第5話『海の底の国境』
サイパンの朝。明日香は海岸沿いの小さな港で、マヌエルと合流していた。今日は彼の知人であるダイビングガイド、ルカスの案内で、沖合の沈没船に向かう。
「昔からこのあたりに沈んだ輸送船があるって話だったんだけど、最近になってGPSでほぼ位置を特定したんだ」
ルカスの声には興奮が混じっていた。
小型船で約30分。海の色が青から深い群青に変わるころ、明日香は器材を背負って海に身を沈めた。
海中は静かだった。魚影もまばらで、水温もわずかに低い。光の届かぬ深みへと進むにつれ、巨大な影が現れた。
それは、船だった。
船体は斜めに傾きながら、海底の砂に埋もれていた。船首から艦橋までの構造がほぼ無傷で残り、側面にはくっきりと「帝国陸軍 輸送船第七號」の文字が読み取れた。
「戦時中のままだ……」
明日香は心の中でつぶやいた。
艦内に入ると、すでに木製部分はほぼ腐食し、鉄骨だけが露出していた。それでも船倉の一角には、異様な光景が広がっていた。
積載されていたのは、砲弾・火器・糧秣・薬品――戦闘に出る直前の部隊に向けて運ばれるはずだった装備品の数々だった。
そのなかには、分解された九七式中戦車の車体と砲塔までが梱包された状態で残されていた。
「出撃寸前に、島への輸送が間に合わなかったんだろうな……」
ルカスの通信が耳に届く。
兵器は「使われる前に」ここに沈められた。
明日香はふと、その装備が送られる先にいたかもしれない兵士たちの顔を想像した。彼らはこの装備を待ち、足りぬ火力の中で散っていったのかもしれない。あるいは、この船がたどり着けば、何人かは生き残っていたかもしれない。
だが、船は沈み、物資は海の底で眠っている。
そして兵器たちは、一度も祖国に戻ることなく、「ここ」で時間を止めていた。
明日香は錆びた戦車の砲塔を撫でる。その冷たい鉄に、なぜか静かな温度を感じた。
船倉の隅には、ひとつの木箱があった。中には壊れかけた双眼鏡と、濡れてぼろぼろになった一冊の帳簿が残されていた。
《第七號輸送任務記録 昭和十九年六月》
そこには、積荷一覧とともに、「第二野戦病院補給分」「西岸防衛隊用弾薬」「遺族宛未送金軍資金」の記載もあった。
未送金軍資金――国家から兵士へ、兵士から家族へ。だが、それらはすべて、この船の中で止まっていた。
「この船が、届かなかった分だけ、歴史が変わっていたかもしれない」
明日香は帰還後、ダイビング記録を保存し、映像と共に資料館へ提供するつもりだった。
海の底に眠るこの船は、ただの残骸ではない。国家の限界と戦場の現実、そして“帰らなかった兵器”という無言の証人だった。
上昇していく途中、海中を見下ろすと、船がまるで国境線のように、海底を横断しているように見えた。
「ここが、海の底の国境……」
明日香は静かにその言葉を呟いた。
戦争は終わっても、境界線は残る。それは地図の上ではなく、記憶と歴史の底に存在するのだ。