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契約

異世界転生。

それは、漫画や小説において掃いて捨てるほど溢れている、お決まりの展開だ。

冴えない日々を送っていた現代人が、不慮の事故をきっかけにファンタジックな世界へ飛ばされ、神から与えられた規格外の「チートスキル」を武器に、美少女たちに囲まれながら英雄として成り上がる――。きっと、現実を謳歌できない誰もが一度は空想する王道の筋書きだろう。


だが、現実はそう甘くはない。

俺は、夕暮れの商店街で突然近づいてきた通り魔に、腹をブスリと刺されて死んだ。

あまりに呆気なく、そして理不尽な最期だった。


次に意識が覚醒した時、俺は「ユリウス」という名を与えられ、見知らぬ天井を見上げていた。

転生先が、類まれなる魔力を持つ王族でも、聖剣に選ばれた勇者の血筋でもなく、ただの「名もなき孤児」であったあたり――いかにも、俺らしい結果だと言えるだろう。


自分が「二周目の人生」を歩んでいるという自覚は、赤ん坊の頃からずっとあった。

しかし、生まれたばかりの赤子の肉体は、大人の意識を動かすにはあまりに未熟だった。手足は思うように動かず、脳の機能が追いつかないのか、思考には常に霧が立ち込めている。

自分がかつて「誰」であったのかを鮮明に思い出すことができたのは、ようやく物心がつき始めた五歳の頃だった。


花岸 悠月。

それが、かつての俺の名だ。

どこにでもいる平凡な男子高校生だったが、周囲からの評価は芳しくなかった。「目と、あと表情筋が死んでいる」「何を考えているか分からなくて不気味」「冷酷無情」――そんな言葉を投げかけられるのが常だった。

実際、俺は他人に興味がなかったし、世の中の情動的な出来事に心を動かされることも皆無だったから、その評価は至極妥当だと思っていた。

趣味は読書と、爪楊枝を数千本組み合わせて城を作る爪楊枝アートくらいか。


あぁ、けれど。

そんな俺の平坦な世界において、唯一、視界の端に留まり続ける「飽きさせない存在」が一人だけいた。

別に愛情を抱いていたわけでも、大切で守りたいと思っていたわけでもない。

ただ、あまりに危なっかしくて、救いようのないアホで……放っておけば、明日にもとんでもない不祥事をやらかして自滅するんじゃないか。そう思わせる危うさが、俺の乾いた好奇心をかろうじて繋ぎ止めていたのだ。


あいつは今頃、どうしているだろうか。

俺という「世話役」がいなくなって、まともに飯を食えているだろうか。

生活能力皆無のあいつのことだ、今頃どこかの路地裏で野垂れ死んでいやしないか。


「っ……」


後頭部に当たったゴムボールが、地面で虚しく跳ねる。


「やーい、ユリウス! まーたひとりで本読んでるぜー、かっこいー!」

「おい、無視かよ! 根暗野郎!」

「こっち見ろよー、「ユリウス様」よー!」


あぁ、そうだ。

俺は今、花岸悠月ではなく、薄汚れた孤児院の隅っこで古本を齧る、鼻つまみ者の「ユリウス」なのだった。


泥にまみれたガキ共の嘲笑を、俺——ユリウスは、意識の端に追いやった。

七歳という幼い身体に、十七年分の人生が完全に馴染んでから数ヶ月。かつて「表情筋が死んでいる」と言われた俺の顔面は、この世界でも健在らしい。


「……うるさい。その玩具の軌道から、次に投げる場所を予測するのは容易い。無駄な労力は止めておけ」

「あ、あぁ!?なんだよお前、気持ち悪い喋り方しやがって!」


俺は膝の上の古本に目を戻した。

この世界の文字は、形状こそ違えど、論理的な規則性があった。一度法則を掴めば、前世の詰め込み教育で鍛えた脳がスルスルと情報を処理していく。


「孤児のくせに勉強なんて」と周囲は笑うが、俺に言わせればこれほど効率的な暇つぶしはない。おかげで、この年齢にして孤児院の物置にある小難しい本は、既に読み尽くそうとしていた。


現世の俺は、何者でもない孤児だ。

だが、俺には「知能」という名の自前のチートがある。この泥溜めのような孤児院から抜け出すには、まずはこの世界の「理」を食い尽くす必要があった。


孤児という最底辺からのスタートだろうが、知力さえあればいくらでもひっくり返せる。

俺のその目論見が正しかったことは、間もなく証明されることになる。



「相変わらず、可愛げのないガキだな、お前は」


不意に、頭上から野太い声が降ってきた。

見上げれば、そこには銀色に輝く重厚な胸当てをつけた赤髪の男が立っていた。王都の治安維持を担う「蒼銀騎士団」の団長、ガルムだ。この孤児院に定期的に寄付に訪れる彼は、なぜか俺のことを気に入り、事あるごとに話しかけてくる。


「…ガルムか。今日はずいぶんと遅かったな。」

「貴族の寄付を渋る連中の尻を叩いてきたのさ。……おい、普通はそこ『お仕事お疲れ様です、騎士団長様』だろ」

「お世辞を言えば寄付額が増えるのか? 増えないなら時間の無駄だ」

「ははっ、違いねえ! どこまでも実利主義な七歳児だぜ」


ガルムは俺の隣にどっかりと腰を下ろした。騎士団長が、泥だらけの孤児と並んで座る姿は、周囲から見れば滑稽だろう。


「それよりお前、またそんな難しい『魔導回路の基礎』なんて読んでるのか。七歳児が読む本じゃないぞ。普通はもっと、こう……英雄譚とか、絵本とかあるだろ」

「英雄譚を読んでもこの国の歴史は知れないし、社会の仕組みを学ぶこともできない。無益だ。」

「無益、か。お前、その本の内容をどこまで理解してやがるんだ?」

「年齢と理解力は必ずしも比例しない。それに、この街の物価と税率の相関を見れば、いつこの孤児院が潰れてもおかしくないと分かる。生き残るための防衛策だ」

「……相関だと? ったく、その歳で国の台所事情まで透かして見てやがんのか」


ガルムは呆れたように首を振った。


「……ははっ、全くだ。お前のその死んだ魚のような目と冷ややかな計算高さには、時々背筋が寒くなるぜ。どっちが大人か分からねえな」

「老成していると言ってくれ」

「ああ、全くだよ」


ガルムは愉快そうに笑い、それから不意に真剣な眼差しを俺に向けた。


「ユリウス。お前、いつまでこの泥の中で燻っているつもりだ?」

「……何が言いたい」

「俺のところに来い。公式には『召使』だが、実態は俺の秘書兼、参謀の卵だ。お前のその知力と、何事にも動じない冷徹さ。戦場や政争の場では、剣の腕よりも重宝される……もちろん、俺直属の部下になる以上、まずは一人前の使用人として死ぬ気で修行してもらうがな」


俺は本を閉じ、ガルムを見つめた。

召使。聞こえは悪いが、騎士団長直属となれば、この国の最高クラスの教育と情報にアクセスできる権利を得るに等しい。今の俺にとって、これ以上の跳躍台はない。


「……飯は、腹一杯食えるんだろうな?」

「ああ、約束しよう。特等席の食事と、特等席の知識。そして、お前を一流の『駒』に鍛え上げる環境をな。お前のその不気味なほどの才能に、相応の居場所をやるよ」


ガルムはそこで言葉を切り、少しだけ決まり悪そうに視線を逸らして、太い指で自身のうなじを掻いた。


「……ま、『秘書』だの『参謀』だのと言ったのは建前だ。本当のところはな、ユリウス。お前、自分のことを賢いつもりでいるだろうが、端から見てると危なっかしくて仕方ねぇんだよ」

「……俺が、危なっかしい?」


予想外の言葉に、俺は思わず眉をひそめた。

俺はいつだって最適解を選び、感情に流されず、この泥溜めの中でさえリスクを最小限に抑えて生きてきた自負がある。


「ああ、そうだ。お前のその目は、いつも遠くの理屈ばかり見てやがる。足元の石ころに蹴躓いて、そのまま死んじまいそうな危うさがあるんだよ。……だから、俺の目の届く所に置いておく。それが一番確実だ」


ガルムはそう言うと、大きな手で俺の頭を乱暴に、だが温かく撫で回した。

前世でも、こんな風に理屈抜きの言葉で俺の計算を狂わせてくる奴がいたな。


「……余計なお世話だ。だが、あんたの直感には…一理、あるのかもしれない」


まずはガルムの下で徹底的に牙を研ぐ。この国の理を学び、召使としての仮面を手に入れる。その先で、俺にしかできない「仕事」を見つけるために。


俺は前世の、あの危なっかしい「あいつ」のことをふと思い出した。

俺がいなくなって、あいつは泣いているだろうか。それとも、もう新しい誰かを振り回しているだろうか。


……どちらでもいい。俺は、俺の人生を始めるだけだ。

今度は通り魔に刺されるような隙は作らない。


「いいだろう。契約成立だ、ガルム」


七歳の子供とは思えない冷ややかな笑みを浮かべ、俺は差し出された無骨な手を握った。

花岸悠月としての静かな理知と、ユリウスとしての新たな野望。

泥の中から、俺の二度目の物語が動き始めた。

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