第7話 安眠亭:バルト:エレナ
「仕立て屋エルフィン」を出ると、右隣に宿屋があった。
看板には「宿 安眠亭」と書かれている。こじんまりとした佇まいで、少々年季の入った建物だが、窓から漏れる温かな光が疲れた体に心地よかった。
携太は扉に手をかけようとするが、右手には麻袋、左手には甚平を持っているため、少しまごついてしまう。
すると、急に中から人が飛び出してきた。
「わっ!」
中学生くらいの女の子が躓いて携太にのしかかってきた。
ドスン!
その拍子に、女の子が持っていたゴミ袋が携太の顔面に直撃した。
荷物は死守したが、顔がジーンとする……。
我慢しているが、声にならない呻きが漏れた。
「す、すみません! お怪我はありませんか?」
目の前には、顔を真っ赤にして申し訳なさそうに立っている女の子がいる。温かみのあるオレンジのような茶髪が肩まであり、毛先がクルンと跳ねている。黄色い瞳が心配そうに携太を見つめていた。
「平気だよ。ちょっと痛かったけど……」
携太は思わず顔をさすった。
奥から店主と思われる40歳くらいの男性が急いでやって来た。小さなメガネをかけた痩せ型の男性で、ラフな格好をしている。
「申し訳ございません! お怪我はありませんか? うちの娘が……」
男性は本当に心配そうな表情を浮かべている。髪はフサフサだが、所々に白髪が混じっている。
「問題ないです……。それより、今日から暫く利用させてもらいたいのですが……空き部屋はありますか?」
携太は立ち上がりながら聞いた。
「今日の空きはありますよ。何日お泊まりの予定で?」
男性が尋ねる。
「んー、決めてはないのですが……とりあえず一ヶ月ですかね」
「一ヶ月! それはありがたい。……ところで、どちらから? 武器もお持ちではないですから、冒険者じゃないのかなと」
確かに、武器だけでなくバッグなども持っていないから、尚更疑問に思われるだろうと携太は思った。
「実は……ちょっと記憶が曖昧で……あまり覚えていないんです」
携太は誤魔化すことにした。異世界から来たと言えたらどんなに楽なことか。召喚が禁忌でさえなければと思う。
「記憶が……」
男性が驚きと心配の表情を見せる。
「ええ。気がついたらこの街のお城にいたんです……お金は持っていたんですが、どこから来たのか、何をしていたのか……よく覚えていないんです。なんでも悪党に連れられてこの街にいたところを、この国の兵士の方が助けてくださったんだとか……」
「それは大変だ……」
男性は本気で心配してくれているようだ。
携太は悪い気がしてきた。嘘をついてごめんなさいと心の中で思う。
「あ、すみません、とりあえず中へどうぞ」
店主が中のカウンターへと案内する。
少女は、宿屋と仕立て屋の間のスペースに、ゴミ袋を置きに行った。
◆
店内は質素だが清潔だった。
入ってすぐ左手に木製のカウンターがあり、その上には帳簿が置かれている。壁には部屋番号の札が付いた鍵が掛けられている。右手には階段が見え、奥には小さな食堂スペースがあるようだ。いくつかのテーブルと椅子が置かれている。
壁には色褪せた絵画が飾られている。床の木材もところどころ傷んでいるが、丁寧に掃除されており、埃一つない。
決して豪華ではないが、温かみのある宿だった。
「私はバルト、この宿の主人です。こちらは娘のエレナ」
バルトが自己紹介をした。
エレナが戻ってきて、携太に会釈をする。小柄な体にオーバーオールを着ていて、とても可愛らしい。
「先ほどは本当にすみませんでした」
「気にしないで!」
携太は笑顔で答えた。
「携太です。よろしくお願いします」
「それでは、一ヶ月ですね。一泊3,000イエンですので、三十日分で90,000イエンになりますが……長期でのご利用ということで、15,000イエンお値引きして、75,000イエンでいかがでしょう?」
「助かります。あ、食事は含まれていますか?」
携太が尋ねると、バルトは少し困った顔をした。
「今はやってないんです。食堂はありますが……あれは妻が生きていた頃の名残でして……。私が料理が得意だったら良かったのですが……」
「あぁ、すみません、余計なことを聞いてしまって」
「いえいえ、食事ができると思われてもおかしくないですよ! ただ……撤去することもできないので、談笑スペースにしております」
「なるほど。わかりました。では30泊、75,000イエンでお願いします」
携太は麻袋から金貨を取り出そうとした。
その時だった。
ピピピピピ!
電子音が鳴り響いた。
「……?」
携太が固まる。
(この音……俺のスマホのアラーム? 元の世界で設定していた、定時の17時30分を知らせるアラームだ……)
残業続きだった携太は、できる限り定時で帰りたいという思いから、アラームを設定していた。それが今、鳴っている。
バルトとエレナは、不思議そうに携太を見ている。
(もしかして……二人には聞こえていない?)
携太の心臓が早鐘を打つ。
スマホ……。
携太がスマホのことを考えた瞬間、目の前にスマホが出現した。
空中に、ふわりと浮かんでいる。
「え!?」
携太が驚く。
「なんだその板!?」
バルトは驚きのあまり、ため口になっていた。そして後ずさりする。
エレナも口と目を大きく開けたまま、壁際まで後退していた。
バルトもエレナも、魔法や魔道具の類はもちろん知っている。だが、何も構えずにアイテムを出現させるなど見たことがない。一体何なんだ、これは……。
◆
携太は、このスマホとともに異世界へと召喚された。
この世界でのんびりと過ごすのか。それとも、この世界に何らかの影響を与えることになるのか。
手違いで召喚されてしまった男の、異世界での物語が始まる……。




