第3話『高角砲の夜』
月は高く、サイパンの夜空をぼんやりと照らしていた。
大谷明日香は、崩れかけた旧司令部のそば、12センチ高角砲の脇に設営したテントの中で毛布にくるまっていた。風は柔らかく、しかしどこか金属的な響きを含んで吹いてくる。風が砲身をかすめ、低いうなりを発するたび、明日香はその音を耳の奥で拾っていた。
眼前の砲は、まるで生きているかのようだった。
それは、あまりに原型を保ったまま高台に据えられていた。角度調整の歯車、砲架の継ぎ目、観測機器用のアーム、すべてが時間の中で風化せず、むしろ戦後80年近くの時間がその存在をより“異物”として強調させていた。
「守るための武器だったんだろうか……」
明日香は思わず独り言をつぶやいた。近くにあった焚き火が、パチリと爆ぜて応えるように音を立てた。
焚き火を囲うように並べた煉瓦は、発電所跡から運んできたものだった。彼女は今日一日、山道を登ってこの高台にたどり着き、かつてここが“最後の防空ライン”だったことを現地の古い地図で確認していた。
高角砲の横には小さな台座があり、そこには錆びた銘板が打たれていた。
「第四五高射隊」
その文字は、辛うじて読めるほどにかすれていた。
その夜——明日香は夢を見た。
……。
風が、熱い。
空は真昼なのに、灰色に染まり、黒煙がもくもくと上がっている。
明日香——否、“誰か”の視点が砲架の裏側にいる。
胸に感じるのは鉄の鋲が留められた胸当て、耳元には隊長の怒号が飛び交う。次の弾が装填される。
「敵襲! 南東より艦載機二十、接近中!」
声が響く。自分の両手が汗ばんだ手袋越しに砲尾を操作している。
「俯角五、仰角六、測距一七〇〇!」
金属音とともに機構が動き、砲身が角度を変える。目の前のスコープ越しに、太平洋上の艦載機が黒い点として近づいてくるのが見える。
「撃てっ!!」
反動で身体が揺さぶられ、砲煙が吹き出す。耳がジーンと鳴り、地面が震える。
また装填。煙と火薬のにおい、喉が焼けるように痛い。
背後で誰かが倒れた。「……衛生兵!」
仲間の一人が担ぎ出される。だが誰も動揺せず、ただ無言で次の弾を詰め、照準を合わせる。
これは夢だ。
でも、明日香にはわかっていた。これは、ここで実際に生きていた誰かの記憶だ。
——そして夢の最後に、誰かがつぶやいた。
「守るための砲じゃない……
……命令を待つための砲だった」
……。
朝、明日香は目を覚ます。
砲は、静かに佇んでいた。昨夜と変わらぬ角度で。
テントの入り口から外を見ると、焚き火は消えかけ、灰が風に舞っていた。
彼女は砲の台座に歩み寄り、昨夜の夢の中で見た通りに砲尾に触れた。
金属はまだ、温かかった。
明日香は深く息を吐いた。
この地にいた彼らは何を「守る」はずだったのか。島か、国か、人か、それとも……
彼女には、はっきりとした答えはなかった。
だが、記録しようと思った。
夢の中で“彼”が操作していた角度、座標、観測記録をそのままノートに記す。
「語られない記憶」も、記録という形で残すことができるなら、それが研究者としての、せめてもの“祈り”だ。
風がまた、砲身を撫でた。
あの夢は幻だったのか、それともこの島に残された“想念”だったのか。
彼女は背負ったカメラを砲の陰に据え、三脚に固定しながら、ポツリとつぶやいた。
「夜明け前に、撃った砲の音。
……あれは、あなたたちが最期まで“いた”という証ですね」
カメラのシャッターが切られた。
サイパンの高台に、今朝もまた、変わらぬ空が広がっていた。