終章『島に降るもの』
教室の蛍光灯の下、明日香はスクリーンに最後のスライドを投影した。
「これは、サイパンに残された記憶たちです」
背後のスクリーンには、ジャングルの中で錆びついた九五式軽戦車、夜の高角砲、崩れかけた発電施設、そして海中で静かに沈む輸送船の写真が順に映し出されていた。彼女はシリーズで撮りためた映像とフィールドノートを元に、卒業研究としてこの記録をまとめていた。
だが、教室は静まり返っていた。プロジェクターのファンの音だけが空回りしているように響いていた。
「……なにが言いたいの?」
前列の男子学生が、小声でつぶやくのが聞こえた。
明日香は一瞬、答えを失った。
彼らにとってそれは「昔の戦争」「遠い島の話」にすぎないのかもしれない。
彼女が歩いた熱帯の湿ったジャングルも、夜に聞いた幻のような砲声も、海の底で見上げた戦車の砲塔も——教室の冷房の効いた空気の中では、ただの“余談”に過ぎないのか。
教官が拍手を促すように軽く手を叩いた。それに続いて数人が形だけの拍手をした。
講義後、明日香は教室を出た。
夕暮れの光の中で、彼女は大学の屋上に登った。
手すりに両肘を預け、彼女は空を見上げた。
——サイパンの空は、蒼かった。
あの島の空には、いくつもの音が降っていた。
かつて降った爆弾の音、飛び交った機銃の音、夜の発電機の低いうなり声。そして、砲手が見た空、兵士が迎えた夜、誰にも知られず沈んだ声。
それらが“何か”を訴えていることに、明日香は気づいていた。
彼らは、自分のために生きたかっただけなのだ。
国家のためでも、皇国のためでも、民主主義のためでもない。
ただ、生きて、何かを守り、誰かに帰りたかった。
そしてその思いのすべては、あの島の空に、降り注いでいた。
明日香の目に、ひとしずくの涙がにじんだ。
だがそれは悲しみではなかった。
誰にも伝わらなかったとしても、
自分が聞いた声、自分が見た記憶。
それは確かにあった。
そのとき、雲間から一筋の光が射し込んだ。
彼女にはそれが、M4の砲塔の先にあった“高台”を照らしているように思えた。
サイパンの、あの岬で見上げた空と、同じだった。
——記録とは、誰かに見られるためではない。
——それは、見つめ続けるという行為そのものなのだ。
明日香はスマートフォンを取り出すと、最後のフィールドノートに一文を打ち込んだ。
「この空の下、声なき者たちは、確かに生きていた」
風が静かに吹いた。
——そしてその物語は、いまも降り続けている。
(了)