第4話『ディーゼルの記憶』
島の北端にほど近い断崖地帯。その一角にぽつんと取り残されたようなコンクリートの廃墟がある。旧日本軍の発電所跡だった。壁面のあちこちは黒く煤け、天井はところどころ抜け落ち、コンクリートの梁がむき出しになっている。だが不思議なことに、建物の下層に続く鉄の螺旋階段だけは、異様なまでに錆びていなかった。
明日香は、現地の電力会社がこの地を観光資源として整備しようとしているという話を聞き、現場を訪れていた。島の青年マヌエルが同行する。彼の祖父は、米軍上陸以前の混乱の中で島を離れられなかった数少ない現地民の一人だったという。
「ここはね、夜になるとエンジン音が聞こえるって、子供の頃から言われてるよ」
マヌエルの言葉に、明日香は笑い飛ばさなかった。むしろその“音”を確かめに来たのだ。
地下への階段を降りると、そこは音を吸い込むような静寂の空間だった。コンクリートの壁面に記された墨のような記号。手書きの注意書き。「燃料搬入口」とかすれて読める古びたプレート。そして隅の物陰に、木箱があった。
それは軍用の工具箱だった。開けると、中には整然と並べられた工具にまじって、ノートと写真が収められていた。
ノートには、ひとりの整備兵の筆跡で綴られた日記があった。
《一九四四年 七月十五日 今夜は二基とも回している。沖からの砲声が近い。だが、音が届かないとここでは錯覚するほどだ。……発電機の脈動の中にいると、まるで外の世界と切り離されたような感覚になる。》
明日香はページをめくるたびに、重油の匂いと金属の振動を幻聴のように感じた。
《八月六日 民間の娘が数名、避難壕から送られてきた。発電室の隅に毛布を敷いてやった。彼女らは驚くほど静かだ。ディーゼルの低音が子守唄のように響いているのかもしれない。》
そこには、戦場とは異質な、静かな生活の記録があった。爆撃の只中でも、人々は明かりを、そしてその下での小さな安堵を求めていた。
《八月十七日 最後の燃料缶に手をつけた。これが尽きれば、すべてが闇に包まれる。……それでも、灯りを絶やすわけにはいかない。》
ページの最後には、こう記されていた。
《この灯りが誰かのためにあると信じたい。たとえ国が忘れようと、ここにいた者たちがいたことを。》
明日香はしばらく箱の前で立ち尽くしていた。気づくと、コンクリートの天井の隙間からひと筋の光が差し込んでいた。
その光の中で、彼女は確かに聞いた。深い地響きのようなディーゼル音が、低く、ゆっくりと響いていた。
それは亡霊のうめきではなかった。かつてここに生きた人々の、生活のリズムだった。夜のなかにともる灯火だった。
「この場所、保存すべきだと思う」
明日香がつぶやくと、マヌエルはうなずいた。
「声なき者たちの場所だからね」