして――処刑台。
「……死ぬやつじゃない……」
思わず、呟く。
膝から、力が抜けた。
このまま何もしなければ、ヴァルツ公爵家は国王に謀反を企てて失敗し、一族郎党まとめて粛清。
もちろん、イリスも例外じゃない。
――たとえ、本人が何も知らされていなくても。
――たとえ、ただの駒として使われていただけでも。
(冗談じゃない……)
唇の裏を、きゅっと噛む。
そのとき、ドアが控えめに――しかし、どこか雑にノックされた。
「……イリス様。お目覚めでしょうか」
侍女の声だ。
反射的に、背筋が伸びる。
「……はい」
返事をした声も、やっぱり自分のものじゃない。
ドアが開き、数人の侍女が入ってくる。
けれど、その足取りには、どこか遠慮がない。視線も、どこか冷めている。
「ずいぶんゆっくりでしたね。もうすぐ出立の時間ですよ」
敬語ではある。けれど、そこに敬意は感じられなかった。
「今日は大切な日ですから。……失敗なさらないでくださいね」
別の侍女が、淡々と言う。
まるで、人としてではなく、“役割”に向けて話しているみたいだった。
彼女たちは、手際よくイリスの周りを動き回り、髪を整え、ドレスを用意する。
その動作は慣れているのに、どこか雑で、必要最低限。
「さすがは“社交界の花”ですね。見た目だけは」
小さく、誰かがそう呟いた。
はっきりとは聞こえない程度の、でも確実に悪意を含んだ声。
胸の奥が、ちくりと痛む。
(……ここは、ヴァルツ公爵家……)
つまり――イリスの実家。
ふいに、別の記憶がよぎる。
冷たい廊下。
閉じた扉。
低い声の叱責。
逆らえない命令。
役に立たなければ、価値がないという言葉。
――お前は家のために生きろ。
――それ以外に、存在価値はない。
(……ああ)
胸の奥が、じくりと重くなる。
ここは、優しい場所じゃない。
イリスは、この家でずっと、“令嬢”ではなく道具として扱われてきた。
そして、今日――
「馬車の準備は整っております。教会へ向かわれますので」
侍女の言葉で、現実に引き戻される。
(……そうだ)
今日は、結婚式だ。
相手は、カーライル・フォン・リヒター。
国王側近公爵の嫡男。
そして――このヴァルツ家を“監視”するための、政略結婚の相手。
(最悪のタイミングで来たな、私……)
よりにもよって、結婚式当日の朝に憑依だなんて。
逃げる時間もない。準備は整っている。式は、もう止められない。
しかも、この結婚の先には――
(……反逆、失敗、処刑)
背中を、冷たいものが這う。
けれど。
イリスは、シーツの上で、そっと拳を握った。
(それでも……死ぬのは嫌)
処刑台なんて、まっぴらごめんだ。
何も知らないまま、巻き込まれて終わるなんて、もっと嫌だ。
(……結婚生活、がんばるしかない)
逃げられないなら。
避けられないなら。
(この世界で、生き残るために、できることをやる)
たとえ、婚約者に嫌われていようと。
たとえ、周りに味方がいなくても。
「……準備を、お願いします」
そう言った自分の声は、思ったよりも、落ち着いていた。
鏡の中の少女――イリス・ファン・ヴァルツは、
銀色の髪と青い瞳の奥に、かすかな決意の光を宿していた。
この結婚は、祝福なんかじゃない。
きっと、試練の始まりだ。
それでも。
(私は、死なない)
遠くで、教会の鐘の音が、かすかに響いていた。
***
馬車は、静かに石畳を進んでいた。
揺れに合わせて、窓の外の景色が流れていく。
イリスは、膝の上で組んだ手を見つめながら、深く息を吸った。
(……逃げ場は、もうない)
白いドレスは、重かった。
豪奢で、美しくて――そして、やけに現実感がある。
これから、自分は結婚する。
相手は、カーライル・フォン・リヒター。
国王側近公爵の嫡男であり、ヴァルツ家を監視する立場の男
。
胸の奥に、わずかな緊張と――それ以上の、不安が広がる。
やがて馬車が止まり、扉が開かれた。
外に広がっていたのは、大聖堂だった。
高い天井。色とりどりのステンドグラス。差し込む光が、白い床に模様を落としている。
すでに、多くの貴族たちが集まっていた。
ざわめき。ひそひそ声。値踏みするような視線。
(……見られてる)
イリスは、ゆっくりと馬車を降りる。
銀色の髪はきれいに結い上げられ、白いヴェールに覆われていた。青い瞳は、余計な感情を見せないよう、意識して伏せがちにしている。
色白の肌に、純白のドレスはよく映える――はずなのに。
向けられる視線は、決して温かくない。
「……あの子が、ヴァルツ公爵家の令嬢よ」
「噂の“悪女”ね」
「ふふ……今日は、ずいぶん大人しそうじゃない?」
ひそひそと、悪意を含んだ声が耳に届く。
イリスは、表情を変えず、社交界用の微笑みを浮かべた。
背筋を伸ばし、歩き方にも気を配る。
(……これが、“イリス・ファン・ヴァルツ”の役)
強気で、余裕があって、何を考えているか分からない悪役令嬢。
そう見せることを、これまでのイリスは求められてきた。
――そして、その評判は、カーライルの耳にも届いているはずだ。
視線を上げた、その先。
祭壇の前に、一人の青年が立っていた。
濃紺の髪はきっちりと整えられ、グレーの瞳は、冷静そうに、そしてどこか鋭くこちらを見ている。
背は高く、姿勢もいい。正装が、よく似合っていた。
(……あの人が、カーライル……)
第一印象は――冷たい、だった。
整った顔立ちなのに、表情が硬い。
感情を抑えているというより、最初から距離を取るつもりでいるような、そんな空気。
イリスが近づくと、彼は一瞬だけ視線を細めた。
――警戒。
そして、はっきりとした、拒絶。
(……やっぱり、嫌われてる)
分かっていたことなのに、胸の奥が、きゅっと縮む。
司祭の声が響き、式は淡々と進んでいく。
誓いの言葉。形式的なやり取り。指輪の交換。
すべてが、どこか現実味のないまま、過ぎていった。
「……誓いますか?」
「……誓います」
カーライルの声は低く、感情がほとんど乗っていない。
「……誓います」
イリスも、同じように答える。
鐘が鳴り、拍手が起こる。
祝福の声が飛ぶ――けれど、その中には、好奇と警戒と、わずかな嘲りが混じっているのが、はっきりと分かった。
式が終わり、人々がざわめき始めた頃。
カーライルは、イリスの方を見て、短く言った。
「……形式は終わった。あとは、帰るだけだ」
声は、淡々としている。
そこに、夫婦になった実感のようなものは、微塵も感じられなかった。
「はい……」
イリスは、微笑みを貼り付けたまま、頷く。
そのやり取りを、周囲の貴族たちは、興味深そうに眺めていた。
「やっぱり、うまくいってないみたいね」
「当然でしょう。“政略結婚”のようなものですから」
胸の奥が、ちくりと痛む。
(……期待してない。期待してない、はずなのに)
そう自分に言い聞かせても、完全には、割り切れなかった。
教会を出て、今度はリヒター家の馬車に乗り込む。
同じ馬車の中。
けれど、会話はない。
カーライルは、窓の外に視線を向けたまま、一言も発しない。
イリスも、何を言えばいいのか分からず、ただ、膝の上で手を組んでいた。
(……本当に、“監視”のための結婚なんだ)
その事実を、改めて突きつけられた気がした。
やがて、リヒター家の屋敷に到着する。
出迎えに出てきた使用人たちは、きちんと頭を下げた。
礼儀は正しい。けれど、その表情は、どこか硬い。
「お帰りなさいませ、旦那様。……奥方様」
視線は、イリスを一瞬だけ、値踏みするように走る。
「お部屋へご案内いたします。必要なものがございましたら、
お申し付けください」
言葉は丁寧だ。
けれど、そこに歓迎の色はない。
(……それでも、あの家よりは、ずっとまし)
少なくとも、理由もなく叩かれることはない。
少なくとも、機嫌ひとつで価値を決められる場所じゃない。
(居場所じゃなくても……生きていけるだけで、十分)
そう思ってしまう自分に、少しだけ苦笑する。
カーライルは、立ち止まって、振り返った。
「……勘違いしないでほしい」
そのグレーの瞳が、まっすぐにイリスを捉える。
「これは、あくまで政略結婚だ。君を信用しているわけじゃない。……むしろ、その逆だと思ってくれ」
はっきりとした言葉だった。
イリスは、一瞬だけ、言葉に詰まる。
でも、すぐに、いつもの微笑みを浮かべた。
「ええ、承知しておりますわ。……ご安心ください。ご迷惑は、おかけしませんので」
それは、半分は本心で、半分は――ずっと身につけてきた“役”だった。
カーライルは、その笑顔を、じっと見つめてから、視線を逸らした。
「……その作り笑い、やめたらどうだ。正直、信用できない」
胸が、きゅっと締め付けられる。
「……これが、私ですから」
そう答えるしか、なかった。
彼は、それ以上何も言わず、踵を返して歩き出す。
イリスは、その背中を見つめながら、そっと息を吐いた。
(……大丈夫)
嫌われているのは、分かっていた。
期待されていないのも、分かっていた。
(それでも……私は、生き残る)
この、冷たいけれど――少なくとも“地獄ではない”屋敷で。
この、冷たい結婚の中で。
イリス・ファン・ヴァルツは、静かに、そう心に誓った。
***
目を覚ましたとき、まず感じたのは――静けさだった。
ヴァルツ公爵家の朝は、いつもどこか騒がしかった。
廊下を行き交う足音、扉の開閉、誰かの苛立った声。
そして、その中に混じる、こちらに向けられた冷たい視線。
けれど、ここ――リヒター家の屋敷は、違う。
広くて、整っていて、音が少ない。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、落ち着いた色の寝室を静かに照らしている。
(……朝、か)
イリスは、ゆっくりと上体を起こした。
昨夜はほとんど眠れなかったはずなのに、頭は思ったよりもはっきりしている。
見知らぬ部屋を見渡しながら、ここがもう“実家”ではないことを、改めて実感した。
用意されている部屋は、十分すぎるほど広い。
調度品も上質で、掃除も行き届いている。
――少なくとも、「客」としてではなく、「この家の奥方」として用意された部屋なのは分かる。
(……歓迎は、されてないけど)
ベッドを降り、身支度を整えようとしたところで、控えめなノックの音がした。
「イリス様。お目覚めでいらっしゃいますか」
扉の向こうから、落ち着いた女の声がする。
「……はい」
返事をすると、少し間を置いてから、扉が開いた。
入ってきたのは、数名の使用人だった。
全員、きちんとした姿勢で一礼する。動作も無駄がない。
「朝食ですが、お部屋にお持ちいたしましょうか。それとも、食堂になさいますか」
声は丁寧で、言葉遣いも非の打ちどころがない。
けれど、その表情は、どこか硬い。
ほんの一瞬、迷ってから、イリスは答えた。
「……部屋で、お願いします」
「かしこまりました」
それだけ言って、使用人は静かに部屋を出ていく。
しばらくして運ばれてきた朝食は、いかにも貴族の屋敷らしい、豪華で整ったものだった。
焼きたてのパンが数種類、湯気の立つスープ、彩りのいい果物に、卵料理と薄く切られた肉。銀の食器が静かに光っている。
(……すごい)
思わず、そんな感想が浮かぶ。
ヴァルツ家でも、食事は豪華だった。
けれど、それが何の条件もなく自分の目の前に並ぶことは、ほとんどなかった。
少なくとも、理由もなく叩かれることはない。
少なくとも、機嫌ひとつで価値を決められる場所じゃない。
(居場所じゃなくても……生きていけるだけで、十分)
そう思ってしまう自分に、ほんの少しだけ、苦笑する。
食事を終える頃、再びノックの音がした。
「お食事はお済みでしょうか。では、このあと、簡単に屋敷のご案内を」
「……はい」
廊下に出ると、屋敷の中は想像以上に広かった。
高い天井、整然と並ぶ扉、足音を吸い込む絨毯。
「こちらが奥方様のお使いになる居間でございます。こちらは書斎。必要なものがございましたら、使用人にお申し付けください」
案内は簡潔で、説明も必要最低限。
雑談はない。余計な言葉もない。
けれど向けられる視線は、“主人を見る目”というより、“扱いに注意すべき存在を見る目”に近い。
(……信用は、されてない)
でも。
(見下されてる、わけじゃない)
その違いは、イリスにははっきりと分かった。
胸の奥に、ほんのわずか、息が通るような感覚が広がる。
廊下の角を曲がったところで、前から一人の男が歩いてくるのが見えた。
濃紺の髪、整った身なり、長身。
――カーライルだ。
イリスは、反射的に足を止めた。
「……おはようございます、カーライル様」
そう声をかけると、彼は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
「……ああ」
それだけ。
足を止めることもなく、通り過ぎようとする。
使用人たちが気まずそうに視線を伏せる中、イリスは、思わず口を開いた。
「屋敷のご案内をしていただいているところで……」
「必要ないだろう」
遮るように、カーライルが言った。
足は止まらない。声も、淡々としている。
「君がこの家で何をするかは、すでに決まっている。余計なことを覚える必要はない」
その言葉に、胸の奥が、きゅっと縮む。
「……承知しました」
イリスは、そう答えるしかなかった。
カーライルは、それ以上何も言わず、廊下の先へと歩いていく。
残された空気は、少しだけ、冷たかった。
(……冷たい人)
分かっていたことだ。
期待していなかったはずだ。
それでも、ほんの少しだけ、胸の奥が、ちくりと痛む。
使用人の一人が、気まずそうに咳払いをして、言った。
「……では、続きのご案内をいたします」
「はい。お願いします」
イリスは、いつものように、静かに微笑んだ。
(大丈夫)
ここは、優しい場所じゃない。
でも――
(少なくとも、“地獄”では、ない)
その事実だけで、今は、十分だった。
***
案内が一段落し、イリスは自室へ戻った。
広い部屋に、一人。
窓から差し込む光は穏やかで、廊下の物音も遠い。
(……少し、疲れた)
新しい環境。新しい立場。新しい名前。
頭の中で、いろいろなものが、まだ整理しきれずに渦を巻いている。
椅子に腰を下ろした、そのときだった。
控えめなノックの音がする。
「イリス様。お時間、よろしいでしょうか」
「……はい」
扉の向こうにいたのは、先ほども案内をしてくれた使用人の一人だった。
手には、白い封筒を載せた銀の盆がある。
「ヴァルツ公爵家より、書状が届いております」
その言葉を聞いた瞬間、イリスの心臓が、どくりと嫌な音を立てた。
(……来た)
思わず、指先に力が入る。
封筒には、見慣れた紋章が刻まれている。
ヴァルツ公爵家の印章。
それを見ただけで、喉の奥が、ひりつくように痛んだ。
「……ありがとうございます。こちらで、受け取ります」
そう言って、銀の盆から、封筒を取る。
使用人は一礼し、何も言わずに部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえる。
イリスは、しばらく、その封筒を見つめたまま、動けずにいた。
白い紙。
整った封。
けれど、その中身が、どんなものかは――分かりきっている。
(……結婚、おめでとう、なんて、書いてあるわけない)
深く息を吸い、震えそうになる指で、封を切った。
中から出てきたのは、簡潔な文面の手紙だった。
――体裁は、あくまで穏やか。
――けれど、行間から滲み出るのは、はっきりとした命令。
『無事に式を終えたようだな。まずは役目を果たしたこと、評価してやろう。
だが、忘れるな。お前はヴァルツ家の人間だ。
リヒター家での立場を利用し、必要な情報を集めろ。
家のために動け。それができないのなら――分かっているな』
最後の一文に、具体的な言葉はない。
それでも、何を意味しているかは、嫌というほど分かる。
(……相変わらず)
胸の奥が、冷たくなる。
祝福の言葉はない。
気遣いの一言もない。
あるのは、「役に立て」という命令だけ。
ふと、別の文字が、脳裏に重なる。
――お前は、家のために生きろ。
――それ以外に、価値はない。
思い出したくもない声。
逆らえば、どうなるかも、嫌というほど知っている。
(……逃げられない)
ぎゅっと、手紙を握りしめる。
せっかく、あの家から出られたと思ったのに。
せっかく、少しだけ、息ができる場所に来たと思ったのに。
(……結局、首輪は、外れてない)
胸の奥に、重たいものが沈んでいく。
――従えば、どうなる?
この世界の記憶が、はっきりと答えを出してくる。
(……反逆。失敗。処刑)
ヴァルツ家は、いずれ、必ず道を誤る。
そして、その巻き添えで――自分も死ぬ。
(でも……逆らえば……)
父の冷たい目。
兄の命令口調。
あの屋敷の、閉じた扉の向こう。
どちらを選んでも、簡単な道なんて、ない。
イリスは、ゆっくりと息を吐いた。
(……どうすれば、いい……?)
答えは、まだ出ない。
ただ、ひとつだけ、はっきりしている。
(私は……もう、あの家の言いなりで、死にたくない)
手紙を折りたたみ、机の引き出しにしまう。
指先は、まだ少し震えていた。
そのとき、ちょうど、先ほどの使用人が部屋の前を通りかかった気配がした。
「……少し、いいですか」
声をかけると、使用人は立ち止まり、扉の前に戻ってくる。
「ご用でしょうか、奥方様」
相変わらず、丁寧で、距離のある態度。
イリスは、一瞬だけ迷ってから、口を開いた。
「この屋敷の……書斎について、お聞きしたいのですが」
その言葉に、使用人の表情が、ほんのわずかに引き締まる。
「書斎は、旦那様の許可がなければ、お使いいただけません」
やはり、即答だった。
「……そう、ですか」
「奥方様のお部屋や居間でしたら、ご自由にお使いいただけますが……」
それ以上は、何も言われなかった。
言外に、「そこから先は踏み込むな」と言われている気がした。
(……やっぱり、簡単にはいかない)
イリスは小さく頷き、話を終える。
使用人は一礼して、その場を去っていった。
部屋に戻ると、胸の奥に、じわじわと現実が広がってくる。
(……聞いただけ。でも……)
この家では、それだけでも、十分すぎるほど“目立つ”行動なのだろう。
引き出しの中にしまった手紙の存在を、はっきりと意識する。
無理をすれば、余計に首を絞めるだけだ。
(次の機会を、探すしかない)
***
それから、半日ほどは何事もなかった。
屋敷は相変わらず静かで、使用人たちの態度も変わらない。
あのとき廊下で話しかけた使用人も、特別に視線を向けてくることはなかった。
(……気のせい、だったのかな)
そう思おうとした矢先だった。
夕方近く、部屋の扉がノックされた。
「……少し、いいか」
低く落ち着いた声。
聞き覚えのある声に、イリスの胸が、わずかに強く打つ。
「……はい」
扉を開けると、そこに立っていたのはカーライルだった。
いつもと同じ、感情をあまり表に出さない顔。
けれど、グレーの瞳は、どこか鋭さを帯びている。
「中で話す」
短くそう言って、彼は部屋に入ってきた。
扉が閉まる音が、やけに重く響く。
カーライルは、部屋の中央で足を止め、振り返った。
「……書斎について使用人に尋ねたそうだな」
心臓が、どくりと音を立てた。
(……やっぱり、伝わってるのか)
「書斎で、何をするつもりだった?」
まっすぐ向けられる視線。
逃げ場は、ない。
「特別なことをするつもりは……ありませんでした。ただ……」
言葉が、喉で詰まる。
――実家からの手紙。
――情報を集めろという命令。
それを口にすれば、何が起きるかは、想像できてしまう。
「ただ、この家のことを、少しでも把握しておいた方がいいと思っただけです」
苦しい言い訳だと、自分でも分かっている。
けれど、これ以上のことは、言えなかった。
カーライルは、小さく息を吐いた。
「……その必要はないと言ったはずだ。君は、自分の立場を理解しているのか?」
声は低く、感情は抑えられている。
その分、言葉が、ひどく重い。
「君は、ヴァルツ家の人間だ。
この家は、君の実家を警戒している。……そして、君自身も、だ」
胸の奥が、ひくりと痛む。
「書斎は、この屋敷の中でも、特に機密に近い場所だ。
――そこに興味を示せば、どう思われるかくらい、分かるだろう」
「……申し訳、ありません」
それしか、言えなかった。
カーライルは、イリスをしばらく見つめてから、視線を逸らす。
「……今回は、これ以上は追及しない」
その言葉に、胸の奥が、ほんの少しだけ緩む。
「だが、覚えておいてほしい」
カーライルは、はっきりと言った。
「君の行動は、すべて――“疑われる前提”で見られている。
不用意なことは、しないほうがいい」
「……はい」
イリスは、静かに頷いた。
彼は、それ以上何も言わず、踵を返して部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、また、やけに大きく響いた。
イリスは、その場に、しばらく立ち尽くしていた。
(……やっぱり、簡単にはいかない)
胸の奥に、じわじわと現実が染み込んでくる。
聞いただけで、これだ。
本当に何か行動を起こせば、もっと強く疑われる。
それと同時に、机の引き出しにしまったヴァルツ家からの手紙を思い出す。
(……でも、何もしないままでも、いられない)
焦りと恐怖が、胸の奥で絡み合う。
(……ほかの方法を考えないと)
イリスは、そう結論づけた。
次の機会を探るまで。
もっと“自然な形”で動ける瞬間が来るまで。
静かな屋敷の中で。
疑いの視線に囲まれながら。
イリス・ファン・ヴァルツは、ただ、じっと耐えるしかなかった。
***
夜会が開かれたのは、手紙が届いてから数日後のことだった。
その間、イリスは――あの手紙に、まだ返事を書いていない。
(……待たせてる)
分かっている。
分かっているからこそ、胸の奥が、ずっと落ち着かなかった。
馬車の中、向かいに座るカーライルは、相変わらず無言だった。
窓の外を見つめる横顔は、冷静で、距離がある。
(……何も、変わってない)
会場に到着すると、まばゆい光と、ざわめきが二人を包み込む。
音楽、笑い声、グラスの音。
そして――値踏みする視線。
「見た? リヒター家の奥方」
「……相変わらずお綺麗ですけど、裏で何を考えているのか分ったものではないわ…」
ひそひそと、悪意を隠さない声が背中をなぞる。
イリスは、自然に微笑みを作った。
社交界の花。悪女。計算高い令嬢。
そう“見られるための顔”を、完璧に貼り付ける。
(……大丈夫。いつも通り)
カーライルは、必要最低限の距離で隣に立っている。
腕は組まない。
でも、外から見れば、きちんと“夫婦”に見える位置だ。
最初に向かったのは――リヒター家当主夫妻のもとだった。
当主は、落ち着いた、どこか冷ややかな視線でイリスを見る。
その隣に立つ夫人は、柔らかく微笑んでいるが、その目はあまり笑っていない。
「式以来だな。……結婚生活は、どうだ」
「おかげさまで、静かに過ごさせていただいております」
イリスは、一歩前に出て、深く頭を下げた。
夫人は、扇子の影から微笑みを崩さずに言う。
「それは結構。……もっとも、“ご縁”のきっかけが、きっかけですからね。
余計な波風が立たないことを、私たちも願っております」
言葉は丁寧。
けれど、そこに込められているのは――はっきりとした警戒だ。
「身に余るお言葉です。精一杯、務めさせていただきます」
当主は、わずかに頷いた。
「……礼儀は、身についているようだ。
さすがは、ヴァルツ公爵家のご令嬢、というべきかな」
それは、褒め言葉の形をした、距離の宣言だった。
形式的な挨拶は、それで終わった。
歓迎の色は、やはり、どこにもない。
(……分かってたけど)
胸の奥で、小さく息を吐く。
次に向かった先で、イリスは――見慣れた顔と、目が合った。
ヴァルツ公爵。
そして、その隣に立つ、兄。
(……やっぱり、来てる)
父は、穏やかな笑みを浮かべたまま、こちらへ歩み寄ってくる。
周囲の目があることを、よく分かっている顔だ。
「これはこれは……リヒター家のご子息殿。
そして、イリス。元気そうで何よりだ」
「……ご無沙汰しております」
イリスは、丁寧に頭を下げる。
カーライルも、礼儀として軽く会釈した。
兄は、グラスを傾けながら、にこやかにイリスの隣へ寄ってくる。
「結婚してから、ずいぶん忙しそうだね。……便りの一つもないくらいには」
その言い方は、あくまで世間話の延長にしか聞こえない。
けれど、イリスの胸の奥には、冷たいものが落ちた。
(……催促。いいえ、警告)
「慌ただしくて、つい。落ち着いたら、改めてご連絡を差し上げますわ」
イリスは、微笑みを崩さずにそう返す。
父も、穏やかな声のまま、言葉を添えた。
「無理もあるまい。リヒター家の奥方ともなれば、何かと勝手も違うだろう。
……ただ、家のことも、忘れずにな」
兄は、そのまま、すれ違いざま――
ほんの一瞬だけ、唇の動きだけで告げる。
「……後で、来い」
背筋が、ひやりと冷えた。
しばらくして――
イリスは、会場の奥にある控えの小部屋へと、呼び出された。
中にいたのは、父と兄だけ。
扉が閉まった瞬間、空気が変わる。
社交用の笑みは、二人の顔から消えていた。
「……で?」
兄が、低い声で切り出す。
「何日経ったと思ってる。返事は? 情報は?」
「……準備を、しているところですわ」
そう答えた、次の瞬間だった。
――鈍い衝撃が、腹部に走る。
「……っ!」
息が詰まり、イリスは思わず数歩よろめいた。
腹を押さえて俯くと、兄が拳を下ろしたまま、冷たい目で見下ろしている。
「“準備”? ふざけるな」
吐き捨てるような声。
「お前は、遊びに行ってるわけじゃない。
俺たちが、何のためにお前を送り込んだと思ってる?」
父は、止める様子もなく、静かに言葉を重ねた。
「忘れるな。お前は、ヴァルツ家の人間だ。
――役に立たなくなった駒が、どうなるかくらい……分かっているだろう?」
イリスは、腹部を押さえながら、ゆっくりと息を整える。
「……承知しています」
声が、わずかに震えた。
兄は、つまらなそうに鼻で笑う。
「なら、いい。
次に会うときは、“成果”を持ってこい。……それができなければ」
その先は、言わなかった。
言わなくても、十分すぎるほど伝わる。
父は、淡々と締めくくる。
「リヒター家に嫁いだくらいで、立場が変わったと思うな。
お前は、どこまで行っても――ヴァルツ家のものだ」
部屋を出たとき、イリスは、誰にも気づかれないように、そっと息を吐いた。
(……もう、待ってもらえない)
数日も待たずに、これだ。
実家は、決して、猶予などくれない。
(……早くなんとかしないと)
どんなに危険でも。
どんなに疑われても。
この首輪を、少しでも緩めるために。
イリス・ファン・ヴァルツは、華やかな夜会の光の中で、静かに、そう覚悟を決めた。
***
夜会から戻った屋敷は、相変わらず静かだった。
それが、余計に現実味を増幅させる。
さっきまで耳を満たしていた音楽も笑い声も、ここにはない。
あるのは、広い廊下と、柔らかな絨毯の感触と――腹の奥に残る鈍い痛みだけ。
イリスは自室の扉を閉め、背中を預けるようにして息を吐いた。
(……まだ、痛む)
服の上からそっと腹部を押さえる。
力を入れると、身体が反射的に身を守ろうと硬くなる。
鏡の前に立つと、そこに映ったのは、社交用の微笑みを脱いだ自分だった。
白い肌。銀色の髪。青い瞳。
完璧に整えられた姿のはずなのに、目の奥だけが落ち着かない。
社交界の花
リヒター家の奥方
ヴァルツ家の娘
どれも、間違いではない。
どれも、本当の自分ではない気もする。
引き出しの中にしまった手紙の存在を、思い出す。
次に会うときは成果を。
あの言葉が、まだ耳の奥で鳴っていた。
(……時間がない)
数日沈黙しただけで、あれだ。
もう一度先延ばしにすれば、次はあれだけでは済まない。
イリスは、ゆっくりと髪飾りを外し、ドレスを着替える。
手が震えないように、呼吸を整えながら。
そして机の前に座った。
(何を渡す)
頭の中で、答えの出ない選択肢が並ぶ。
本当の機密を渡す――それは、リヒター家を裏切ることになる。
カーライルを、彼の家を、国王側近の立場を。
そうして得られるのは、ほんの少しの延命だけだ。
いずれ、もっと大きな火種になって自分を焼く。
何も渡さない――それは、実家に殺される。
(……なら)
残る道は、一つしかない。
(“意味がありそうで、致命的じゃない情報”を渡す)
実家が満足し、矛先を逸らす程度には“役に立つ”。
でも、リヒター家にとっては痛手にならない。
そんなものを、組み立てる。
(これは、綱渡りだ)
でも、綱に足を乗せないなら、落ちるのは確実だ。
翌日からイリスは、動き始めた。
書斎には入れない。
だから、別の場所から拾う。
屋敷の応接間に置かれた新聞や、公開されている公告。
来客の名簿の端に記された、何気ない肩書き。
使用人が運ぶ盆の上で交わされる、ほんの短い会話。
「明日、旦那様は北門の視察へ――」
「王都の警備は、しばらく強化されるそうよ」
言葉は短く、断片で、誰にでも聞こえてしまう種類のものだ。
それでも、いくつも繋げれば、“それらしい形”になる。
イリスは、聞いた端から頭の中にしまい込んでいった。
核心には触れない。
触れたら終わる。
(……足りない)
夜、部屋に戻るたびに思う。
でも、それでいい。足りないくらいがいい。
足りないから、実家は「もっと寄こせ」と言う。
その分だけ、自分は“次”の時間を得られる。
数日後。
屋敷の廊下で、使用人が小さく一礼した。
「奥方様。こちらに、今夜の来客の予定がございます」
「……ありがとうございます」
受け取った紙には、家に招かれる客の名と、簡単な用件が並んでいる。
公にしても困らない程度のもの。
けれど、実家に見せれば“内部”に触れたように見える。
(……これで、形になる)
夜。
イリスは机に向かい、紙と封筒を用意した。
ペン先を紙に当てる前に、いったん目を閉じる。
(うまくいく?)
(これで、私は生き延びられる?)
祈るような気持ちが、喉の奥に詰まる。
でも、祈ったところで、誰も助けてくれない。
イリスは、息を吸って、書き始めた。
『父上、兄上
リヒター家にての状況をご報告いたします――』
文章は丁寧に、冷静に。
事実と嘘を混ぜあわせ、内部事情に見せかけたものを。
書き上げた内容を、もう一度読み返す。
どこまでが真実で、どこからが“加工”なのか、すでに自分でも曖昧になる。
(……これで、本当に大丈夫?)
不安に思いつつイリスは、最後に短い一文を添えた。
『追って、詳細を探り、改めてご報告いたします』
――“続き”を匂わせる。
今夜の目的は、時間を稼ぐことだ。
ペンを置くと、指先が少しだけ冷えていた。
封筒に手紙を入れる。
蝋で封をするため、印章を押し当てる瞬間、胸の鼓動が強くなる。
(……賭けだ)
この一通で、実家の苛立ちを抑えられれば、リヒター家に、怪しまれなければ。
封が固まるまでの数秒が、やけに長く感じられた。
翌朝。
イリスは、使用人を呼び止めた。
前に出すぎないように、けれど、ためらいも見せないように。
「この書状を、ヴァルツ公爵家へ。至急でお願いします」
使用人は一瞬だけ封筒を見てから、丁寧に一礼した。
「かしこまりました」
――その一瞬の間に、何かを測られた気がした。
廊下の先へ去っていく背中を見送りながら、イリスは、そっと息を吐く。
(これで、少しは……)
少しは、命が繋がる。
そう願った、そのときだった。
背後から、足音がした。
振り返ると、カーライルが立っていた。
濃紺の髪は乱れなく、グレーの瞳は冷静にこちらを見ている。
イリスは、微笑みを作ろうとした。
でも、ほんの一瞬だけ遅れた。
カーライルは、何も言わない。
ただ、目の奥が――“測る”ように細くなる。
「……」
その沈黙だけで、胸の奥が冷える。
(……見られた)
彼は、やがて視線を逸らし、何事もなかったように歩き出した。
イリスは、その背中を見送りながら、指先を握りしめた。
(お願い……何事もありませんように)
屋敷の静けさが、また、耳に戻ってくる。
安全なはずの場所が、少しだけ狭く感じた。
***
ヴァルツ家からの催促は、思ったより早く、そして露骨だった。
数日前に送った報告への返事は、短い。
礼も評価もなく、ただ――
『内容が薄い。次は、もっと踏み込め』
それだけ。
(……時間稼ぎにもならないのか)
イリスは、手紙を折りたたみ、引き出しにしまった。
胸の奥に、冷たい焦りが広がる。
ヴァルツ家からの催促は、はっきりと“急かす”形になっていた。
最初は書状。
少し間を置いて、また書状。
そして今度は、使者。
(……このままじゃまずい)
イリスは、机の引き出しに手紙をしまいながら、胸の奥で小さく息を吐いた。
(前のじゃ足りない、ってことよね。でもこれ以上はリヒター家を裏切ることになってしまう)
時間を稼ぐつもりで送った報告は、もう限界に近い。
次に何も渡せなければ、間違いなく、もっと露骨な圧が来る。
一方で、カーライルのもとにも、屋敷の動きは届いていた。
「ここ数日、奥方様宛の書状と使いが続いています。いずれもヴァルツ家からです」
「……頻度は?」
「以前より、明らかに多いかと」
カーライルは、書類から目を上げ、しばらく考え込んだ。
(向こうは、彼女を急かしている……)
それが意味するのは、二つに一つだ。
すでに何かを渡しているか。
あるいは――催促されているか。
(どちらにせよ……放っておく理由はないな)
カーライルは、その日のうちに、一つの“試し”を仕掛けることにした。
人の出入りが多い応接間で、側近や使用人が自然に耳にする距離。
そこで、いかにも**内部事情らしい“嘘の情報”**を、本物のような調子で口にする。
「……国王陛下は、南の件を優先するおつもりらしい」
「王都の警備も、北門は手薄になる、と」
内容は、意図的に現実とずらしてある。
だが、聞きかじりの情報としては、十分に“それらしく”聞こえるはずだ。
カーライルは、その話題を、日を置いて何度か繰り返した。
まるで、うっかり口を滑らせているかのように。
(聞いていない、ということはないだろう)
イリスが屋敷にいる以上、どこかで耳に入っているはずだ。
(……あとは、向こうがどう動くか)
数日後、報告が届いた。
「ヴァルツ家の動きですが……特に変化はありません。
例の話に関係しそうな接触や、王都周辺での動きも、確認されていないとのことです」
カーライルは、報告書に目を落としたまま、しばらく黙っていた。
(……動かない、か)
あの話が向こうに渡っていれば、何かしら反応があっていい。
だが、今のところ、何もない。
(少なくとも……今は、情報は出ていない、ということか)
疑いが消えたわけではない。が。
(……ヴァルツ家の言いなり、というほど単純でもないのかもしれないな)
***
その頃イリスは食堂で昼食をとっていた。
カーライルが警備の話をあちこちでしているのは気づいていた。
話の内容が、ゲームの内容と違うような……。それにわざと話しているようにも見える
(きっと私が動くかどうか探っているんだわ)
ここで動くわけにはいかないし、ヴァルツ側に嘘だとバレる可能性もある。
(なにか次の手を考えないと……)
そんな事を考えていた。
使用人がカップに食後の紅茶を注ごうとした、その一瞬。
手元がわずかに狂い、熱い紅茶が、イリスの膝から太腿にかけてこぼれ落ちた。
「……っ!」
布越しでもはっきり分かる熱が走る。
カップが床に落ちる音。
食堂の空気が、一瞬で凍りついた。
「も、申し訳ありません……!」
使用人は、顔色を失って、すぐに頭を下げた。
「お、お怪我は……跡が残ったら……!」
声が震えている。
周囲の使用人たちも、固まったように動けずにいる。
イリスは、ゆっくりと立ち上がり、濡れたスカートの裾を押さえた。
(……熱い。でも……)
それよりも、目の前の使用人の怯えきった表情のほうが、強く目に入った。
「……大丈夫です」
イリスは、できるだけ落ち着いた声で言った。
「驚いただけです。すぐに冷やせば、大丈夫だと思います」
「で、ですが……お体に跡が……」
「問題ありません。あなたも、わざとではないのでしょう?」
そう言って、イリスは小さく首を振る。
「今は、布と冷たい水をお願いできますか? それで十分です」
使用人は、信じられないという顔をしてから、何度も頭を下げ、慌てて走っていった。
張り詰めていた空気も、少しずつほどけていく。
その後、イリスは自室で応急処置を受けた。
太腿には、白い布と包帯が巻かれている。
(……しばらく、歩きにくそうね)
そんなことを考えているうちに、この件はカーライルの耳にも入った。
「……火傷?」
短く、確かめるような声。
「はい。昼食後のお茶の際に。
大事にはなっていません。すぐに手当てをしたと」
「……使用人は?」
「強く叱責されることもなく、奥方様がその場で収めた、と聞いています」
カーライルは、それ以上は何も言わなかったが、内心では小さく眉をひそめた。
(……普通なら、もっと騒ぎになる)
ヴァルツ家の評判を思い出す。
立場で押さえつけ、逆らえば切り捨てる家。
(処罰して、見せしめにする……それくらいは、してもおかしくないはずだが)
だが、そうはならなかったらしい。
廊下の向こうで、少し歩きにくそうにしているイリスを見かけたとき、カーライルは、ほんの一瞬だけ足を止めた。
イリスは、いつも通り、控えめに一礼する。
彼は、そのまま何も言わずに通り過ぎた。
(……少なくとも)
胸の奥で、はっきりとは言葉にならない考えが、静かに形を取り始める。
そのまま通り過ぎかけて――
ほんの一瞬、ためらうように足を止めた。
「……イリス」
呼び止められて、イリスは少し驚いたように振り返る。
「はい?」
カーライルの視線が、一瞬だけ、彼女の脚に落ちる。
すぐに視線は戻ったが、その短い間に、何を見ていたのかは分かってしまった。
「……怪我は、どうだ」
問いかけは短く、ぶっきらぼうだ。
けれど、完全に他人事の声でもなかった。
「ええ。きちんと手当てはしてもらいました。
しばらくは不便でしょうけど……問題ありません」
本当のところ、少し痛む。
けれど、それを強調するほどのことでもない。
カーライルは、小さく頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。
一瞬、沈黙。
そのまま、彼は歩き出す――かと思ったが、そうはならなかった。
「……少し、話がある」
短く、そう告げる。
イリスは、一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「……分かりました」
二人の距離に、微妙な緊張が戻る。
夕方の廊下に、足音だけが静かに響いていた。
***
場所を移したのは、人の少ない小さな応接間だった。
扉が閉まると、外の気配が遠のく。
静けさが、逆に、言葉の重さを強める。
カーライルは、少し距離を取ったまま、イリスを見た。
「……ヴァルツ家からの連絡が、増えているそうだな」
イリスの指先が、わずかに強張る。
「……はい。そう聞いています」
事実だ。否定はできない。
カーライルは、少しだけ間を置いてから、はっきりと続けた。
「リヒターを裏切っているのか?」
空気が、ぴんと張りつめる。
「……それとも、お前にとっては、ヴァルツ家のほうが大事なのか」
その言葉は、静かだったが、鋭かった。
疑いと、警戒と、苛立ちが、隠しきれずに混じっている。
イリスは、思わず声を強めた。
「……リヒターを裏切るはずがありません!」
はっきりと、言い切る。
けれど、そのあと、言葉が続かなかった。
一瞬、視線が揺れる。
小さく、息を吸ってから、ぽつりと零す。
「父上たちは……私を、道具としか見ていませんから……」
それ以上は、言えなかった。
本当のことを言って、信じてもらえる自信が、ない。
カーライルは、わずかに眉をひそめた。
「……何を言っている?」
声には、困惑が混じる。
ヴァルツ家の令嬢が、道具扱い?
少なくとも、自分の記憶のなかでは大切にされていたはずだ
それは、彼にとって“当たり前”の認識だった。
政略結婚に出される駒ではあっても、粗末に扱われる立場ではない。
イリスは唇を開こうとして、やめる。
喉の奥に、言葉が引っかかる。
(言えば……いいのに)
叩かれたこと。
命じられるままに動かされてきたこと。
逆らえば、価値がないと切り捨てられてきたこと。
けれど、それを言葉にしても――
きっと、この人は信じない。
イリスは、視線を落とし、指先をぎゅっと握りしめた。
「……すみません」
それが、やっと絞り出せた言葉だった。
謝る理由なんて、本当はない。
でも、これ以上、何も言えなかった。
部屋の中に、沈黙が落ちる。
時計の音が、やけに大きく聞こえた。
カーライルは、しばらくイリスを見ていた。
問い詰めるでもなく、責めるでもなく。
ただ、何かを測るような、考え込むような視線。
(……分からない)
彼女は、ヴァルツ家の令嬢だ。
だが、今、目の前にいるこの女性は――
噂に聞く“悪女”とも、計算高い裏切り者とも、どこか違う。
嘘をついているようにも見えない。
かといって、その言葉を、そのまま信じられる材料もない。
けれど、同時に、はっきりとした違和感が残る。
カーライルの中で、イリス・ファン・ヴァルツという存在は、
“警戒すべき相手”から――
“簡単には割り切れない、分からない相手”へと、静かに形を変え始めていた。
応接間の扉が閉まる音は、必要以上に大きく聞こえた。
あの沈黙のあと、イリスは「失礼します」とだけ言って部屋を出た。
カーライルも引き留めなかった。引き留める言葉を、見つけられなかった。
残されたのは、胸の奥に引っかかる感覚だけだ。
カーライルは机に向かい、目の前の書類を広げた。
だが、文字は頭に入ってこない。
指先で紙の端を押さえ、視線だけが遠くなる。
(……何を抱えている?)
嘘だと断じるには、彼女の表情は真剣すぎた。
演技だと片付けるには、割に合わない場面が増えすぎている。
火傷の件もそうだ。
使用人を罰しなかったという報告は、妙に重く残っている。
貴族の屋敷では、事故そのものより“管理の責任”が問われる。
ましてや、相手がヴァルツ家の令嬢なら――見せしめのような処分があっても不思議ではない。
なのに、彼女はそれをしなかった。
(……少し調べてみるか)
カーライルは呼び鈴を鳴らした。
ほどなくして入ってきた側近は、彼の視線の硬さを見て、余計な挨拶を省いた。
「ご用でしょうか」
「……ヴァルツ家について、調べてほしい」
側近の眉が、わずかに動く。
「屋敷の財政でも、派閥の動きでもない。
――イリスの“扱われ方”だ」
「……扱われ方、ですか」
「表向きの評判は知っている。社交界の花、悪女、計算高い――そういう類だ。
だが、それだけでは足りない」
カーライルは、言葉を選んだ。
「屋敷の中での立場。家族との関係。使用人の反応。
……可能なら、以前ヴァルツ邸に出入りした者の話も拾え」
「承知しました。ですが……その種の話は、表には出にくいかと」
「だからこそ調べる」
側近は一礼して部屋を出ていった。
カーライルは一人残り、窓の外を見た。
庭の植え込みが、風にわずかに揺れている。
彼の頭の中には、二つの像が並んでいた。
社交界で囁かれるイリス・ファン・ヴァルツ。
そして、今目の前にいる、言葉を飲み込むイリス。
どちらが本当か。
あるいは、どちらも本当なのか。
***
カーライルは側近に動かせていた調査の報告を待つことにした。
数日後、側近はいつもより慎重な様子で戻ってきた。
差し出された報告書の束は、分量こそ多くないが、どれも歯切れが悪い。
「……いくつか、気になる話がありました」
「話せ」
「ヴァルツ邸に以前勤めていた下働きが、王都の外れにおります。
直接の証言は避けたがっていますが……“屋敷の中は、外から見えるほど穏やかではない”と」
カーライルは、黙って続きを促した。
「誰が誰をとは明言しませんでしたが、屋敷内で暴力があったという話も出ています。」
報告は、どれも断片的だ。
決定的な証拠にはならない。
だが――妙に、同じ方向を向いている。
「他には?」
「使用人の入れ替わりが激しいようです。
表向きの理由は“家庭の事情”ですが、時期が不自然に重なっています。
それと……屋敷の者たちは、ご令嬢の話題になると、急に口が重くなるそうです」
「……口が重くなる」
「はい。悪女だとか、社交界の花だとか、そういう噂話とは別に、
“触れてはいけない話”のように扱われている、と」
カーライルは、報告書に視線を落とした。
はっきりした証拠はない。
だが、綺麗すぎるほど“何も出てこない”のは、かえって不自然だった。
(……大切にされている令嬢、とは言いにくいな)
あのとき、イリスがぽつりと零した言葉が、頭の中によみがえる。
――道具としか思っていない。
冗談だと切り捨てるには、今集まってきた話は、あまりにも噛み合いすぎている。
(……嫌な予感しかしないな)
確証は、まだない。
だが、確証を待っている間に――
(何か、取り返しのつかないことが起きる気がする)
***
その知らせは、朝の執務が始まって間もなく届いた。
「ヴァルツ家の使者が来ています。
奥方様に“至急”お会いしたいとのことです」
カーライルは、書類から顔を上げた。
「……理由は」
「“ご実家の事情で、一度戻ってきてほしい”とのことです。
ご体調のことも案じている、と」
その言い方が、妙に整いすぎている。
丁寧で、礼儀正しく、そして――断りにくい。
(……来たか)
胸の奥に、あの嫌な予感が再び広がる。
応接間に通された使者は、年配の男だった。
表情は穏やかで、言葉遣いも柔らかい。
「ご無沙汰しております、カーライル様。
このたびは、イリス様のお身体のことを案じまして」
「……怪我のことか」
「ええ。ささいなこととは聞いておりますが、やはりご実家としては心配でして。
一度、こちらで静養なさっては、という話になりまして」
用意された理由は、よくできている。
体調。静養。家族の心配。
どれも、表向きには、拒む理由にならない。
「それに……少し、家の用事もございまして。
長くお引き留めするつもりはありません。ほんの数日ほどで」
“ほんの数日”。
その言葉が、妙に軽い。
カーライルは、言葉を選びながら答えた。
「……本人の意向を、確認する」
「もちろんでございます。無理に、とは申しません」
そう言いながら、使者はすでに“来る前提”の顔をしている。
イリスに話を伝えると、彼女は一瞬だけ、言葉を失ったように見えた。
「……実家、ですか」
声は落ち着いている。
けれど、指先が、わずかに強張ったのを、カーライルは見逃さなかった。
「“静養”だそうだ。数日で戻ると言っている」
「……そう、ですか」
イリスは、短く頷いた。
本当なら、ここで「行かなくていい」と言う選択肢もある。
だが、理由が“体調”と“家族の用事”では、正面から拒めば、別の波紋が立つ。
(証拠がない)
あの調査結果は、あくまで“気になる話”の域を出ない。
ここで強く止めれば、逆にヴァルツ家を刺激する可能性もある。
カーライルは、静かに言った。
「……無理はするな。
何かあれば、すぐに知らせろ」
それは命令でも、引き留めでもない。
ただの、短い忠告だった。
イリスは、少しだけ視線を伏せてから、頷いた。
「……分かりました」
馬車の準備は、驚くほど早かった。
まるで、最初からこの流れになることが決まっていたかのように。
屋敷の前に止まった馬車に乗り込むとき、イリスは一度だけ振り返った。
玄関先に立つカーライルと、目が合う。
何か言おうとして、やめた。
カーライルも、何も言わなかった。
ただ、その視線には、はっきりとした迷いと、消えきらない警戒があった。
理屈では、問題のない里帰りだ。
だが、理屈とは別のところで、胸がざわつく。
馬車の扉が閉まり、車輪が動き出す。
イリスの姿が、ゆっくりと遠ざかっていく。
カーライルは、その場にしばらく立ち尽くしていた。
(……本当に、数日で戻るだけならいい)
だが、頭のどこかで、はっきりとした声がささやいている。
(――そう簡単に、済む話じゃない)
その予感だけが、妙に、確信に近かった。
***
馬車がヴァルツ公爵邸の門をくぐった瞬間、イリスは、はっきりと“戻ってきた”と感じた。
空気が、違う。
リヒター家の屋敷にあった、静かで、どこか張りつめてはいても“整っていた”空気とはまるで別物だ。
ここには、息を吸うたびに、胸の奥が重くなるような圧がある。
馬車が止まり、扉が開く。
迎えに出た使用人たちは、深く頭を下げはするが、その動きはどこか機械的だった。
目が合うことはない。
必要以上に、近づいてこようともしない。
その態度だけで、十分だった。
屋敷の中に足を踏み入れた途端、イリスは呼び止められた。
「お嬢様。旦那様とご子息様が、お待ちです」
声は丁寧だ。
けれど、そこに選択肢はない。
(……いきなり、ね)
通されたのは、いつもの部屋――父の執務室だった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
部屋の奥には、父と兄が並んで立っていた。
どちらの顔にも、歓迎の色はない。
「……遅い」
最初に口を開いたのは、兄だった。
「返事をよこさないと思ったら、今度は向こうの家に引きこもりか?」
「……そんなつもりはありません」
「つもりがどうかなんて、どうでもいい」
兄は、イリスの顔を値踏みするように見てから、鼻で笑った。
「で? 成果は?」
イリスは、言葉に詰まった。
「……まだ、探っているところです」
「探っている?」
次の瞬間、兄の手が、彼女の頬を打った。
乾いた音が、部屋に響く。
「っ……!」
よろめいたイリスを、父は止めもしない。
「言い訳はいい。結果を出せ、と言っている」
低く、冷たい声。
「お前は、何のために嫁いだ?」
「……ヴァルツ家のため、です」
「分かっているなら、なぜ動かない」
兄が、苛立ちを隠さずに言い放つ。
「向こうは国王側近だ。情報はいくらでもあるはずだろう。
それとも……もう“あっち側”の人間のつもりか?」
「そんなことは――」
言い終わる前に、今度は腹に衝撃が走った。
「……っ!」
息が詰まり、膝が落ちる。
「口答えするな」
兄は、吐き捨てるように言った。
「いいか。お前は、俺たちの“道具”だ。
役に立たないなら、価値はない」
父も、淡々と続ける。
「向こうの家に、情でも湧いたか?
……勘違いするな。お前の居場所は、どこまでいっても、ここだ」
イリスは、床に手をつきながら、必死に呼吸を整えた。
(……ダメ。ここで、折れたら)
だが、現実は容赦がない。
その日は、執務室を出ることを許されず、
翌日からは、部屋に閉じ込められた。
食事は最低限。
見張り付き。
外との連絡は、完全に遮断。
そして、呼び出されるたびに、同じことを聞かれる。
「本当になにも掴めていないのか」
「嘘なんじゃないか」
「少しくらい役に立つ情報は無いのか」
答えられないたびに、罰が増える。
殴られる。
蹴られる。
何時間も放置される。
身体よりも、心のほうが、先に擦り切れていく。
(……このままじゃ、ほんとに……)
夜、薄暗い部屋で一人になると、イリスは、天井を見つめながら思い出していた。
転生前に読んだ“物語”。
悪役貴族が反逆に失敗し、一族まとめて処刑される未来。
その中に、確かに“イリス”の名もあった。
(……そうだ)
この家は、いずれ破滅する。
そして、そのとき、私は――一緒に、切り捨てられる。
助かる道は、ただ一つ。
(……生きるために、使えるものは、全部使う)
たとえ、それが“嘘”でも。
たとえ、それが、誰かを危険にさらすかもしれなくても。
翌日、イリスは、兄に呼び出された。
父の執務室。
重たい扉。
逃げ場のない、あの空気。
「……で、何か思い出したか?」
彼女は、ゆっくりと顔を上げる。
「……お話しできることが、あります」
その声は、かすれていた。
けれど、はっきりとした決意が、そこにはあった。
兄と父の視線が、鋭くなる。
(……もしかしたら、ヴァルツ家と共に処刑されるかもしれない。……でも)
生き延びるための、最後の綱。
イリスは、意識して背筋を伸ばして立った。
脚はまだ痛む。息も、深く吸うと胸が重い。
「……で、なんだ」
兄が、椅子に腰掛けたまま言った。
「役に立つ話とは」
父の視線は冷たく、無言でイリスを見ている。
イリスは、一瞬だけ目を伏せた。
(……ここで、間違えたら)
殺される。
それが、はっきりと分かる距離にいる。
「……リヒター家の動きについて、いくつか」
兄の目が、わずかに細くなる。
「ほう?」
「国王との距離が、以前より近づいています。
特に、王都の警備と北方の件で、意見が通りやすくなっているようです」
以前リヒター家で流れていた嘘の情報と、ゲームで見た記憶を頼りに、わざと間違えた情報を選んで話す。
父は、ゆっくりと口を開いた。
「具体的には?」
イリスは、言葉を選ぶふりをしながら、続ける。
「近いうちに、王都の警備の配置が見直される、という話を聞きました。
表向きは別件ですが……実際には、北門を薄くして、別の場所に戦力を回すつもりのようです」
ヴァルツ家が欲しいのは、中枢警備に関わる内部情報だ。
兄は、顎に手を当てた。
「……つまり、北を突けばいい、と?」
「はい。リヒター家は、別の場所に意識をさいています」
父の視線が、鋭くなる。
「その話の、裏は取れているのか」
イリスは、ほんの少しだけ、言葉に詰まる“演技”をしてから、答えた。
「……まだ、断片的です。
でも、リヒター家の中で、その話題が出ているのは、確かです」
実際情報としては嘘の情報だが、話が出ていた事は真実だ。
兄は、しばらく黙って考え込み、それから、口元に薄い笑みを浮かべた。
「……ようやく、使える話が出てきたじゃないか」
父も、ゆっくりと頷く。
「いいだろう。
その線で、こちらも動く」
イリスの胸の奥が、ひやりと冷える。
(……嘘だとバレませんように……)
息つく間もなく、父の声が低く落ちる。
「次は、もっと確かなものをさっさと寄越せ。」
「……はい」
更に続ける。
「わかっていると思うが、くれぐれもリヒターに告げ口しようなんて思うなよ?」
「承知しております……」
イリスは、深く頭を下げ部屋を後にした。
扉を閉めた途端、足の力が抜けそうになるのを壁に手をついてなんとか堪える。
これは、リヒターを売るための情報じゃない。
ヴァルツを“誤誘導”するための情報だ。
(……お願い。引っかかって)
ヴァルツ家がこの話を信じて、北に力を割いてくれれば。
そうミスリードを誘ったリヒター家が有利に動けるかもしれない。
イリスは、痛む脚を引きずるようにして、自分の部屋へ戻った。
***
その日の夜から、ヴァルツ家は彼女の“偽りの情報”を元に、動き始めていた。
最初に気づいたのは、動きの“タイミング”だった。
ヴァルツ家が、急に忙しくなった。
それも、表に出ない形で。
人の出入りが増えたわけでもない。
だが、王都の裏側――金と情報が交わる場所で、ヴァルツ家の名が、妙に頻繁に聞こえ始めた。
後日。
「……動いています」
側近の報告は、短く、だが重い。
「どの方面だ」
「王都の警備に関わる商人と、北門周辺の地理に詳しい者たちです。
表向きは“投資”や“調査”の名目ですが……準備の匂いがします」
カーライルは、机の上に広げた地図に視線を落とした。
(北門……)
数日前、自分がわざと口にした“あの話題”と、重なる。
偶然、と片付けるには、タイミングが良すぎた。
「……いつからだ」
「奥方様がヴァルツ邸に戻られてから、です」
その一言で、胸の奥が、はっきりと冷えた。
(……やはり)
イリスが戻された“あと”。
そして、その直後に始まった動き。
頭の中で、点がつながっていく。
あのとき。
彼女は追い詰められていた。
そして、“役に立つ情報を出せ”と、確実に迫られていた。
(……出した、のか)
だが同時に、別の違和感もある。
(いや……おかしい)
ヴァルツ家の動きは、どこか“噛み合っていない”。
焦っているようで、肝心なところを外している。
まるで――
誰かに、少しだけ“ずらされた地図”を渡されたかのように。
「……他には?」
カーライルは、声を低くして尋ねた。
「以前お話しした、ヴァルツ邸の内情についての件ですが……追加の話が出ました」
側近は、ためらうように一瞬だけ間を置いてから、続ける。
「“ご令嬢が、長時間部屋から出されないことがあった”という証言です。
それと……最近、屋敷の中で医師が頻繁に出入りしている、と」
カーライルの指が、地図の端を強く押さえた。
(……医師)
怪我の手当て、というレベルだろうか。
それとも――
「……誰のためだ」
「はっきりとは。
ですが……時期は、奥方様が戻られてから、です」
沈黙が落ちる。
疑いは、まだ“確証”にはならない。
だが、ここまで条件が揃ってしまえば――
(……無関係だと言い切るほうが、無理がある)
ヴァルツ家の動き。
イリスが戻された時期。
そして、少し“外れた”方向に進んでいる準備。
(……彼女は、何を出した)
いや、正確には――
(……何を“引き出された”)
カーライルは、ゆっくりと息を吐いた。
机の上の報告書をまとめ、立ち上がる。
「……確認する」
側近が、はっと顔を上げる。
「直接、ですか」
「ああ」
これ以上、噂と書類の上で考えていても、答えは出ない。
そして、嫌な予感だけが、時間と一緒に膨らんでいく。
「……準備をしろ。
ヴァルツ邸へ行く」
「ですが、理由は――」
「正式な訪問だ。
“妻の様子を見に来た夫”としてな」
側近は、一瞬だけ迷ったが、すぐに頷いた。
「承知しました」
部屋に一人になると、カーライルは、窓の外を見た。
空は、相変わらず穏やかだ。
だが、その下で、確実に何かが歪み始めている。
(……間に合え)
それが、誰に向けた願いなのか。
自分でも、はっきりとは分からなかった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
もう、“様子を見る”段階ではない。
ヴァルツ家の門の向こうで、
何かが、取り返しのつかないところまで進もうとしている。
***
ヴァルツ公爵邸の門は、以前と変わらない重厚さで立ちはだかっていた。
だが、カーライルの目には、その門が“檻の入口”のように見えた。
「リヒター家当主代理、カーライル・リヒターだ。
妻の様子を見に来た。取り次げ」
名を告げると、門番は一瞬だけ視線を揺らした。
その、ほんの僅かな間が、胸に引っかかる。
やがて門は開き、案内役の使用人が現れた。
「……当主様にお会いしてからでなければ――」
「その必要はない」
カーライルは、即座に遮った。
「まず、妻に会う」
「ですが……規則で――」
「拒む理由があるのか」
声音は低い。
しかし、有無を言わせない圧があった。
使用人は、言葉を失い、視線を伏せる。
「……ご案内します」
屋敷の中は、妙に静かだった。
昼間だというのに、人の気配が薄い。
(……隠しているな)
長い廊下を進むにつれ、空気が重くなる。
案内役は、ある扉の前で、ほんの一瞬だけ、躊躇するように足を止めた。
その仕草だけで、十分だった。
「開けろ」
扉が開いた。
部屋の中は、薄暗い。
カーテンは閉め切られ、昼の光がほとんど入っていない。
「……イリス」
呼びかけても、返事はない。
カーライルは、部屋の奥へと足を踏み入れ――そこで、息をのんだ。
ベッドの上に、イリスがいた。
痩せた。
はっきり分かるほどに。
頬はこけ、唇の色は薄い。
腕には、隠しきれない痣がいくつも残っている。
「……っ」
無意識のうちに、拳が握りしめられていた。
「イリス」
もう一度、名前を呼ぶ。
彼女は、かすかにまぶたを動かし、ゆっくりと目を開けた。
「……どう、して……?」
焦点の合わない目が、こちらを探す。
カーライルは、一瞬、言葉を失った。
「…………」
何も言えなかった。
ただ、そこにいることを示すように、彼女のそばに近づく。
その様子を見て、イリスは、わずかに息を整えたように見えた。
背後で、慌てた足音が響く。
父と兄が、部屋に入ってきた。
「いったい誰の許可を得て!……これは、誤解だ!」
父が、いつもの調子で言い訳を始める。
「少し体調を崩していた娘を、療養させていただけだ」
カーライルは、ゆっくりと振り返った。
「……療養、だと?」
声は低く、抑えられている。
だが、その静けさが、かえって危険だった。
「これが、療養に見えるか」
視線が、イリスの腕の痣に向く。
兄が、舌打ちする。
「大げさだ。少し躾をしただけだろう」
その瞬間、空気が凍った。
「躾……?」
カーライルは、ゆっくりと二人を見た。
「……妻だぞ。リヒター家の」
父は、肩をすくめる。
「だが、同時にヴァルツ家の娘でもある。
少し、言うことを聞かせただけだ」
「少し?」
カーライルは、一歩、前に出た。
「部屋に閉じ込め、外と遮断し、殴り、蹴り、医師を呼ぶほどの怪我をさせて――
それを、“少し”と言うのか」
二人は、言葉に詰まった。
そこへ、側近が静かに言った。
「先ほど、使用人から話を聞きました。
“ご令嬢は、何日も外に出されていなかった”そうです。
それと……治療の記録も残っています」
父の顔色が、変わる。
「……リヒター家には関係無いだろう。すべては、家の中の問題で――」
「もう、“家の中”ではない」
カーライルは、はっきりと言い切った。
「彼女は、私の妻だ。
そして――ここで何が行われていたかは、正式に調べさせてもらう」
兄が、苛立ちを隠さずに言う。
「何だと? まさか、こちらと争うのか」
「争うも何も、見ての通りだ」
カーライルは、イリスのほうへと向き直った。
ベッドのそばに膝をつき、そっと声を落とす。
「……イリス。立てるか」
彼女は、一瞬だけ困ったように眉を寄せてから、小さく首を振った。
「……あし……」
カーライルは、迷わず彼女に手を伸ばした。
「……失礼する」
慎重に、だが確実に、イリスを抱き上げる。
軽い。
思った以上に。
その軽さが、胸に突き刺さった。
「連れて帰る」
カーライルは、父と兄を見た。
「異議は、正式な場で聞こう。
今は――彼女を、ここから出す」
「勝手なことを――」
兄が言いかけた、その言葉を、側近の一言が遮った。
「既に、必要な手続きは整っています。
抵抗されるなら……公的な問題になりますが」
沈黙。
ヴァルツ家の二人は、何も言えなかった。
屋敷を出るとき、外の光が、やけに眩しく感じられた。
馬車の中で、イリスは、カーライルの胸に預けられる形で、浅く呼吸をしている。
「……ごめんなさい」
かすれた声が、聞こえた。
「……迷惑、かけて……」
カーライルは、少しだけ、抱く腕に力を込めた。
「……謝るな」
短く、それだけ言う。
イリスは、目を閉じた。
馬車が動き出す。
ヴァルツ公爵邸が、ゆっくりと遠ざかっていく。
カーライルは、窓の外を見ながら、思考を巡らせる。
(……俺の判断は間違っていたのか)
そして同時に、別のことも。
(……彼女は、利用されていたのだ)
ヴァルツ家の“協力者”などではない。
少なくとも、自由意志で動いていた存在ではない。
馬車は、リヒター家へと向かって走っていく。
イリスは、まだ目を閉じたままだ。
だが、その胸は、確かに上下している。
――生きている。
その事実だけで、今は十分だった。
***
目を覚ましたとき、天井が白かった。
一瞬、どこにいるのか分からず、イリスはまばたきを繰り返す。
鼻先に、かすかに薬草の匂い。
シーツは柔らかく、全身手当てされている。
(……ここは……)
思い出そうとした瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
ヴァルツ邸。
暗い部屋。
閉ざされたカーテン。
――そして、扉が開いたときの光。
「……リヒター家です」
静かな声がして、視線を向けると、ベッドのそばに侍女が立っていた。
「医師の診察も終わっています。
打撲と火傷はありますが、命に別状はありません。
しばらくは、安静にしてくださいね」
「……そう、ですか」
声が、少し掠れた。
喉が痛む。でも、ちゃんと声が出る。
(……生きてる)
その事実が、じわっと遅れて胸に広がった。
侍女は、水を差し出してから、静かに言った。
「カーライル様が、すぐ外にいらっしゃいます。
目を覚ましたら、知らせるように、と」
その名前を聞いた瞬間、イリスの指先が、わずかに震えた。
(……会いたい。でも……)
同時に、思い出してしまう。
自分が、ヴァルツ家に“情報”を渡したこと。
それが、どんな形であれ、リヒター家を巻き込む可能性があること。
(……私は……)
扉が、控えめにノックされた。
「……入るぞ」
「……はい」
カーライルは、静かに部屋に入ってきた。
いつものように背筋は伸びているが、視線はどこか慎重だった。
ベッドのそばまで来て、一度、イリスの顔を確かめるように見る。
「……目、覚めたか」
「……はい」
短いやり取りのあと、少しだけ沈黙が落ちる。
カーライルは椅子を引いて腰掛けた。
「医師からは、しばらく安静にしろと言われている。
……無理をするな」
「……ありがとうございます」
視線を落とす。
言いたいことは、たくさんある。
でも、どこから口にすればいいのか分からない。
カーライルのほうが、先に口を開いた。
「……ヴァルツ邸で、何があった」
声は静かで、責める調子でもない。
だからこそ、胸が痛んだ。
「……」
イリスは、すぐに答えられなかった。
「……少し、言い合いになって……」
それだけを、まず口にする。
カーライルは、じっと彼女を見ている。
「……それだけで、ああはならない」
静かな指摘。
イリスは、シーツの端をきゅっと握りしめた。
「……家の問題、です。
前から……ああいう感じでした」
カーライルは、短く言った。
「……君が受け入れる必要は無い」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
カーライルは、少し間を置いてから、問いを重ねた。
「……ヴァルツ家に、何か渡したのか」
心臓が、はっきりと跳ねた。
イリスは、観念したように、小さく頷いた。
「……はい」
カーライルは、黙って続きを促す。
「……リヒター家のことです。
王都の警備と……北門の配置について……」
声が詰まる。
「……以前カーライル様が流していた嘘の情報と、私の考えた間違った情報を伝えました」
顔を上げられないまま、続ける。
「……ごめんなさい。
嘘とはいえど……リヒター家を巻き込んでしまうかもしれません」
部屋の中に、短い沈黙が落ちる。
カーライルは、すぐには何も言わなかった。
ただ、イリスを見ている。
「……なぜ私の流した情報が嘘だとわかった?」
静かに確認する。
「……私が集めた情報と、辻褄が合わなかったんです」
「嘘だとわかって、実際には間違った話を渡した、ということだな」
イリスは、小さく頷いた。
「……はい」
唇を噛む。
「……勝手なことをして、すみません」
カーライルは、少しだけ息を吐いた。
「……教えてくれて、ありがとう」
イリスは、思わず顔を上げた。
その声には、責める響きがなかった。
「遅かれ早かれ、ヴァルツ家は動いていたはずだ。
君の話で……状況は、少し整理できた」
それから、視線を少し和らげる。
「……無茶はした。だが、あの状況で、追い詰められていたのも分かる」
イリスの胸が、少しだけ、緩む。
「……すみません」
それでも、謝る。
カーライルは、首を横に振った。
「今は、もういい」
そう言って、静かに続ける。
「……今は、休め。
君の体は、まだ戻っていない」
「……でも……」
「話の続きは、あとだ」
強すぎないが、はっきりした声音。
「ここでは、もう安全だ。
それだけ、覚えておけばいい」
そう言って、椅子から立ち上がる。
扉の前で、少しだけ立ち止まり、振り返った。
「……ヴァルツ家の件は、こちらで対応する。
君は……ちゃんと、治せ」
命令ではなく、気遣いに近い言い方だった。
扉が閉まる。
イリスは、しばらくその音を聞いたまま、動けずにいた。
怖かった。
でも――少しだけ、息がしやすくなった気がした。
シーツの上で、そっと目を閉じる。
(……あとは……)
あとは、カーライルが動く。
その事実に、わずかな不安と、ほんの少しの安心が、混ざっていた。
***
夜更けの執務室は、灯りが少なかった。
机の上には、地図と報告書。
赤と黒のインクで引かれた線が、王都の要所をいくつも結んでいる。
カーライルは、腕を組んだまま、地図を見下ろしていた。
「……状況を整理しよう」
向かいに座るのは、いつもの側近二人。
一人は情報担当、もう一人は実務と兵の手配を担う男だ。
「ヴァルツ家の動きは、ここ数日で急に活発化しています」
情報担当が、書類をめくりながら言う。
「特に、北門周辺の商人、運送業者、地理に詳しい者たちへの接触が目立ちます」
カーライルは、地図の北側を指でなぞった。
「……北門、か」
そこは、表向きは重要だが、現状、決定的な弱点になる場所ではない。
むしろ――
「向こうは、“こちらが北を薄くする”と信じて動いている節があります」
実務担当が、静かに補足する。
「実際には、警備の再編は別の区画が中心です。
北門は、現時点では大きく変えない予定でしたから」
カーライルは、小さく息を吐いた。
イリスが言っていた内容と、報告が、はっきり重なる。
「……彼女が渡した情報は、我々が故意に流した情報だ」
側近たちは、頷いた。
「ヴァルツ家は、イリスの言葉を検証せずに動いている。
少なくとも、今のところは」
カーライルは、机の上に指を置いた。
「……なら、こちらは二つやる」
一つ目。
「実際に薄くなる区画の警備は、予定より早めに、静かに補強する。
向こうに気取られないようにな」
二つ目。
「北門のほうは……“警備が減っているように見せる”」
側近の一人が、眉をひそめる。
「囮、ですか」
「ああ。
向こうが“掴んだつもり”の情報に、合わせてやる。
そうすれば、さらに確信を深める」
情報担当が、少し考えてから言う。
「……つまり、ヴァルツ家は、
“正しいと思い込んだ誤情報”を、ますます信じるようになる」
「そういうことだ」
カーライルは、視線を地図から上げた。
「こちらは、決定的な証拠が欲しい。
ヴァルツ家が、どこまで踏み込むつもりなのか。
――それを、はっきりさせる」
実務担当が、低く言う。
「踏み込みすぎれば……反逆の線まで行きますね」
「……そこまで行かせるかどうかは、向こう次第だ」
カーライルの声は、静かだった。
「だが、少なくとも――
“イリスを脅して情報を引き出していた”事実と、
“それを使って何をしようとしているか”は、表に出せる」
側近は、頷いた。
「では、こちらは、警備の再配置を水面下で進めます。
北門のほうは……わざと、動きがあるように噂を流しましょう」
「頼む」
一通りの方針が決まると、部屋の空気は少しだけ軽くなった。
側近たちが部屋を出たあと、カーライルは一人、椅子に深く腰掛けた。
イリスが助かるためについた嘘。
追い詰められた末の、選択だったなら。
その嘘が、無駄にならないように。
むしろ――“逆に利用する”。
カーライルは、静かに目を閉じてから、立ち上がった。
(……次は、こちらの番だ)
ヴァルツ家が、どんな手を打ってくるにせよ。
少なくとも――今度は、後手には回らない。
窓の外には、夜の王都が静かに広がっている。
その静けさの裏で、すでに――
見えない戦いは、動き始めていた。
***
ヴァルツ公爵邸の執務室には、重たい沈黙が落ちていた。
最初に口を開いたのは、兄のほうだった。
「……来るのが、早すぎる」
苛立ちを隠そうともしない声音だった。
「いくら何でも、あれは不自然だ。
様子見も、裏取りもなしに……いきなり踏み込んでくるなんて」
父は、机の上の書類に目を落としたまま、低く答える。
「リヒターの嫡男は、感情で動く男だ。
“妻が体調を崩した”と聞けば、ああいう行動に出てもおかしくはない」
「……本当に、それだけか?」
兄は、腕を組んだまま、苛立たしげに言った。
「まるで、最初から“何かある”と知っていたみたいだった。
門の前で当主に会うことも要求せず、真っ直ぐ奥に行くなんて」
父は、しばらく黙ってから、ゆっくりと顔を上げた。
「……イリスが、何か言ったと?」
兄は、一瞬だけ言葉に詰まる。
「可能性はあるが、あいつにそんな度胸は無い」
鼻で笑う。
「言ったところで、どうなる?
“私は脅されてました”とでも言うつもりか。それで許すほどリヒターは甘くない」
父も、小さく頷いた。
「それに……あいつは、もう“こちら側のことを知っている”身だ。
今さら、裏切れば、自分の首も危うくなると分かっているはずだ」
冷たい声で、言い切る。
「恐怖は、十分に刻み込んだ。
あれは……逆らえん」
兄は、しばらく考えるように黙り込んでから、地図に視線を落とした。
父は、淡々と続ける。
「イリスが何を言ったかは分からん。
だが、リヒターがこちらを疑っているとしても、今すぐ決定打にはならない」
机の上の地図を、指で叩く。
「問題は、リヒターがどこの守りを厚くして、どこを薄くするかだ」
兄は、地図の北側を指した。
「……北門だ。
あの女の話どおりなら、ここは手薄になる」
「なら、そこを突く」
父は、静かに言った。
「商人と運送屋には、すでに手を回してある。
あとは……向こうが動くのを待って、もう一段、踏み込む」
その声音には、まだ余裕があった。
イリスが告げ口した可能性は、頭の片隅にはある。
だが、それは――“問題にならない程度の可能性”として、切り捨てられている。
彼らにとって、イリスは今も恐怖に震える“駒”でしかない。
一方、リヒター家の執務室では、別の地図が広げられていた。
カーライルは、窓際に立ったまま、側近の報告を聞いている。
「ヴァルツ家の動きは、予想通りです。
北門周辺の商人、倉庫、運送経路に、静かに手を回しています」
「……噂は?」
「ええ。こちらが流した話どおり、向こうは北門が手薄になると思って動いています」
カーライルは、地図に視線を落とした。
(……完全に、信じ込んでいるな)
実際に手薄になるのは、別の区画だ。
北門は、あくまで“目立つ囮”にすぎない。
「こちらの再配置は?」
「水面下で進めています。
表向きは大きな動きはありませんが、必要な場所には、もう手を入れています」
「……十分だ」
カーライルは、短く頷いた。
それから、少しだけ言葉を選ぶように、続ける。
「ヴァルツ家は、“彼女は言えない”と思っている。
あるいは……“言っても問題にならない”と」
側近が、静かに言う。
「慢心、ですね」
「ああ」
カーライルは、目を細める。
「恐怖で縛った相手は、最後まで自分の支配下にあると思い込む。……よくある話だ」
だが、今回は違う。
(……彼女は、こちらに話した)
それだけで、盤面は変わった。
「今は、泳がせる」
カーライルは、はっきりと言った。
「向こうが、どこまで踏み込むつもりか。
それを、はっきりさせる」
側近は、頷く。
「踏み込みが深ければ……証拠になりますね」
「……そうだ」
カーライルの視線は、地図の一点に留まっている。
(……もう、後手には回らない)
ヴァルツが動くなら、こちらは“動かせたまま”捕まえる。
***
夜明け前の王都は、まだ眠っているように静かだった。
だが、北門の外れに近い倉庫街では、いくつかの灯りが、不自然に動いていた。
荷車が一台、また一台と入ってくる。
積荷は、表向きは食料と雑貨。
だが、その下に隠されているものが、ただの荷ではないことは、手際の良さが物語っていた。
「……始めたな」
少し離れた建物の影から、リヒター家の部下が低く呟く。
その報告は、すぐに屋敷へと送られた。
リヒター家の執務室で、カーライルは短く報告を聞いた。
「北門倉庫街。
夜明け前から、不審な搬入が続いています。
人の動きも、明らかに“荷の扱い”に慣れた連中です」
「……数は?」
「十数人。表向きは商人と運送屋ですが……裏の者が混じっています」
カーライルは、ゆっくりと息を吐いた。
(……来たな)
地図の上で、北門の位置を指先でなぞる。
ヴァルツ家は、迷っていない。
“ここが薄い”と、信じ込んでいる。
「……まだ、押さえるな」
側近が、少しだけ驚いた顔をする。
「よろしいのですか?」
「ああ。
今は“準備”の段階だ。
ここで潰しても、“ただの不審な集団”で終わる」
視線が、静かに鋭くなる。
「欲しいのは、“何をしようとしていたか”が、はっきり分かる形だ」
側近は、すぐに理解したように頷いた。
「……泳がせますか」
「動きは、すべて記録しろ。
出入りした人間、運び込まれた物、連絡役……全部だ」
「はっ」
命令は短い。
カーライルは、椅子から立ち上がり、窓の外を見た。
王都は、まだ何も知らない顔で、朝を迎えようとしている。
(……イリスの嘘は、ここまでヴァルツを動かした)
それは、偶然じゃない。
追い詰められた末の選択が、今、形になっている。
(……なら)
その選択を、無駄にはしない。
「……一線を越えさせる。
越えた瞬間に――終わりだ」
カーライルは、静かにそう言った。
その頃、ヴァルツ側の人間たちは、自分たちが“見られている”ことにも気づかず、作業を進めていた。
***
「……動きました。
例の箱が、裏口から運び出されます」
報告を受けて、カーライルは短く言った。
「――今だ」
次の瞬間、倉庫街の表と裏、同時に人影が動いた。
「リヒター家の名において! その荷を置け!」
鋭い声が響く。
一瞬の沈黙。
そして――
「……ふざけるな!」
箱のそばにいた男が、叫んだ。
「ただの商会の荷だ! 何の権限があって――!」
そう言いながら、仲間に目配せする。
数人が、箱を抱えたまま走り出した。
「止まれ!」
兵が動く。
だが、男たちは必死に抵抗した。
「離せ!お前たち何の権限があって!」
取り押さえられながらも、怒鳴り散らす。
だが、その腕はすぐに押さえ込まれる。
「武装確認。抵抗あり」
「構わん、確保しろ」
短いやり取りのあと、抵抗はあっけなく制圧された。
床に転がる箱。
乱暴にこじ開けられる蓋。
中から現れたのは、短弓、刃物、破城用の工具、そして――王城周辺の詳細な地図。
さらに、別の箱からは、印章付きの書付が出てきた。
「……“王都内に展開せよ。合図は別途”……ですか」
側近が、低く読み上げる。
取り押さえられた男の一人が、顔を歪めて叫ぶ。
「違う! そんなはずはない!
これは……ただの備えだ! いざという時の――」
「王城の見取り図と、警備交代表付きの“備え”か?」
カーライルは、淡々と問い返す。
男は、言葉に詰まった。
「……それを、“王都の中枢へ運び込もうとしていた”」
視線が、冷たく落ちる。
「――十分すぎるほど、説明がつくな」
「くそ……!」
別の男が、歯噛みする。
「俺たちは……命令されたんだ……!」
「誰にだ」
男は、口を噤んだ。
だが、もう遅い。
「連行しろ。
関係者の洗い出しも同時に進める。
商会、連絡役、資金の流れ……すべてだ」
「はっ」
兵たちが、抵抗する男たちを引き立てていく。
倉庫街は、再び静けさを取り戻した。
だが――
今の叫びと、床に広がった証拠が、はっきり示している。
これはもう、言い逃れのできる段階ではない。
***
一方、リヒター家の客間で、イリスは、窓の外をぼんやりと見ていた。
身体は、まだ完全には戻っていない。
それでも、胸の奥が落ち着かないのは、理由がはっきりしている。
(……始まった、のかな)
ノックの音がして、侍女が顔を出す。
「イリス様。
カーライル様から……“ヴァルツ邸の捜索が始まった”と」
その言葉に、イリスは、思わず息を呑んだ。
「……そう、ですか」
声は、思ったよりも静かだった。
怖くないわけじゃない。
あの家がどうなるのか、考えてしまう。
でも――それ以上に。
(……私も)
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……私も、裁かれるんだろうか)
自分は、ヴァルツ家に情報を渡した。
それが“嘘”だったとしても、事実として――関わった。
(……共犯だって、言われても……)
指先が、無意識にシーツを掴む。
もし、「お前も処罰される」と言われたら。
もし、「結局、同じ側だった」と切り捨てられたら。
(……仕方ない、のかもしれない)
助かるために、嘘をついた。
その結果、誰かを巻き込んだ。
それは、消せない。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
(……カーライル様は……どう思うんだろう)
守ると言ってくれた。
休め、と言ってくれた。
でも、それと――“裁かれるかどうか”は、別だ。
イリスは、そっと目を閉じた。
(……もし、呼ばれたら)
逃げない。
言うべきことは、言う。
そう、決めたはずなのに。
心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。
窓の外は、いつもと変わらない王都の空だ。
それでも、世界は確実に動いている。
(……終わるんだ)
あの家のことも。
そして――自分の“過去”も。
その終わりに、自分は“どこに立つ”のか。
イリスは、静かに、両手を重ねた。
(……どうなっても……受け止めよう)
そう思おうとしても、胸の奥の不安は、なかなか消えてくれなかった。
***
ノックの音は、控えめだった。
それでも、イリスの心臓は、はっきりと跳ねた。
「……イリス様。少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
扉の向こうは、リヒター家の侍女の声だった。
「はい……どうぞ」
そう答えた声は、自分でも分かるほど、少し弱い。
扉が開き、侍女と、見慣れない男が二人、部屋に入ってくる。役人だろう。
その後ろに、カーライルの姿もあった。
「……無理に起きなくていい」
カーライルが、短く言う。
イリスは、ベッドの上で、少しだけ身体を起こしたまま、頷いた。
役人の一人が、穏やかな口調で切り出す。
「体調の優れないところ、申し訳ありません。
ただ、いくつか確認したいことがあります。
答えられる範囲で構いません」
「……はい」
シーツの上で、指先が、無意識に重なる。
「まず、ヴァルツ家に連れ戻されたときのことから。
どういう名目で何をしましたか?」
イリスは、少しだけ考えてから、ゆっくり答えた。
「……“体調の確認”だと、言われました。
でも……戻ってからは、外に出られなくなって……」
一度、言葉を切る。
「……部屋に、閉じ込められていました。
それで……リヒター家のことを、何か話すまで、出してもらえなくて……」
役人は、静かに書き留める。
「暴力は?」
「……ありました」
短い一言。
それでも、胸の奥が、少しだけ痛む。
質問はいくつか続いた。
食事のこと。
見張りのこと。
医師を呼んでもらえたかどうか。
イリスは、覚えている限りを、淡々と答えた。
そして、話題は――避けて通れないところへ移る。
「……リヒター家に関する情報を、ヴァルツ家に渡した件について。
事実ですか?」
胸が、きゅっと縮む。
「……はい」
視線を落としたまま、頷く。
「……王都の警備と、北門の配置について……伝えました」
そこまで言って、一度、言葉を切る。
「……でも、それは本当の情報ではなく……わざと、違う内容を伝えました」
役人の一人が、顔を上げる。
「なぜ、そんなことを?」
イリスは、少しだけ唇を噛んでから、答えた。
「……あのまま、何も言わなければ……助からないだろうと。
だから……その場で、考えつく限り……それらしいことを……」
指先が、シーツを強く掴む。
「……結果的に、迷惑をかけました。
本当に……ごめんなさい」
部屋に、短い沈黙が落ちる。
役人たちは、視線を交わし、書類をめくる。
「確認します。
あなたは、意図的に“誤った情報”を伝えた。
そして、それは監禁と暴力の下での行為だった、という認識でよろしいですね」
「……はい」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に、冷たい不安が落ちる。
(……やっぱり、裁かれるのかな)
そう思ったとき。
「あなたの行為は、結果的に、ヴァルツ家の動きを誤らせ、
王都での実行を未然に防ぐ形になっています」
役人の一人が、淡々と言った。
イリスは、思わず顔を上げる。
「……え……?」
「情報を“渡した”形にはなっていますが、
内容は虚偽で、しかも強要に近い状況です。
現時点では――」
そこで、カーライルが、静かに口を開いた。
「……彼女は、被害者だ」
はっきりした声だった。
「選択肢を奪われた状態で、そうするしかなかった。
その上で、実害が出ないように、内容をずらしている」
短く、しかし、迷いのない言い方だった。
「少なくとも、“共犯”として扱うのは、違う」
役人の一人が、少しだけ頷く。
「……現時点では、同意見です。
むしろ、重要な証言者、という扱いになるでしょう」
その言葉に、イリスの胸が、少しだけ緩む。
「……私……処罰は……?」
思わず、そう聞いてしまった。
役人は、少しだけ柔らかい声で答える。
「今のところ、その予定はありません。
あなたの証言が、事件の全容を明らかにする鍵になります」
イリスは、しばらく、その言葉を噛みしめるように、黙っていた。
(……よかったのかな……)
カーライルが、ベッド脇に視線を向ける。
その目は、責めるものではなかった。
「……無理はするな。
話は、もう十分だ」
役人たちは、軽く会釈して、部屋を出ていく。
静かになった室内で、イリスは、ゆっくりと息を吐いた。
***
昼過ぎの光が、カーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
イリスは、ベッドの上で、ぼんやりと天井を見ていた。
身体のあちこちに残る鈍い痛みは、朝よりも少しだけ引いている。
それでも、胸の奥は、まだ落ち着かない。
(……どうなったんだろう)
ヴァルツ家は。
父と兄は。
そして――自分は。
考えても答えは出ない。
ただ、時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。
控えめなノックの音がした。
「……入る」
返事を待たずに、扉が開く。
カーライルだった。
イリスは、反射的に、少しだけ身を起こそうとして――やめた。
まだ、動くのが少し怖い。
「体調は?」
「……少し、楽になりました」
そう答えると、カーライルは短く頷いた。
ベッド脇の椅子に腰を下ろし、少しだけ、言葉を選ぶような間があった。
「……報告だ」
その一言で、イリスの指先が、無意識にシーツを掴む。
「ヴァルツ公爵と、その嫡男は、正式に身柄を拘束された。
押収した証拠と、現場の証言、それから……お前の話も含めて、だ」
胸の奥が、ひくりと鳴る。
「反逆準備の容疑で、取り調べが始まっている。
商会や連絡役も、芋づる式に押さえた」
淡々とした声だった。
けれど、その一言一言が、イリスの中で、ゆっくりと意味を持ちはじめる。
(……終わった、んだ)
長い間、首にかかっていたものが、少しずつ外れていくような感覚。
「……私は……?」
気づいたら、そう聞いていた。
カーライルは、すぐに答えた。
「お前は、証言者だ。
少なくとも、この件で“処罰される立場”ではない」
少しだけ、声が低くなる。
「……もう、ヴァルツの“駒”として扱われることはない」
その言葉が、胸の奥に、静かに落ちた。
「……本当に……?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「ああ」
短い返事。
でも、迷いはなかった。
イリスは、しばらく、何も言えずにいた。
安心していいのか。
まだ、どこかで疑っているのか。
自分でも、よく分からない。
ただ――
息を吸おうとした、そのときだった。
視界が、少しだけ滲んだ。
「あ……」
頬を、何かが伝う。
慌てて、袖で拭おうとする。
「ち、違うんです……その……」
言い訳の言葉を探そうとして、うまく出てこない。
涙が、ぽろり、と落ちた。
止めようと思ったのに、勝手に、もう一粒。
悲しいわけじゃない。
怖いわけでもない。
ただ――
(……終わったんだ)
その実感が、今になって、胸に落ちてきただけで。
イリスは、何も言えなくなった。
喉の奥が詰まって、声にならない。
ただ、小さく息を吐いて、視線を落とす。
カーライルは、ほんの一瞬、迷うように視線を伏せた。
(……俺が、返した)
あのとき、連れ戻されるのを止めきれなかった。
結果、彼女は傷ついた。
その事実が、まだ、胸の奥に残っている。
だからだろうか。
気づけば、身体が先に動いていた。
カーライルは、そっと手を伸ばし、イリスの肩に触れ――
そのまま、静かに、抱き寄せた。
強くはない。
けれど、逃がさないと伝えるみたいに、確かに。
イリスの身体が、ほんの少しだけ、こわばる。
でも、すぐに、力が抜けた。
「……もう、大丈夫だ」
低い声で、そう言う。
「……二度と、あんな目には遭わせない」
それは、誰に向けた言葉なのか、自分に向けた誓いなのか、分からない声音だった。
イリスは、何も言えなかった。
ただ、胸元に額を預けて、小さく息を吐く。
カーライルは、少しだけ腕に力を込める。
言葉は、もう要らなかった。
――もう二度と、離さない。
そう、静かに決めたことだけが、その腕の力に、滲んでいた。
イリスは、その腕の中で、目を閉じた。
あたたかさに包まれている、ということだけが、はっきりと分かった。
窓の外には、いつもと変わらない王都の空。
けれど、今日だけは、少し違って見える。
(……終わった)
窓の側で、風がカーテンを揺らしていた。
***
イリスは、ソファに腰掛けて読んでいた本を閉じた。
長くは読めない。まだ、集中すると疲れてしまう。
それでも――あの日々に比べれば、ずっといい。
控えめなノックの音。
「……入るぞ」
カーライルの声だった。
「どうぞ」
書類を一束抱えたまま入ってきた彼は、部屋を一度見回してから、こちらを見る。
「……今日は、医師の診察だったな」
「はい。“無理をしなければ、もう大丈夫”って」
そう答えると、カーライルは、ほんのわずかに肩の力を抜いた。
「……そうか」
それだけ言って、書類を机の上に置く。
以前なら、そこで会話は終わっていたはずだ。
けれど、今は――少し、違う。
カーライルは、少しだけ視線を逸らしてから、言った。
「……気分転換に、散歩でもどうだ」
不器用な誘い方だった。
イリスは、一瞬だけ驚いた顔をしてから、すぐに頷く。
「……はい」
ゆっくりと立ち上がると、まだ、足元は少し心許ない。
その様子を見て、カーライルは、自然に手を差し出した。
言葉はない。
でも、拒む理由もなかった。
イリスは、そっと、その手に触れる。
庭は、やわらかな日差しに包まれていた。
花の手入れをしている使用人が、遠くで頭を下げる。
歩く速度は、自然と、ゆっくりになる。
「……ここは、静かだな」
「はい。……好きです」
少し前まで、“好き”なんて言葉を口にする余裕はなかった。
でも今は、こうして、何気ないことを言える。
しばらく、並んで歩く。
沈黙は、不思議と、重くない。
イリスは、ふと足を止めて、空を見上げた。
「……不思議ですね。
同じ場所なのに……前と、全然、違って見えます」
カーライルは、少しだけ考えるような間を置いてから、答えた。
「……新しい居場所が、できたからだろう」
イリスは、少しだけ目を瞬いて――そして、静かに、頷いた。
「……はい」
また、歩き出す。
手は、自然に重なったままだった。
握りしめるほど強くはない。
でも、離れることもない。
(……ここにいていいんだ)
そう思うと、胸の奥が、少しだけ、あたたかくなる。
イリスは、小さく息を吸って、前を見た。
今度は――
ちゃんと、自分の足で、進んでいける気がした。
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続きの溺愛パートも書くつもりなのでぜひ!




